植民都市の巨視・微視から、清末アジアの拍動するネットワークを描く。それは「華人」という自意識の誕生した瞬間でもあった。
著者 | 持田 洋平 著 |
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ジャンル | 歴史・考古・言語 |
シリーズ | 風響社あじあブックス |
出版年月日 | 2024/10/10 |
ISBN | 9784894893306 |
判型・ページ数 | A5・432ページ |
定価 | 本体3,200円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
凡例
地図
表(シンガポールの人口)
序章
一 本書の問題設定と概要
二 先行研究の整理と批判的検討
三 用語定義および方法論に関する整理
四 主要な史料について
五 本書の構成
第一章 一九世紀のシンガポールにおける華人社会の形成と発展
一 はじめに
二 イギリスによるシンガポールの植民地化と海峡植民地の成立
三 イギリス植民地間をつなぐ汽船・電信・金融ネットワークの形成
四 植民地における「ネイション/人種」枠組の構造化
五 華人社会の内部構造
六 中国本土とシンガポールとの関係性
第二章 林文慶らの出現と辮髪切除活動に起因する騒動(一八九六─一八九九年)
一 はじめに
二 植民地政庁による華人社会の統治方式の変化
三 林文慶ら「現地の改革主義者たち」の出現
四 ネイションとしてのシンガポール華人社会という発想の発見
五 辮髪切除活動と華人社会内の対立(一八九八年)
六 林文慶による辮髪切除に関する問題への対応(一八九九年)
七 おわりに
第三章 康有為のシンガポール来訪とその社会的影響(一九〇〇年)
一 はじめに
二 林文慶らと康有為ら「立憲派」の政治的な関係性について
三 康有為のシンガポール来訪・滞在
四 「革命派」活動家のシンガポール来訪
五 シンガポール華人社会への影響に関する考察
六 おわりに
第四章 孔廟学堂設立運動の展開(一八九八─一九〇二年)
一 はじめに
二 孔廟学堂設立運動の準備的段階
三 設立活動の展開への転機
四 実質的な設立活動の進展とその失敗
五 設立活動における宣伝とその特徴
六 おわりに
第五章 シンガポール中華総商会の社会的機能の形成過程(一九〇五─一九〇八年)
一 はじめに
二 中華総商会の設立過程
三 設立初期における中華総商会の社会的な活動
四 中華総商会の社会的機能とその背景
五 おわりに
第六章 「国語」教育を標榜する初等学堂の設立ラッシュ(一九〇六─一九〇九年)
一 はじめに
二 シンガポールの華人を対象とした教育機関の展開
三 一九〇〇年代後半における初等学堂の設立過程
四 各学堂の連帯・協力による活動
五 「国語」教育の分断・連帯とその社会的背景
六 おわりに
第七章 「満州人蔑視」言説の系譜と「革命派」の出現
一 はじめに
二 秘密結社と「満州人蔑視」観念
三 「現地の改革主義者たち」による「満州人蔑視」言説の発表
四 「満州人蔑視」言説の特徴とその社会的背景に関する考察
五 「現地の改革主義者たち」から「革命派」への連続性
六 反アヘン運動の展開と政治的な党派の対立関係の顕在化
七 おわりに
第八章 中華民国期における展開
一 一九世紀末から一九〇〇年代までの展開に関する整理
二 中華民国期における政治史の展開
三 中華民国期における社会経済史の展開
四 中華民国期における教育史の展開
終章
一 通史的な観点からの位置付け
二 研究史上における位置づけと新たな論点の提示
あとがき
人物略歴
殷雪村(Yin, Suat Chuan, 1876-1958)
王純智(Ong, Soon Tee, 1871-1946)
顔永成(Gan, En Seng, 1844-1899)
邱菽園(Khoo, Seok Wan, 1874-1941)
阮添籌(Wee, Theam Tew, 1866-1918)
胡亜基(Hoo, Ah Kay, 1816-1880)
胡文虎(Aw, Boon Haw, 1882-1954)
呉寿珍(Goh, Siew Tin, 1854-1909)
黄亜福(Wong, Ah Hook, 1837-1918)
黄松亭(Ng, Song Teng, ??-??)
