目次
1 再定義からナショナリズムへ
2 本書の構成
結 ポスト・ポスト時代の人類学
●第Ⅰ部 現代と伝統
祖先と夢見
:東部インドネシア・フローレス島のカトリックの村における伝統宗教の再創発(青木恵理子)
はじめに
1 本稿の視座
2 出来事の生まれる場
3 伝統宗教の創発とカトリック信仰
結語:実在を指さす
長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動(岡 美穂子)
はじめに
1 外海地方のカクレキリシタン
2 外海地方の信仰形態にみる托鉢修道会のこん跡
むすびにかえて
現代カトリックにおける「邪悪なもの」の再定位:悪魔の領域としての邪視・占い・ニューエイジ(藤原久仁子)
はじめに
1 ニューエイジ:スピリチュアリティの世界から悪魔祓いの対象へ
2 邪視:災いをめぐる主客反転の構図
おわりに
●第Ⅱ部 ヴァーチャルとリアル
「私たち」とは誰のこと? :インド、ゴア社会の演劇ティアトルにみるキリスト教徒の語り(松川恭子)
はじめに:インドにおけるキリスト教文明とナショナリズム
1 ゴア・クリスチャン、その歴史と特徴
2 ティアトルの系譜と展開
3 キリスト教徒の演劇としてのティアトル
4 カンタールにおける「私たち」についての語り
おわりに
奇蹟譚のポリティカル・エコノミー:南インド、ウェーラーンガンニ聖堂のメディア戦略(杉本良男)
序 インド社会の変貌と宗教
1 奇蹟譚の宗教学
2 奇蹟譚の経済学
3 聖地のメディア戦略
結論 奇蹟譚の政治学
ペンテコスタリズムとスリランカ社会:その自生的展開について(川島耕司)
はじめに
1 ペンテコスタリズムの誕生と世界的拡大
2 スリランカにおけるペンテコスタリズムの展開
3 ペンテコスタリズム拡大の背景
4 仏教ナショナリズムの対応
おわりに
●第Ⅲ部 平準化と多様性
ヴァヌアツ独立運動におけるキリスト教とナショナリズム(白川千尋)
はじめに
1 ヴァヌアツ・キリスト教略史
2 独立運動の牽引者たち
3 独立運動をめぐるリアクションⅠ:アングリカン・チャーチと長老派教会の信徒たち
4 独立運動をめぐるリアクションⅡ:フランコフォン・カトリック信徒・非キリスト教徒たち
5 考察
キリスト教とナショナリズム:フィジー・イメージの出現(橋本和也)
1 国家イメージの構築
2 キリスト教とナショナリズム
難民と十字架:ティモール島における宗教と言語の位相からみた国境問題(辰巳慎太郎)
はじめに:十字架の返還
1 ティモール島とキリスト教ミッション
2 リンガ・フランカとしてのテトゥン語の成立
3 ウェハリ王国とテトゥン社会のひろがり
4 ティモール島中部における戦争と人々の移動
5 宗教と言語の位相からみた「東ティモール難民」
おわりに
●第Ⅳ部 二項対立図式の逆説
日本のなかのグローバル・サウス:文明化とエスニックな教会(高崎 恵)
はじめに
1 グローバル化する世界のなかの日本とキリスト教
2 エスニック教会
3 エスニック教会が提示する関係性変更の可能性
教会を模倣するカースト、カーストに囲い込まれたヒンドゥー
:インド・ケーララ地方におけるキリスト教的文明化作用の結節点(小林 勝)
1 歴史哲学とインド
2 交錯と選択からなる多様な近代へ
3 文明化のケーララ的脈絡
4 教会を模倣するカースト
5 カーストに囲い込まれたヒンドゥー
6 アイヤッパ・セーワ・サンガムの限界
7 「進歩」と「悲惨」、そして「再生の条件」を考えるために
オーストラリア・ナショナリズムの変化と先住民(窪田幸子)
はじめに
1 「盗まれた世代」という問題
2 アボリジニへの不正義をめぐって
おわりに:オーストラリア・アイデンティティの変容
あとがき
索引
内容説明
「文明の衝突」の根源に迫る
非ヨーロッパ世界における「キリスト教文明」による「近代化」の歴史過程とその帰結について検討、その功罪を人類学的視点から見直す。注目の論集。
