目次
はじめに
一 中国政府の公的な資料が伝える大量虐殺と謀略的前後
二 大量虐殺の部分的停止と謀略的処理
三 地方における政策の制定と伝達
四 四家堯人民公社の被害状況
五 四家堯人民公社におけるモンゴル人の粛清方法…
六 被害を訴える陳情書と証明書
七 名誉にならない「名誉回復」
八 国際社会に訴えるべき人道に対する犯罪
参考文献
本書所収資料の出典
あとがき
第二部 ジェノサイドの被害実態を伝える資料群
資料一 政府系報告書が伝える被害状況とジェノサイドの推進方法
1,暴庆五内参报告,伊克昭军分区原京字355部队一连(21分队)在图克公社挖“新内人党”中严重违法乱纪
(1978年7月27日)
2,大海航行靠舵手,干革命靠毛泽东思想
(1969年1月)
3,5・22通讯,第二期
(1969年6月10日)
(中略)
15,内蒙古自治区革命委员会关于『关于“新内人党”结案问题的严正声明』的紧急报告
(1974年6月10日)
資料二 ジェノサイド後の政策と謀略
1,关于印发尤太忠同志在自治区党委常委扩大会议上的讲话的通知
(1978年5月5日)
2,中共土右旗委工作会纪要
(1978年5月15日)
3,赵军同志在市委常委(扩大)会议上的讲话
(1978年5月19日)
(中略)
18,中共土右旗委政运办转发『关于认真做好评定工伤工作的通知』,附登记表
(1979年9月19日)
資料三 報告されたジェノサイドの実態
1,土默特右旗四家尧公社上报误伤人员存根
(1977年7月5日)
2,挖新内人党误伤人员摸底情况表
3,落实政策长期救济登记表,奇继君
(1977年7月1日)
(中略)
22,四家尧公社革委会关于被查抄,财物损失折款上报旗政运办
(1979年3月20日)
資料四 四家堯人民公社における虐殺方法
1,追究问题
(1968年5月28日)
2,韩石柱交待问题
(1968年12月10日)
3,黄秀英交待小召会的内人党问题
(1968年12月30日)
4,公社革委会常委扩大会议,简报
(1969年1月8日)
5,群专办公室会议记录
(1969年1月20日)
資料五 ジェノサイドの被害者たちの陳情書と証言
1,关于对挖新内人党错案的控诉材料,张继泉
(1978年5月30日)
2,城墙壕大队社员伏海海写给四家尧公社党委的信
(1978年10月10日)
3,揭发材料,牛万华
(1978年7月24日)
(中略)
39,基本丧失或完全丧失劳动能力的“三民”享受定期定量不住申请表:魏毛仁,紫吉勤格,戚纳楞,……、白二毛仁,白三帮郎,金六十五
資料六 謀略に基づく不完全な「名誉回復」
1,中共四家尧公社革委会关于严重违法乱纪,民愤极大的刑事犯罪分子,打人凶手王文英的处理意见;中共四家尧公社革委会关于严重违法乱纪,民愤极大的刑事犯罪分子,打人凶手张开元的处理意见;关于严重违法乱纪,民愤极大的刑事犯罪分子,打人凶手蔺芝美的罪行材料
(1979年)
2,土默特右旗公安局关于对伏海海的平反结论
(1979年3月25日)
3,四家尧公社党委对陈建贵同志的从宽处理决定
(1979年3月27日)
(中略)
15,有关张银珍之父张三之事详细证明如下(1979年12月9日);旗政运办信(1980年1月10日);张民珍申诉书(1979年12月8日);……
;关于丁四被打成内人党分子残因概况(1980年11月9日)
内容説明
本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印。内モンゴル自治区の西部、首府フフホト市の近郊にあるトゥメト右旗四家堯人民公社(文化大革命当時は包頭市所轄)での被害の実態を現地からの公的資料に依拠して報告したもの。
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第一部 ジェノサイドの被害者たちに関する資料解説 より
「中国人民の偉大な領袖毛澤東自らが発動した文化大革命」の最中に、北の内モンゴル自治区には約150万人弱のモンゴル人が住んでいた。あとから殖民してきた中国人すなわち漢族はその9倍にも達していた。モンゴル人たちは自らの故郷において絶対的な少数派の地位に落ちていたのである。やがて中国政府と中国人(漢族)たちはモンゴル人全員を粛清の対象とし、少なくとも346,000人が逮捕され、27,900人が殺害され、120,000人に身体障害が残った[郝維民 1991:313-314]。もちろん、これは中国政府が大幅に被害者数を縮小して発表した公式見解にすぎない。1981年当時の内モンゴル自治区の書記で、中国人の周恵は「隔離され、審査を受けたモンゴル人の数は79万人」だとしていた[阿木蘭 2010:541]。