黄乃裳(Wong, Nai Siong, 1849-1924)
蔡子庸(Chua, Chu Yong, 1847-??)
佘連城(Seah, Liang Seah, 1850-1925)
章芳琳(Cheang, Hong Lim、1825-1893)
薛有礼(See, Ewe Lay, 1851-1906)
宋旺相(Song, Ong Siang, 1871-1941)
曾兆南(Chan, Teow Lam, ??-??)
張永福(Teo, Eng Hock, 1871-1957)
張善慶(Teo, Sian Keng, 1855-1916)
陳雲秋(Tan, Hoon Chew, ??-??)
陳嘉庚(Tan, Kah Kee, 1874-1961)
陳恭錫(Tan, Keong Saik, 1850-1909)
陳金鐘(Tan, Kim Ching, 1829-1892)
陳金声(Tan, Kim Seng, 1805-1864)
陳若錦(Tan, Jiak Kim, 1859-1917)
陳楚楠(Tan, Chor Lam, 1884-1971)
陳徳潤(Tan, Teck Joon, 1860-1918)
陳徳遜(Tan, Teck Soon, 1859-1922)
陳武烈(Tan, Boo Liat, 1874-1934)
葉季允(Yeh, Chi Yuen, 1859-1921)
李清淵(Lee, Cheng Yan, 1841-1911)
劉金榜(Low, Kim Pong,1838-1909)
廖正興(Liau, Chia Heng, 1874-1931)
林維芳(Lam, Wei Fong, 1863-1910)
林義順(Lim, Ngee Soon, 1879-1936)
林文慶(Lim, Boon Keng、1869-1957)
史料・参照文献
年表
索引
内容説明
「華人」が誕生した時!
ethnic Chineseと英訳される華人だが、1896年から1909年のシンガポールを微視すると、それは単なるエスニシティの区分ではなく、ナショナリズムとともに生まれた自意識であった。今日グローバルに展開する中華系ネットワークは、この十数年の激流を知らずには理解できない。巨視・微視を交えた著者渾身の歴史ドキュメンタリー。
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まえがき より
シンガポール(Singapore)について、多くの方は、経済的な繁栄、華人(中国系移民)人口の多さ、観光業の発展といったイメージを想起されるであろう。東南アジアの政治・社会・経済などに詳しい方であれば、人民行動党(People’s Action Party, PAP)による強権的・独裁的な統治体制やマスメディアなどの規制、マルチ・エスニックな社会や食文化などにも連想が及ぶかもしれない。
このようなイメージが形成される主な原因は、イギリス植民地統治期の経済的な繁栄と、現地の華人社会の発展であった。そもそもシンガポールは、イギリスによる植民地化をきっかけとして形成され、その居住者の大多数が(赴任したイギリス人官僚を含めて)移民によって構成された移民都市であった。
一九世紀以降、イギリス本国を中心として、超広域的に形成された「海の帝国」において、シンガポールは東南アジアの政治・経済的な拠点として位置付けられ、香港・上海などと並ぶ、東アジアにおけるグローバルなヒト・モノ・カネ・情報の流通ネットワークの重要な結節点として機能するようになった。この広域的なネットワークは、イギリス帝国の植民地主義に支えられて形成されたものであったが、実際にモノ・カネの移動や交易(すなわちアジア間におけるビジネス)を担っていた集団の一つが、華人であった。植民地統治期のシンガポールでは、最初期からアジア間交易の担い手として、華人が居住するようになり、一九世紀中葉にはシンガポールの総人口の過半数を占めるまでになった。
これらの植民地期の発展を基礎として、戦後にシンガポールは(マレーシアから分離されるという形で)独立し、中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)という「二つの中国」以外では唯一、華人(すなわち中国系の人々)がマジョリティを占め、かつ中国語が公用語(の一つ)として位置付けられている国家として存続している。現代のシンガポールについて学ぶうえでも、東南アジア近代史やグローバル・ヒストリーを考えるうえでも、また華人の広域的なネットワークについて検討するうえでも、植民地統治期のシンガポールと華人社会の歴史を学ぶことは重要であろう。