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序論 再定義からナショナリズムへ:ポスト・ポスト時代の人類学的宗教研究
杉本良男
……20世紀後半とくに世紀末は、世界規模で「宗教的なるものの復権」(Return of Religious)と、ディジタル・メディアの急拡大による高度情報化とが急速に進行した時代である。こうした宗教的なるものの復権はいうまでもなく、西欧近代世界が自画像として描き、最近のグローバル化の進展と強固な自由市場資本主義とによってさらに強化された世俗主義・政教分離主義への反動であった。それは潜在していた宗教の政治性を顕在化させ、ときには暴力を発動させ、極端に走ればいわゆる「文明の衝突」状態を演出するまでに至った[de Vries 2001: 3]。こうした現象は当然ながら西欧世界だけでなく、非西欧世界においても、現実にはさまざまなことなった色合いを帯びながら進行していた。というよりも、非西欧世界においてそれはいっそう鮮明な像をむすんでいるといったほうがよい。
こうした宗教の質的変化を導いている要因として大きいのは高度情報化の進展、とりわけディジタル・メディアの飛躍的な発展である。それは皮肉なことに、情報量が増大するにしたがって、原理主義、本質主義が強化されるという一見逆説的な結果をも招いている。こうしたメカニズムを支えているのは、世界全体の「プロテスタント化」であり、当然それは近代国民国家主義と表裏一体の関係にある。宗教が政治化し、原理主義化されるのは、宗教が人びとの生をまるごと支配するようなプロテスタント的状況が生まれた結果であり、それは宗教が人びとの生といったん一線を画していたカトリック的状況と根本的に異なっている。
デ・フリースが指摘するように、このような世界規模で起っている事態に関しては、あくまでも差異化を目的とする「比較」の方法がとくに必要である[de Vries 2001: 3-4, 8-10; 杉本 2003a]。いうまでもないが、それは、19世紀的な「本質」、「起源」を求める比較主義とは方向性が全く異なるものである[杉本 2010]。人類学において「比較」はもっとも重要かつほとんど唯一の方法であったはずであるが、いわゆるポストコロニアル転回を契機に、本質主義批判とともに押し流されてしまった。人類学者の過度の比較への畏れは人類学そのもののプレゼンスを損なう結果をもたらしたのみのようにみえる。こうした傾向に危機感を覚えた出口顯を中心に、2003年に『民族学研究』誌上で「人類学の方法としての比較の再検討」と題する特集が組まれ[出口 2003]、また国立民族学博物館において学際的な共同研究「人類学における比較研究の再構築に向かって」が2004年から2008年まで行われて、成果も公刊されている[出口・三尾編 2010]。
本論集は、国立民族学博物館共同研究「キリスト教文明とナショナリズム:人類学的研究」(2007年4月〜2010年3月)の研究成果であるが、このようなキリスト教を前面に押し立てた人類学的な共同研究はとくに日本ではあまり類を見ない。そのため、人類史上最強の文明化装置としてのキリスト教文明という前提については、とくにフランス革命の歴史的意義との関連で、西川長夫[1995; 2001]、工藤庸子[2003; 2007]、竹下節子[2002; 2012]、などの著書が大いに参考になった。ここではその歴史的、思想的意義について述べる余裕がないので、詳細はこれらの著書にゆずりたい。
