目次
序論 秦腔と芸能教育の学校化
一 はじめに
二 本書の問題関心
三 従来の芸能研究の視点
四 本書のめざすもの
五 本書の構成
第一章 陝西省西安市と秦腔
一 調査地について
二 秦腔とは
三 秦腔の芸能的特徴
四 秦腔と民俗文化
五 秦腔の現状
第二章 俳優教育の歩みと調査の概要
一 秦腔の俳優教育の歴史的背景
二 新中国の演劇学校に関する研究
三 調査の概要
第三章 稽古現場からみた俳優教育
一 芸の教授・学習過程への視点
二 演劇学校について
三 俳優教育の特徴
四 稽古現場の概要――ある日の稽古
五 身体構築過程としての稽古――段階的な身体作り
六 教育目標としての“個性” ――芝居の稽古の基本目標
七 教育方法としての口伝――その重要性と位置づけ
八 学習資源としての「銅鑼・太鼓」言語――稽古に介在する言語実践
九 稽古現場における師弟関係――芝居の教師の特徴
まとめ
第四章 組織的文脈における俳優教育
一 徒弟教育とは
二 演劇学校の組織構造
三 入学の過程――人材選別の始まり
四 役柄選別と役柄別修業――役柄が決まる仕組み
五 身体条件や能力に応じた教育的配慮(因材施教)
六 定期試験――その三つの側面
七 教授法の変容――芸能教育の近代化の一側面
八 卒業の過程――プロの役者への道
まとめ
第五章 芸能教育の学校化を考察する
一 学校化とは
二 芸能教育の学校化とは――秦腔の事例からみえるもの
三 秦腔の俳優教育の今後――芸能教育の学校化の行く末
四 学校化のもたらす問題――教育効果をめぐる複数の解釈
五 秦腔の俳優教育のその後
六 学校化の比較考察
まとめ
結論
あとがき
参考文献
演劇関連用語の解説
索引
内容説明
京劇の形成にも関わった地方劇の一つ「秦腔」。本書は、その教授・学習の現場から芸能と教育の関係を捉え直す試み。文学・音楽・舞踊・雑技・美術などの表現手段を融合した総合芸術の成り立ちを、俳優すなわち人間の教育という側面から分析した画期的な論考。(第1回東京大学而立賞受賞)
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序論 秦腔と芸能教育の学校化
一 はじめに
本書は、秦腔(陝西地方の地方劇)と呼ばれる中国伝統演劇の俳優教育に関する文化人類学的な研究である。本書で秦腔を取りあげるのは、それが京劇や崑曲ほど日本では知名度がなく、日本語資料もほとんど存在しない珍しい存在だからではない。確かに、中国の地方劇そのものに関しては、これまで日本人による本格的な調査研究があまり行われてこなかったので、京劇の形成にも関わった地方劇のひとつの重要事例であり、中国伝統演劇史のなかでは重要な位置を占める秦腔の研究は、高い情報価値をもつだろう。しかし、筆者は、芸能教育研究、さらには、教育研究一般という文脈においてこそ、秦腔の俳優教育研究は大きな意義をもつと考える。
では、秦腔の俳優教育には、具体的にどのような魅力があるのだろうか。端的にいえば、筆者は、秦腔演劇界の伝統演劇学校(以下、演劇学校)という俳優教育組織に大いなる魅力を感じている。なぜなら、それは、激動の中国現代史のなかで、徒弟制から段階的に学校化してできた教育組織であり、おもに徒弟教育の事例に注目してきた従来の芸能教育研究に、学校教育をとおした芸の教授・学習に関する新たな知見をもたらすからである。さらに、それは、芸能教育の学校化とはいかなる過程であり、芸能教育以外のそれとはどのような違いがあるか、という芸能教育研究の範疇を超えた、教育研究一般にも貢献できるような問題をも考えさせてくれるからである。
秦腔のような中国伝統演劇は、文学、音楽、舞踊、雑技、美術などの表現手段をとおして、歴史上、あるいは、文学作品上の人物を演じる総合芸術として知られている。そして、中国文化の多様な要素を含む魅力的な演劇であり、舞台上の演技や演出に関することを中心に、これまで脚本、音楽、美術、演技などの多方面において研究されてきた。しかし、本書では、演劇学校に対する以上のような関心にもとづき、舞台上の華やかな演技の世界とは一線を画しており、これまであまり顧みられなかった、舞台裏で行われる俳優教育に焦点をあてて、俳優教育に対する単調で地味なイメージを払拭し、それが学術的な魅力に富んだ研究対象であることを示せればと願っている。
