目次
●第一部 バングラデシュの自由の闘争とNGOsの誕生
第1章 戦争と災害が育てたNGOs(語り:ナシール・ウディン/文:松岡悦子)
はじめに
第1節 ナシールの話:NGOsとの出会い
第2節 NGOsを見るまなざし
第2章 GUPの活動とワーカーたち(松岡悦子/モンジュルル・チョードリー/ナシール・ウディン)
第1節 ラジョール村でのGUPの創設
第2節 救援ではなく人々の開発を
第3節 チッタゴン地域事務所のオープン
第4節 ラジャック医師が語る健康プログラム
第5節 GUPが大きくならなかったのは
第3章 バングラデシュ農村の多元的なヘルスケア(松岡悦子)
第1節 GUPのヘルス・プログラム
第2節 民間セクター:しろうと
第3節 民俗セクター:村医者
第4節 専門職セクター:タナ・ヘルス・コンプレックス
第5節 アーサー・クラインマンによる多元的なヘルスケア
第4章 TBA(ダイ)が介助する出産の現場(松岡悦子)
はじめに
第1節 村の女性達の出産
第2節 妊婦健診
第3節 村の出産の担い手 ダイ
●第二部 貧困からの脱却とジェンダー平等:2015~2021年のカリア村とラジョール村)
《第2部、第3部の調査方法について》(松岡悦子)
第5章 農村部における児童婚の現状と展望:リプロダクティブ・ヘルス/ライツの視点から(五味麻美)
はじめに
第1節 児童婚とは
第2節 児童婚を取り巻く現状
第3節 農村部の現状:児童婚を経験した女性たちの語り
第4節 児童婚の社会・文化的背景
第5節 農村部の展望:若者たちの声〈マダリプル県 2021年〉
おわりに
第6章 マイクロクレジットから見る女性の生活変容とNGOsの課題(青木美紗)
はじめに
第1節 GUPにおけるマイクロクレジットの取り組み
第2節 マイクロクレジット利用の変容とマイクロファイナンス機関の多様化
第3節 マイクロクレジット利用者の意識
第4節 経済的環境と出産および子育て
おわりに
第7章 村落社会の変化と女性の行動圏(浅田晴久)
はじめに
第1節 バングラデシュ農村における女性の行動
第2節 女性の日常活動内容
第3節 GPS調査でみる女性の行動圏
第4節 コロナ禍における男女の行動圏の変化
おわりに
第三部 バングラデシュのヘルスケア政策と女性の健康
第8章 女性たちにとってのヘルスケア環境:私立病院・公立病院・NGOs(松岡悦子)
はじめに
第1節 産み場所:自宅から病院へ
第2節 私立病院の興隆
第3節 政府の施設
第4節 NGOsの施設
第5節 未来に向けてどのようなヘルスケアをめざすのか
第9章 出産介助者と母子保健政策の半世紀(阿部奈緒美)
はじめに
第1節 ダイで産むつもりだった女性たち
第2節 2人のダイ:アニタとジェスミン
第3節 サフィナとは
第4節 母子保健政策の変遷
おわりに
第10章 医薬化の迷路:妊娠初期の薬の使用(諸昭喜)
はじめに
第1節 薬の人類学
第2節 妊婦の薬の服用
第3節 質問紙調査の結果
第4節 考察
おわりに
第11章 正常な出産を望む女性たち(松岡悦子)
はじめに
第1節 医療化する出産
第2節 女性が「良かった」と思う出産経験とは
第3節 出産と社会・経済的階層との関連
第4節 MDGsとリプロダクティブ・ヘルス
おわりに
第12章 母乳か粉ミルクか:文化と医療の狭間で(曾璟蕙)
はじめに
第1節 調査地の様子
第2節 バングラデシュの授乳をめぐるコンテクスト
第3節 質問紙調査の実施
第4節 考察
おわりに
第13章 産後の健康から浮かび上がる女性の生活(嶋澤恭子)
はじめに
第1節 産後の健康障害とその対処
第2節 インタビュー調査より
第3節 産後の休息と家族の手伝い
第4節 産後の儀礼
第5節 産後の時期の重要性
おわりに
あとがき(松岡悦子)
索引/略称/写真図表一覧
内容説明
人類共通の課題〈健康〉を農村で見つめる
グローバルな課題はマクロな視点や施策で語られることが多い。本書は、1971年の独立直後から多くのNGOが設立され、今や平均余命や新生児死亡率が近隣のインドやパキスタンを凌駕するバングラデシュの歩みを、ミクロな観察やエスノグラフィーから報告する。いわば、政策の現場を人びとの目線で評価しようとする試みである。
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はじめに
松岡 悦子