本論集のような、キリスト教を人類史上最強の文明化装置として、各地域の事例をもとにその功罪を問おうとする立場の研究は、本質主義批判にはなじまない類の学問的営為だと自負している。これは、各地域の事例をそれぞれ独立した現象として取り上げ、それを相互に比較するという単純な自然科学的比較方法論とは根本的に異なっているからである。それは、キリスト教、ミッションという普遍化原理を媒介として各地域の事例を相互に関連づけ、多元化、微分化によるデ・フリースのいう「差異化」をめざした比較だからである。とくに現在進行している宗教をとりまく状況の劇的な変容については、キリスト教世界、非キリスト教世界を問わず、というよりむしろ後者についての詳細な研究を互いに突き合わせ、これを総合化する類の「比較」研究が求められている。小論では現在進行している宗教の変容について、現実把握の理論的前提について簡単に触れたのち、本論集の構成、意義について述べることにする。
なお、本書は上に述べたような構想のもとに実施された共同研究会の成果を集約したものである。したがって、対象地域はオセアニアの小島から人口10億を超える地域までを含んでいる。編者も人類学にとっての「比較」研究の重要性はことあるごとに強調してきたが、こうした多様な地域、主題を集約した論集であるために、記述のスタイル、分量にバラツキがあるのは事実である。しかし、同一の主題を扱っても、各地域によってその社会的文化的背景を考慮するならば、統一した規準による論述のスタイルをとることはかえって重要な論点を見失うおそれもある。その意味で、むしろ論述の多様性をも含めた「比較」の成果であることを強調するためにあえて、過度の統一は行わなかったことをお断りしておく。
1 再定義からナショナリズムへ
世俗化論
後期資本主義社会、高度消費社会におけるポスト・モダン状況の中での宗教の評価については、いわゆる宗教の「世俗化」(secularization)論の流れの中での議論が大きな潮流をなしている。世俗化論はウェーバーの「呪術剥奪(脱呪術化)」(Entzauberung)概念をうけてこれを発展させたブライアン・ウィルソン(Bryan R. Wilson)以降盛んに論じられた。しかし山中弘なども述べているように、西欧近代社会をモデルにして安易に近代化と世俗化をセットととらえる視点そのものは鋭い批判にさらされている[山中 2004: 107-129; cf. カサノヴァ 1997]。アジア宗教の商品化について論じたキティアルサもまた、ウィルソンやハモンド[Hammond 1985]らの近代国民国家、キリスト教、近代的市場経済の存在を前提としたヨーロッパ中心的な宗教の世俗化モデル論に批判的である[Kitiarsa 2008: 3-6]。その意味でも非西欧世界における現代宗教の状況について考察することは特に人類学にとってきわめて重要な意義がある[Casanova 2008]。……中略……
宗教とナショナリズム:ポストモダン状況
1990年代の世界史的な展開ののち、多くの論者が指摘するのは、宗教の復権であり、ときに復讐である。こうした変化をうけて、宗教とナショナリズムをめぐる情況ももちろん大きく変貌せざるを得ない。 言うまでもなく、ソ連邦崩壊を頂点とする世界史的転換は、宗教的観点からは、政治との分断(政教分離主義)であれ、宗教そのものの否定(マルクス主義)であれ、ある意味合理的、ある意味奇形的であった宗教と近代国家との関係が、逆方向に振れる結果を招いた。
宗教改革以後、ヨーロッパ世界内部でのカトリック対プロテスタントの対立を基軸として、中小さまざまな利害が錯綜して、宗教と国家との関係は全く否定するでもなく、全て肯定するでもなく、曖昧なままに、相互の微細な差異をあげつらった結果、両者の関係は尋常ではない緊張関係をはらむことになった。さらに、フランス革命を契機にプロテスタント的言説が世界を覆うにいたっても、こうした曖昧さや微細な差異に基づくさまざまな紛争は絶えることがなかった。それはことが「宗教」をめぐるだけに、人びとの生存をかけた闘いとして展開され、一時「世俗化」が進むと思われたのに反して、むしろ再定義され、強化され、そして全面化、グローバル化してきている[杉本 2003b]。