二 本書の問題関心
伝統芸能の教育といえば、どのようなものをイメージするだろうか。恐らく、多くの者は、封建的な色彩を残す徒弟教育をすぐに連想するだろう。と同時に、師匠の示す手本にしたがって、長年の厳しい修業に耐える弟子の姿を思い浮かべるに違いない。あるいは、芸の奥義を身につけた権威的な師匠に徒弟奉公しつつ、師匠のわざを盗もうと躍起になる弟子の姿を想像するかもしれない。それとも、血縁関係や擬似家族的な絆で結ばれた、全人格的・情緒的な師弟関係を思い描くだろうか。いずれにしても、洋の東西を問わず、多くの伝統芸能は、これまで徒弟制的な状況で伝承されてきた[cf. バルバ+サヴァレーゼ(編) 一九九五:二四―三一]。能や狂言のような日本の伝統芸能などは、その好例といえるだろう[Salz 1998]。そして、芸能教育関連の研究では、これまで徒弟教育的な芸の伝承過程の実態について多くの知見をもたらしてきた[茂手木 一九八六、梅本 一九八五]。
ところで、国や地域によっては、徒弟制と様相の異なる学校的な文脈で活発に芸能教育を行っているところもある。筆者のフィールドである中華人民共和国などはそうである。中国は、一九四九年の建国以来、大きな社会変化を遂げてきた。とくに、一九七八年に改革開放政策が始まってからは、経済も飛躍的に発展し、それとともに学校教育の普及と教育制度の近代化が急速に進展してきた。そして、そのような社会状況のなかで、かつて徒弟制をとおして伝承されていた伝統演劇なども、教育の近代化が進み、近代的な学校で教えられるようになった。
現在めざましい勢いで近代化しつつある中国では、教育制度の発展とその重要性の拡大は、今後も大いに予想される展開である。そうしたなかでは、専門学校という形式をとるにしろ、あるいは、普通の学校の一部をなす形になるにしろ、伝統演劇のように学校教育の文脈で伝承される伝統芸能が増えていく可能性は高い。したがって、こうした芸能教育の学校化という事態は、伝統的な徒弟教育に変化をもたらすという点で、芸能教育のひとつの未来像を示しているといえるだろう。その意味で、学校化した芸能教育に注目することは、とても意義あることである。
本書は、こうした状況を踏まえて、中国のような国の芸能教育について語るとき、学校教育の存在にもっと目をむける必要がある、という問題意識を基本的な出発点とするものである。そして、文化人類学の視点から、中国の学校で実践される芸能教育、とりわけ、その教授・学習過程にはどのような特徴がみられるのか、という問題を考察する。その究極の目的は、芸能教育の学校化の特徴について明らかにすることである。
(後略)
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著者紹介
清水拓野(しみず たくや)
2007年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(文化人類学コース)博士課程修了。博士(学術)。
専攻、教育人類学、中国芸能研究。
現在、関西国際大学国際コミュニケーション学部准教授。
主な業績として、共著論文 ”Characteristics and Development Patterns of the Process of Vocational Education for Chinese and Japanese Performing Arts: A Comparative Analysis.” International Journal of Systems and Service-Oriented Engineering, 2020. 論文「芸能教育の学校化の特徴と展開:秦腔の俳優教育の習得過程に注目して」『文化人類学』、2018年。共著『地方戯曲和皮影戯 日本学者華人戯曲曲藝論文集』博揚文化事業有限公司(台湾)、2018年。共著『文化遺産と生きる』臨川書店、2017年など。