本書は、バングラデシュの独立から2021年までの50年間を、GUP(Gono Unnayan Prochesta)というNGOと女性たちの目を通して描こうとするものである。GUPは、マダリプル県ラジョール郡で1973年にスタートして以来、そこをプロジェクト地域に活動している中規模のNGOだ。本書に登場する人たちは、いずれもラジョール郡(Upazila)ラジョール村(Union)とカリア村(Union)の人たちだが、GUPのワーカーの中にはダッカに住んでいる人もいる。
バングラデシュは1971年に独立闘争に勝利した後、多くのNGOsが国内で誕生した。BRAC(Bangladesh Rural Advancement Committee, 1972年設立)のファズレ・ハサン・アベッドや、GK(Gonoshasthaya Kendra、1972年設立)のザフルッラ・チョードリー、そしてGUPのアタウル・ラーマンらの創始者は、傑出した指導力とアイデアで貧困からの脱却をめざし、健康や教育、ジェンダー平等といった新しい価値観に則って国づくりを始めた。その意味で、初期のNGOsを設立した人たちは、現在のSDGs(持続可能な開発目標)のめざす世界を先取りしていたと言える。
第1部では、NGOsの設立と成長を相次ぐ災害への対応として描き、70年代から90年代までのNGOsの変遷をたどる。そして、90年代に私が行ったフィールドワークに基づいて、当時のヘルスケアの情況、とくに妊娠・出産をめぐる女性たちの行動を描く。90年代には、TBA(Traditional Birth Attendant伝統的介助者のことで、この地域ではダイと呼ばれる)のダイが家で出産を介助し、何かあると「村医者」(正規の医師ではない)を呼んで対処しようとしていた。女性たちは、自分の年齢を聞かれると一様に困った顔をしていたが、子どもの年齢についてはみんな答えていた。90年代半ばには、病院は政府の郡病院(Thana Health Complexと呼ばれていた)があるだけで、人びとは病院に行きたがらなかったし、そこでの出産数はほんの僅かだった。そのような状況で、90年代の妊産婦死亡率は出生10万人当たり574と推定されている。
第2部では、2015年から2021年にかけて断続的に行った調査をもとに、ラジョール郡の近年の様子を、児童婚、マイクロクレジット、女性の空間移動(モビリティ)の点から描く。現地でのフィールドワークを2015年、2019年、2020年に行ったが、2016年にダッカのレストランで人質襲撃事件が起こり、バングラデシュへの渡航がむずかしくなった。そこで2016-17年に現地の調査者に依頼して質問紙調査とインタビュー調査を実施してもらった。また、2020年4月以降はコロナ禍で渡航できなくなったため、2021年に現地の調査者に依頼して、訪問による質問紙調査を実施した。第2部と第3部は、フィールドワークに加えて、これらの質問紙/インタビュー調査(2016-17年)と、質問紙調査(2021年)がもとになっている。
第3部では、バングラデシュの妊娠・出産・産後を中心とするヘルスケアに焦点を当てた。バングラデシュではヘルスケアにかかわる人の95%がインフォーマル・セクター(正規の医療者ではない)に属していて、医師・歯科医師・看護師といった正規の医療者はわずか5%でしかないという報告がある[Bangladesh Health Watch 2008: 8]。このカオスとも言えるヘルスケアの状況を、医学雑誌のランセットはバングラデシュの強みだと述べ、低コストで優れた健康指標を成し遂げたことを「バングラデシュ・パラドックス」と呼んで称賛している[Chowdhury et al. 2013]。確かに、平均余命や新生児死亡率などのバングラデシュの健康指標は、近隣のインドやパキスタンより優れている。第3部では、このようなヘルスケア体制を背景に、妊娠・出産が90年代とは劇的に変わり、ラジョール郡にも私立病院が林立するようになったことを述べる。介助者であったTBAの変遷、薬の女性たちへの浸透(医薬化)、女性の出産経験、母乳育児の情況と産後の女性の健康をテーマに、MDGs(ミレニアム開発目標)とSDGsがリプロダクティブ・ヘルスに及ぼした影響を考察する。そして、2020年にバングラデシュの妊産婦死亡率の推計値は、123へと大きく下がった(世界銀行データ)。