本書は、植民地統治期におけるシンガポール華人社会史のうち、一九世紀から二〇世紀前半、日本統治期までの時期における歴史的な展開の概要を示すと共に、特に重要な変容期に当たる一八九六年から一九〇九年を詳しく議論する。言い換えると、本書は一八九六年から一九〇九年のシンガポール華人社会における社会的な変容を詳述するというミクロな課題と、この課題を一九世紀から二〇世紀前半の時期におけるシンガポール華人社会史の中に位置付けるというマクロな課題の二つに取り組むものとなる。
この二つの課題について、それぞれの重要性を説明しよう。まず、マクロな課題について、全体の議論の一部として一九世紀から二〇世紀前半のシンガポール華人社会史を扱っている日本語の学術書や通史は、これまでもいくつも出版されている。しかし、これらの書籍は戦後のシンガポールの形成過程や経済発展を論ずることを主眼としており、この時期に関する内容が占める割合は概ね極めて少なく、詳細かつ具体的な知見を得ることは極めて難しい。
もちろん、英語・中国語に加えて、日本語でも優れた個別の論文は枚挙に暇がない。しかし、中国史や東南アジア各国史と比較すると、シンガポール史研究のこのような状況は、やはりいささか不十分だと言わざるを得ない。
本書はこのような問題意識に基づき、日本語・英語・中国語の先行研究を整理しながら、一九世紀から二〇世紀前半のシンガポール華人社会史を通史的に叙述するという第一の課題に取り組む。もちろん、単に英語や中国語の通史的記述をそのまま翻訳するのではなく、複数の言語・研究領域に分散している先行研究を可能な限り収集し、有機的に統合し、この時期のシンガポール華人社会史に関する概説として、包括的かつ先進的な内容を提示することを試みる。
続いて、ミクロな課題、かつ本書の主題である、一八九六年から一九〇九年のシンガポール華人社会の変容という点について説明する。これは具体的には、現地において「華人」としての社会的な認識が広く普及すると共に、後の中華民国期において興隆していく政治的ナショナリズムの基盤となる初期的なナショナリズムが形成されたということである。
まず、現地における「華人」としての社会的な認識の普及について、華人が華人であることは自明かつ普遍的な事実であり、特定の時期にそのような社会的な認識が広がったという説明はそもそも不可解であると考える方もいるだろう。しかし、華人(に相当する人々)が自らを華人であると強く認識するようになったのは主に近代以降であり、このような華人としての自己認識の自明性・普遍性は、決して古来より存続してきたものではなかった。
一九世紀のシンガポールにおいて、華人に相当する人々が自らの帰属性を意識するとき、それは主に福建人・広東人・潮州人というような出身地域や方言、幇派などに基づく地縁的なものか、さもなくば家族・親族・宗族といった血縁的なものであった。シンガポール華人社会内部において、各幇派はゆるやかに住み分けており、現地に居住する華人たちの大多数は、それぞれが属する幇派の方言のみを理解し、幇派や宗族・血縁関係という枠組の中で日々の生活を送っていた。
もちろん中国本土においては、古代より「中華」観念が連続して存在しており、特に科挙教育を受けた知識人層の中には、自らが「中華」文明に帰属すると認識するものも存在していた。またイギリスの植民地統治の中でも「Chinese」という集団カテゴリは存在しており、イギリスによる植民地統治への参加・協力を通して、自らをイギリス人たちが呼ぶところの「Chinese」として認識するようになった人々も存在していた。しかし、シンガポール華人社会全体としてみると、このような人々は極めて少数であり、大部分の華人たちはこのような認識を共有していなかった。つまり、今日において当然のように共有され、普及している、華人としての帰属性・共通性という感覚や社会的な認識は、一九世紀の時点においては決して一般的なものではなかったのである。
仮に、一九世紀前半のシンガポールに行き、そこで働いている福建幇の労働者層の華人に、「あなたは誰ですか?」と福建語(閩南語)で問いかけたとしよう。その時に最初に返ってくる答えは、恐らく「私は福建人であり、……」という幇派の帰属性であろう。あるいはその返答は、村落などのより詳細な出身地域かもしれないし、宗族かもしれないし、職業かもしれないし、または氏名かもしれない。しかし、「私は華人であり、……」という返答がくる可能性は、ほぼ存在しないであろう。しかし、仮に一九一〇年代に福建幇の労働者層の華人に同じように問いかけたとすると、その返答として「私は華人(あるいは「華僑」)であり、……」という言葉がくる可能性はかなり高くなるだろう。
