目次
フィールドの影像
凡例
第一章 序論――人格論と社会性の人類学
一 愛のマリノフスキー
二 変容可能性
三 時計の針を巻き戻す
四 あらゆる人々の創造性を解き放つ
五 切断=拡張する思考
六 本書の目的と構成
第二章 人格と贈与
一 人格贈与の人類学
二 フィールドライフ
三 異文化への道
第三章 身体に内在する社会性と「人格の拡大」
一 人類学の人格論
二 身体と血縁の理論
三 身体と感情の理論
四 「重みを置く」
五 考察――関係の非生産へと向かう人格
第四章 狂気と賭けられた生
一 人類学の人格論、再論
二 エンガ州サカ谷における狂気の理論
三 「重みで気が狂う」
三 考察――関係の連鎖の外部にはじかれた人格が穿つ「裂け目」
第五章 調査地の日常
一 パプアニューギニアの概要
二 ニューギニア高地エンガ州サカ谷の概要
第六章 「白人」になる
一 白人性研究
二 植民地統治から独立へ
三 植民地統治と白人性の希求
四 キリスト教の実践による白人性の獲得
五 考察――革新の行為、慣習の拡張
第七章 血縁とサブスタンス
一 サブスタンス論
二 クラン間の「母親」と「息子」
三 人生と血縁
四 キリスト教による母方親族への贈与の否定
五 葬儀における「母親」と「息子」の長い語り
六 事例考察Ⅲ――切断から生まれる関係性
第八章 敵と結婚する
一 戦争の論理
二 婚姻と戦争
三 紛争の拡大性
四 クラン間の紛争と仲裁
五 考察――姻族・母方親族の関係が「覆い隠される」とき
第九章 感情の仲裁
一 感情の仲裁
二 争いの処理方法
三 「重み」が返っていく
四 親密な血縁者との争いのゆくえ
五 次への通過点
第十章 村落裁判による競合
一 村落裁判導入の歴史
二 村落裁判の特徴
三 村落裁判に訴える
四 「外部」権威による血縁者間の競合の正当化
五 考察――仲裁と村落裁判の相互包含的な関係
第十一章 考察――社会的身体
一 内在的な社会性
二 社会的身体
あとがき
参照文献
索引
内容説明
身体に内在する社会性と「人格の拡大」。
幾重にも張り巡らされた贈与交換の網の目。紛争や軋轢から生じる怒りや悲しみの感情。尽きることなき激情と希望、怨嗟と賭けられた生、その人々のひしめきの総体を、贈与論、人格論、社会的身体論の理論から描き出し、人間の変容可能性を展望する新たなる民族誌。
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まえがき
物語は、いかようにも語りうるが、どこかから始めなければならない。人類学のフィールドワークに基づく民族誌(ethnography)という物語を書き始めるにあたって、まず私がどのように自らのフィールドを選定し、生涯つきあうことになるであろう大切な人々と出会い、研究テーマを決めるに至ったのかについて述べておくことは、あながち的外れなことでもないだろう。まずは堅苦しい文章ではなく、ひとつのエッセイを置くことで、この物語の幕を開きたい。
* * *
パプアニューギニアでの長期調査において、私がフィールドを選ぶ基準は単純なものだった。それは、長く居られるところ、というものだ。「長期」調査の対象となる場所なのだから当然といえば当然なのだが、私にとって、この基準は特別な意味をもっていた。
二〇〇六年七月から八月にかけて、私は予備調査として短期間、パプアニューギニアの高地に滞在した。訪れた先は、ニューギニア高地のエンガ州にある、世界第三位の金埋蔵量(当時)を誇るポルゲラ金鉱山だ。
ポルゲラ金鉱山では一九八〇年代から、カナダに拠点を置くプレイサー・ドーム社(Placer Dom)が操業を始め、二〇〇六年以降はバリック・ゴールド社(Barrick Gold)が開発を行っている。周辺には簡素な鉱山街がつくられ、鉱山開発地区に土地をもつランドオーナーたちは、開発企業から多額の土地使用料を受け取っている。当時の私の目的は、この鉱山で、土地使用料をめぐるポリティクスや、高額のロイヤリティを元手にしたビジネス、それらの現金が投入されるであろう様々な種類の贈与交換、そして、そこでの人格(person)のつくられ方を調査することにあった。
しかし、結局、ポルゲラ金鉱山をその後の長期調査のフィールドとすることはなかった。理由はいくつかあったが、主なものは土地争いの多さと、銃だった。鉱山開発では、それ以前には現金価値をもたなかった土地や河川に、外部の鉱山会社が多額の使用料や補償金を支払うようになる。その結果、土地所有が莫大な利益を生み、激しい土地争いが頻発するようになった。そのうえ、銃の流入が事態を悪化させていた。