本書の目的の一つは、MDGsとSDGsという世界の大きな流れの中で、個々の文化に生きる人々がどのような影響を受けているのかをヘルスケアの分野で明らかにすることである。本書ではMDG5(MDGの目標5)とSDG3(SDGの目標3)に掲げられた妊産婦死亡率の低減という目標がローカルな場面に及ぼす影響を、ラジョール郡の女性たちを例に示したい。死亡率の低減は確かに人類共通の目標だが、そのために導入された政策が現場の人びとの行動をどのように変え、女性の健康にどんな影響を与えているのかを評価することが必要だろう。果たして、女性のリプロダクティブ・ヘルスが改善されたのか、女性は妊娠・出産でより良い経験をするようになったのか。死亡率の低減というマクロな次元の目標とは別に、女性たちがどう感じ、それまでより健康な生活を送るようになったのかが重要である。そのためには、個々の女性の経験やローカルな場の人たちの動きをミクロにとらえるエスノグラフィックな調査が必要になる。たとえば、2000年にMDGsがスタートしてから、バングラデシュを含む中低所得国では妊産婦死亡率の数値目標を達成するために、さまざまな政策が導入された。基本的には、自宅ではなく施設で出産することと、介助者をTBAからSBA(Skilled Birth Attendant 専門的な介助者)に換えることが目標になった。2015年までにバングラデシュの施設分娩率とSBAによる介助の率は順調に上昇した。だが、妊産婦死亡率は予想通りには減少せず、意外なことに施設分娩の増加よりも早いスピードで帝王切開が増えた。今回の2021年の調査では、私立病院で産んだ女性の9割以上が帝王切開になっている。MDGsとSDGsがめざす死亡率の低減は、現場の女性たちを思わぬ方向に誘導し、将来の出産のリスクを高める結果を産んでいる。人類共通の目標を達成するための政策が、個々の女性の健康にプラスになることもあれば、むしろ混乱をもたらしたり、意図しなかった結果をもたらしたりすることがある。今やグローバルヘルスの影響力は甚大で、数値で示される目標や根拠を問い直すことはむずかしい。けれども、だからこそ、ミクロな観察やエスノグラフィーを用いて、ローカルな文化や人々の経験を描き出す必要があるだろう。マクロな視点で出される政策や目標は、ミクロな観察やエスノグラフィーで補完されてはじめて、人類の幸福に結びつくと思えるからだ。
本書のもう一つの目的は、バングラデシュ建国時に設立されたNGOsのもっていた革新的な力を明らかにすることだ。独立後のバングラデシュで、大学を出た優秀な若者たちの多くは公務員をめざしたが、その中でNGOsに入って社会的な価値の実現をめざす人たちもいた。確かに、先に挙げた3つのNGOsの創始者は裕福な家の出身で、海外で教育を受けたり職に就いたりした恵まれた人たちだった。また、彼らの考え方や手法は、ヨーロッパの平和活動家や宗教団体の思想、パウロ・フレイレの教育思想や、中国の裸足の医者の思想などの影響を受けて生まれている。だが、度重なる災害と貧困の中で社会をどう変えていくか、そのためにどうすればよいかを探った人々のエネルギーと革新性は、世界をもう一度作り直せるのではないかという希望を私たちに与えてくれる。今一度、バングラデシュの建国時のNGOsがもっていたエネルギーに触れてみることで、私たちの社会が変革と再生のエネルギーを取り戻せるのではないかと考えた。
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編者紹介
松岡悦子(まつおか えつこ)
1954年生まれ
1983年 大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。
専門は文化人類学。
現在、奈良女子大学名誉教授。
主著書として、『妊娠と出産の人類学』(世界思想社、2014年)、編著として『世界の出産:儀礼から先端医療まで』(松岡悦子・小浜正子編、勉誠出版、2011年)、『子どもを産む・家族をつくる人類学』(松岡悦子編、勉誠出版、2017年)など。
執筆者紹介(50音順)
青木美紗(あおき みさ)
1984年生まれ。
2013年京都大学大学院農学研究科博士課程中退。博士(学術)。
専攻は食料・農業経済学、協同組合論。
現在、奈良女子大学研究院生活環境科学系・准教授。