また、1989年に内モンゴル自治区党委員会が公表した被害者数は480,000人だった[阿拉騰徳力海 1999:85]。独自に調査したアメリカとイギリスの研究者たちはおよそ500,000人のモンゴル人が逮捕され、殺害されたモンゴル人の数は100,000人に達すると見積もっている[Jankowiak 1988:276;Sneath 1994:422]。最近では、内モンゴル自治区のあるジャーナリストが、直接殺害された者と自宅に戻ってから亡くなった者、いわゆる「遅れた死」を含めて、モンゴル人犠牲者の数は300,000人に達すると報告している[Sirabjamsu 2006:44]。このように、中国にいるモンゴル族全体が受難していた現代の凄惨な歴史を当事者たちは中国共産党政府と中国人民が一体となってすすめたジェノサイドだと理解している[楊 2008:419-453;2009a:;2009b;2009c;2010a]。
これほど大規模のジェノサイドを中国政府はどのように「成功」させたのだろうか。また、自治区の末端レベルの人民公社で虐殺はいかに実施されていたのであろうか。本書は内モンゴル自治区の西部、首府フフホト市の近郊にあるトゥメト右旗四家堯人民公社(文化大革命当時は包頭市所轄)での被害の実態を現地からの公的資料に依拠して報告している。具体的にはまず自治区政府と当時の四家堯人民公社が属していた包頭市政府側の公文書たる文件類を提示して分析する。つづいて被害者側のモンゴル人たちがどのように陳情(控訴)し、自らが長期間にわたって受けた虐殺と虐待の事実をどんな形で報告していたかに関する資料を提示する。少数ながら、加害者側が自らの暴力を認めた証言録も含まれている。そして、当時の人民公社政府はこのような陳情書類に書かれた内容は事実である、と公印を押していた。このように、本書が収めている第一次史料はすべて中国政府側の公的な資料であることと、被害者と加害者の双方の当事者が書いたものであることを強調しておきたい。
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編者紹介
楊海英(Yang Haiying)
日本国静岡大学人文学部教授。専攻、文化人類学。
主な著書
『草原と馬とモンゴル人』日本放送出版協会、2001年。
『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』風響社、2004年。
『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』平凡社、2005年。
『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』風響社、2007年。
『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』風響社、2008年。
主な編著書
『《金書》研究への序説』国立民族学博物館、1998年。
Manuscripts from Private Collections in Ordus, Mongolia I, Mongolian Culture Studies I, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2000, Ko¨ln, Germany.
Manuscripts from Private Collections in Ordus,Mongolia II, Mongolian Culture Studies II, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2001, Ko¨ln, Germany.
『オルドス・モンゴル族オーノス氏の写本コレクション』国立民族学博物館、2002年。
『ランタブ―チベット・モンゴル医学古典名著』大学教育出版、2002年。
Subud Erike: A Mongolian Chronicle of 1835. Mongolian Culture Studies VI, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2003, Ko¨ln, Germany.
『内モンゴル自治区フフホト市シレート・ジョー寺の古文書』風響社、2006年。
『蒙古源流―内モンゴル自治区オルドス市档案館所蔵の二種類の写本』風響社、2007年。