このような「華人」としての認識の普及をもたらしたのは、ネイションという近代的な概念を理解した知識人層の華人エリートたちであった。彼らは一九世紀末において、華人としてのナショナルな帰属性・共通性に基づき、幇派と方言の壁を超えて、華人社会全体が連帯・協力することが可能であるという発想を持つようになった。これは、すなわちシンガポール華人社会における最初期のナショナリズムの形成過程でもあった。
シンガポール華人社会におけるナショナリズムは、最初は教育運動や社会改革運動といった形から始まり、のちに中国国内政治との関係性を深めていき、さらに国籍法(大清国籍条例)が成立した一九〇九年以降は、「祖国」中国の国民としての立場に基づく「愛国」主義的なナショナリズムが興隆するようになっていった。このような傾向は、清朝末期から始まり、中華民国期を経て、日中戦争およびアジア太平洋戦争における「抗日」運動へと連続していくこととなった。
本書が取り組む第二の課題は、このようなシンガポール華人社会におけるナショナリズム形成の過程を、先行研究のようにイギリスによる植民地統治や中国国内政治からの影響という観点からではなく、シンガポール華人社会内部の変容という観点に立って描き出すことである。もちろん植民地宗主国であるイギリスや、華人にとっての「祖国」であった中国が、現地のナショナリズム形成に大きな影響を与えたことは疑いない。しかし、シンガポール華人社会史を議論するうえで、外部からの政治的な影響のみを強調してしまうと、あたかもシンガポール華人社会が独自の自律性・主体性を持たず、ただ一方的に政治的な影響を受容し続けるだけの場であったかのように説明してしまうことになってしまう。これはシンガポール華人社会史研究としては、いささか本末転倒であろう。
この第二の課題を通して本書が目指すのは、宗主国イギリスと「祖国」中国の政治的な影響を受けながらも、独自の自律性・主体性を持った場としてシンガポール華人社会を位置付けたうえで、そこに生きた人々がいかに近代的なネイション観念を認識し、自分たちが居住・生活する華人社会にこの概念を投影させ、現地で普及させていったのかということを、生き生きと描き出すことである。これは、ネイション・ナショナリズムといった概念を、国民国家の問題として限定せずに、移民社会の問題として捉えようとする観点だともいえる。
このようなナショナリズム理解は、国民国家とその政治制度を背景とする一般的な理解とは大きく異なる観点に立つものとなる。そのため、本書ではこれを、「移民社会のナショナリズム」という呼称を用いて表現する。すなわち、第二の課題は、この時期のシンガポール華人社会において「移民社会のナショナリズム」が形成されていく過程を議論するものとなる。
本書はこの二つの課題に取り組むことにより、一九世紀から二〇世紀前半におけるシンガポール華人社会史を通史的に整理すると共に、特に一八九六年から一九〇九年における華人社会の変容について、「移民社会のナショナリズム」という観点から詳述し、その意義と重要性を通史的に位置付ける。
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著者紹介
持田洋平(もちだ ようへい)
1986年生まれ。
2019年慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻後期博士課程修了。博士(史学)。
専攻はシンガポール華人社会史、華人研究。
現在、慶應義塾大学文学部訪問研究員、神奈川大学アジア研究センター客員研究員。
主な論文として、「シンガポール華人社会の「近代」の始まりに関する一考察――林文慶と辮髪切除活動を中心に」(『華僑華人研究』9号、7-27頁、2012年、日本華僑華人学会2014年度研究奨励賞(論文)受賞)、「中国ナショナリズムと南洋華僑」(華僑華人の事典編纂委員会(編)『華僑華人の事典』丸善出版、304-305頁、2017年)、「シンガポール華人社会における「孔廟学堂設立運動」の展開(一八九八‐一九〇二年)」(『東洋学報』99巻1号、31-57頁、2017年)、「日本統治初期のシンガポールにおける紅卍字会の救災活動――『新加坡道院訓文』の発見とその分析」(武内房司(編)『中国近代の民衆宗教と東南アジア』研文出版、179-205頁、2021年)など。