主著書として、「マイクロファイナンス事業の拡大に伴うNGO利用者の認識変化に関する研究:バングラデシュにおける複合的な生活支援に携わるNGOに着目して」(『協同組合研究』39巻2号、2019年)など。
浅田晴久(あさだ はるひさ)
1980年生まれ
2011年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程研究指導認定退学。博士(地域研究)。
専門は地理学、南アジア地域研究。
現在、奈良女子大学文学部准教授。
主著書として、『インド北東部を知るための45章』(明石書店、2024年、共著)、『モンスーンアジアの風土とフード』(明石書店、2012年、共著)、論文として、「アッサム州における近年の農業変容と地域社会:在来ヒンドゥー教徒村落の耕地利用変化に着目して」(『南アジア研究』32号、2021年)、「バングラデシュの洪水と稲作」(『歴史と地理・地理の研究』192号、2015年)など。
阿部 奈緒美(あべ なおみ)
1968年生まれ。
2019年奈良女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。
専攻は近現代史、ジェンダー史。
現在、奈良女子大学アジア・ジェンダー文化学研究センター協力研究員。
主要著書として、『想像する身体 下 身体の未来へ』(臨川書店、2022年、共著)、『医学史事典』(丸善出版、2022年、共著)、論文として、「明治期の大阪における産婆制度の変遷」(『日本医史学雑誌』第65巻第1号、2019年)、「大阪市旧隣接郡域の産婆による産婆法制定運動開始の背景:大正期の社会状況と地域的特殊事情に着目して」(『日本看護歴史学会誌』第31号、2018年)など。
五味 麻美(ごみ まみ)
1970年生まれ
2021年聖路加国際大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
専門は看護学、助産学、国際母子保健。
現在、川崎市立看護大学講師。
主著書として、『世界を翔けたナースたち: 青年海外協力隊看護職の活動』(JOCV看護職ネットワーク、2011年、共著)、論文として、「日本で暮らすムスリム外国人女性に対する助産ケアの特徴」(『日本助産学会誌』38巻1号、2024年、共著)「日本の産科医療施設で出産したムスリム外国人女性の妊娠・出産経験に関する質的研究」(『日本助産学会誌』 37巻1号、2023、共著)など。
嶋澤恭子(しまざわ きょうこ)
1969年生まれ
2011年熊本大学大学院博士後期課程社会文化科学研究科単位取得満期退学。修士(文学)。
専門は助産学、文化人類学
現在、大手前大学国際看護学部教授
主著書として、『アジアの出産と家族計画:「産む・産まない・産めない」身体をめぐる政治』(勉誠出版、2014 共著)、『ワークブック国際保健・看護基礎論』(ピラールプレス、2016、共著)、『国際化と看護』(メディカ出版 2018年 共著)など。
曾璟蕙(そう けいえ)
1982年生まれ
2019年奈良女子大学人間文化研究科博士後期課程修了。博士(社会科学)。
専門は文化人類学、台湾地域研究。
現在、奈良女子大学アジア・ジェンダー文化学研究センター特任助教。
論文として、「台湾における母乳哺 育政策の推進と女性たちの授乳経験」(『アジア・ジェンダー文化学研究』5号、2021年)、「台湾における産後養生と女性の身体」(『奈良女子大学社会学論集』22号、2015年)など。
諸昭喜(ちぇ そひ)
2019年奈良女子大学大学院人間文化学科博士後期課程修了。博士(学術)。
専攻は医療人類学、朝鮮半島地域研究。
現在、国立民族学博物館グローバル現象研究部助教。
主著書として、『아프면 보이는 것들: 한국 사회의 아픔에 관한 인류학 보고서(韓国社会の痛みに関する人類学レポート)』(Humanitas、2021年、共著)、『우울증은 어떻게 병이 되었나(うつ症はどのように病になったか)』 Junko Kitanaka著(April Books、2023年、編訳)、論文として、「東洋医学における疾患の社会的構築:韓国の産後風を事例として」(『人体科学』27号、2018年)、その他として、「日本と韓国における産後ケアの現在地」(『季刊民族学』183巻、2023年、松岡悦子共著)など。
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