私の滞在のあいだにも、隣村の男性一人が土地争いを原因として殺害され、それに対する報復がなされていた。私自身、ある土地をめぐる対立図式のなかで、多少危ない目に遭ったこともあり、日本に帰国してから指導教員と相談し、別のフィールドを探すことに決めた。そのときにもらったアドバイスが「フィールドは、長く居られるところを探すといい」というものだった。
二〇〇七年、再びニューギニア高地を訪れ、今度はポルゲラ金鉱山をスタート地点にして、フィールド探しの旅に出た。その途中で、サカ谷(Tsaka Valley)という地名を幾度か耳にした。聞けば、サカ谷とは「緑の谷」という意味らしい。どうやら、エンガ州のなかでも比較的暖かく、実りの豊かな土地らしかった(ちなみに、パプアニューギニアは赤道のすぐ南に位置するが、内陸部は急峻な山々から成り、なかでもエンガ州は標高二〇〇〇m以上の地域が多く、夜の気温は一五℃以下に冷え込む)。旅の途中で、たまたまバス停で出会ったウィンという男性がサカ谷から来たと聞いて、私はそれまでなんとなく惹かれていた「緑の谷」へ、彼と一緒にむかうことにした。
ウィンの住むM村に着いたのは、夜の九時過ぎだった。バス停からランドクルーザーに乗って二時間ほどして降ろされ、真っ暗な道を右も左もわからないまま一時間ほど歩くと、暗闇のなかにポツンと眩い光が見えてきた。村人たちがジェネレーターで電気を灯し、夜市を開いていたのだ。ウィンの妻は、私をその市場のど真ん中に連れてゆき、「日本からゲストが来たぞ!」と叫んだ。そのとき、誇張ではなく、まさに一斉に、市場の人々が大きな歓声を上げたのだった。私は突然のことに、ただ圧倒された。まだ言葉も交わしておらず、彼ら/彼女らの顔さえもはっきり見えていなかったが、自分が歓迎されていることが全身に伝わってきた。ここに到着するまでは、エンガ州の各地をまわってからフィールドを選定しようと考えていたが、人々の歓声にそんな考えは一気に吹き飛ばされた。
その晩、ウィンの家で、私はM村を調査地とすることに決めた。直感だが、どのような状況があろうとも、こここそが長く居られるところだ、そう感じたのだ。
フィールドを決めたのが、そんな直感だったならば、調査テーマを決めたのも同じように直感だった。当時、鉱山開発の調査をすることができなくなり、私は正直、なにを調査すべきか途方に暮れていた。そんな折り、ウィンと二人で都市に買い物に出る機会があった。二人で険しい山道を進んでいると、歩き慣れない私が遅れてしまい、自然と二人の間に距離があくことがある。鬱蒼とした森のなかを通る道は、くねくねと蛇のようにうねっており、すぐにウィンの背中が見えなくなった。すると、しばらくしてから、ウィンが凄まじい剣幕で私のところに走ってきた。彼は私の顔を見るなり「何をしている⁉ 俺はお前の姿が見えなくなったから、敵がお前をさらったかと思ったぞ!」と怒鳴った。彼の右手に目をやると、拳より大きな石が、しっかりと握られていた。それから彼は脱力して、大石を地面に放り投げ、「行こう」とだけ言った。
エンガ州の人々は、人類学で父系クラン(氏族)と呼ばれる親族集団のまとまりのなかで暮らす。クランを単位として村落が形成され、土地が所有される。その土地で、人々は畑を耕し、サツマイモやバナナ、サトウキビを植え、豚を育てて、家を建てる。
子どもは代々、父親のクランに属し、息子ならばその土地に残って生涯を送り、娘は他のクランの地に婚出する。ウィンが「敵」と呼んだのは、他クランのメンバーのことだ。エンガ州では、伝統的にクランとクランは、弓矢を使った小規模な戦争を繰り返してきた。そうした戦争は、オーストラリア植民地期に一旦収まったものの、一九七五年の独立後に再び復活し、さらに一九八〇年代以降は、銃が用いられるようになったこともあって、戦いは以前にも増して熾烈なものとなった。後になって知ったことだが、エンガ州のなかでもサカ谷は、かつて「バトル・フィールド」と呼ばれたほど戦争の激しい地域だった。二〇〇〇年以降、この地域では戦争が収束しているが、クラン間の緊張関係は今も残り、なにかの拍子に小競り合いが生じることも珍しくない。
この出来事もあって、私は調査テーマに、クラン内外の紛争とその処理を加えることにした。それから数ヶ月、さしたる発見もないまま、漫然と月日が流れていった。だが、二〇〇八年の一月に、その事件は起きた。ある日の夜、村の道端で、若い女性が卒倒し、近くの家に担ぎ込まれたのだった。それから数日間、村ではその事件が頻繁に噂されるようになった。彼女が倒れた理由は、過去にある女性が、彼女を呪って死んだせいだという。少し調べてみると、クラン内(正確には血縁関係の範囲内)の紛争で生じた怒りや悲しみは「重み(kenda)」と呼ばれ、現地語で「重みを置く」と呼ばれる呪いとなって、相手に災厄をもたらすとのことだった。一旦、「重み」について調べだすと、それまで見ていた村の景色が、一気に異なる相貌をもって立ち現われてきた。私が単に病に伏していると思っていた男性が、実は、土地を争った兄弟の「重み」ゆえに体の自由を奪われていたこと。「イキシ(Ikisi)」という男性の名が、親族の呪いで、大勢のリニージ成員が死ぬなかで「一人だけ残った(iki sii)」という意味であること。系譜関係を聞き取るなかで知った、未婚のまま亡くなった男女が、争いと呪いで命を落としていたこと。
「重み」の存在に気づいたのは、フィールドに入って丸々八ヶ月も経ってからのことだった。同じ場所にいながら、八ヶ月ものあいだ全く自分には「重み」が「見えなかった」ことに愕然としつつ、はじめて、この土地の意味世界に一歩、足を踏み入れたような感覚を覚えた。またも直感的に、私はこの「重み」を調査の中心テーマに据えることに決めた。今思えば、あの時点から私にとっての本格的なフィールドワークが始まったように思う。早速、クラン内外の紛争や、その仲裁、そして村落裁判を「重み」の観点から捉え直すことを考えはじめた。
二〇〇九年一月、私は長期調査を終えて「緑の谷」を離れ、帰国した。そして、博士論文の執筆に取りかかった。論文を書く過程で感じたのは、日本とパプアニューギニアの物理的な距離だけではなく、フィールドでの経験を対象化することによる、心理的な距離の開きのようなものだった。調査当時に生き生きとしていた経験とその記憶は、小片に切り刻まれ、論理的構成物のなかへと押し込められることで、味気ない冷めた記述へと変貌してしまう。そのことが、私はどこか寂しかった。ニューギニア高地の友人たちが、遠くにいってしまうような気がして。そこでの救いは、事例をかなりの程度まとまったかたちで提示することが許される人類学の民族誌の形式だったが、それでも時間の経過が否応なく、フィールドの現実感を薄れさせていく。それは同時に、親しくしていたM村の友人たちを忘れることでもあるようで、罪悪感をともなった。
ただ、私が日本でそんなことを考えているあいだに、サカ谷にもいくつかの変化があった。そのひとつは、携帯電話が急速に普及したことだ。私は手紙で自分の電話番号を教えていたので、村の人たちが電話をかけてくるようになった。ある日、ホストファーザーが電話をかけてきて、こう言った。「娘が婚資で豚をもらい、お前に一頭くれるそうだ。この豚をお前のために育てたいんだが、エサ代が足りない。この豚は、今度お前が来たときに一緒に食べる豚だ。ただ、エサ代がなくて、大きくならないんだ(エサ代を送ってくれ)」。こうした電話を受けるたびに、一気にニューギニア高地の村の現実に引き戻され、早く戻って来い、とせかされているような気になる。本当に、彼らとは長いつきあいになりそうだ。
* * *
物語は走り出した。こうして私はニューギニア高地エンガ州サカ谷の人々と深く関わり合うようになり、クラン内外の紛争とその仲裁、「重み」の感情、そして呪い、すなわち「重みを置く」と呼ばれる事象について、人類学のフィールドワークを行うようになった。そうした調査の成果は、最終的には、本書の最終章(第十一章)の考察にある「社会的身体」の議論へと結実していく。だが、そこに辿り着くまでには、まだまだ長い道のりがある。まずは、序論の扉を開くことから始めよう。
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★第50回澁澤賞(公益信託澁澤民族学振興基金、2023年11月6日、受賞決定)。
http://www.sfes.jp/past/shibusawa_award/50/shibusawa50.html
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著者紹介
深川宏樹(ふかがわ ひろき)
1981年生まれ。2013年、筑波大学大学院人文社会科学研究科歴史・人類学専攻博士課程を修了。博士(文学)。
現在、兵庫県立大学環境人間学部、准教授。
専攻は、文化人類学、社会人類学。
主な著書に、『21世紀の文化人類学――世界の新しい捉え方』(新曜社、2018年、共著)、『交錯と共生の人類学――オセアニアにおけるマイノリティと主流社会』(ナカニシヤ出版、2017年、共著)、主な論文に、「紛争の「重み」、感情の仲裁――ニューギニア高地エンガ州サカ谷の事例から」(『文化人類学』82巻4号、2018年)、「身体に内在する社会性と「人格の拡大」――ニューギニア高地エンガ州サカ谷における血縁者の死の重み」(『文化人類学』81巻1号、2016年)、翻訳として、マリリン・ストラザーン「歴史のモノたち――出来事とイメージの解釈」(『現代思想』44巻5号、2016年)。
また、本書の一部のもととなった論文に対し、日本文化人類学会第13回日本文化人類学会奨励賞を受賞。