こうした情況においては、20世紀型のプロテスタント的近代国民国家の存在を前提としたナショナリズム研究にも一つの転機が訪れていることも認識しなければならない。それは、ナショナリズムの主体となるネーションと国家との関係が、マイノリティ対マジョリティ、個別と全体のような後者による権力的な包摂関係を必ずしも前提としないナショナリズムがむしろ主流になってきているからである。それはたとえば、旧ソ連邦を構成していた諸国において、民族自決を優先すればすでに定着したロシア系住民がマイノリティに転じ、さらには、カザフスターンのように朝鮮系のマイノリティが含まれている例もある。
すなわち、ポストモダン情況は、近代主義的なイデオロギー対立の図式が崩壊したのちの、ナショナル・アイデンティティがきわめて微細なレベルまで曖昧化しているものの、ネーション意識は近代以前とは比べ物にならないほど強固なものとなっている情況を指している。それだけでなく、ポストモダン情況はまさに、近代主義のもとで否定され全体社会と切り離されてきた宗教が声高に復権し、これもかつてよりも強固なものとなったような情況を指している。このような、曖昧化、多様化しながら同時に強靱化、固定化するような方向性については、これを宗教とナショナリズムをめぐるポストモダン情況として現出したと認識すべきである。
さらに、21世紀に入り、宗教とナショナリズムをめぐる議論もまた、こうしたポストモダン情況から、さらにその先へと展開しているというのが本論集の基本的な前提となる。そのさいに、ポストモダン的に曖昧化、多様化したものが、近代的なロジックによってむしろ固定化、強靱化しているという認識である。以下に本論集で展開されているのは、このように、近代的定義によって成立していた事象が解体され、それが雲散霧消したわけではなく、近代的定義が本来あるべきでない局面に適用され、それをふたたび再定義していくというパラドクシカルな現実をどのようにとらえるのか、そしてどのように批判するのか、についての考察である。
本論集は基本的に人類学的考察を柱にしているので、第一のミッションは世界の各社会で起っている多様な現実を、人類学的に把握することである。そのため全体の構成は、まず第一に概念、カテゴリーの揺らぎと固定化のメカニズムから始めなくてはならない。つづいて問題なのは、揺らぎを含んだ概念、カテゴリーは、高度情報化社会、高度消費社会のなかで、ヴァーチャルとリアルのあわいにあって流通し消費されるが、ときには直接強大な権力に結びつくこともある。ディジタル時代の高度情報化の進展による、「アラブの春」に象徴されるような歴史的転機はその好例である。その意味で、情報化、消費化の論理は宗教とナショナリズムの関係において重要である。さらに、近代主義の特徴である「平準化」の論理が、「多様性」の論理と共存し、小さな集団、概念カテゴリーなどの微細な差異を現出させ、さらにはその微細な差異を固定化し、イデオロギー化する効果をもっている。東アジアで起っている領土をめぐるチキン・レースはその好例である。
ポスト・モダン情況以降の世界において、文明化の基本であった西欧対非西欧あるいはキリスト教世界対非キリスト教世界といった対立図式に大きな変化が訪れているだけでなく、「非」でくくられた世界でおこっている事象が、逆に西欧キリスト教世界に大きな影響を与え、さらにはそこで固定化された事象、制度が世界をかけ廻る時代になってきている。そこでは、再定義からナショナリズムにいたるポスト・モダン的展開がさらにその先へと進んでいる可能性がある。人類学はこうした事態を、グローバルな視点に立って考察すべき責務を負うているものと考えているが、この点については、本書の構成について触れたあと、再び論ずる機会がある。……
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執筆者紹介(掲載順 *は編者)
杉本 良男(すぎもと・よしお)*
1950年生。
博士(社会人類学)(東京都立大学)。
国立民族学博物館民族文化研究部・教授。専門は社会人類学、南アジア研究。
現在は、南インドにおける津波災害復興過程、ポピュラー・カルチャーとナショナリズム、インド農村社会の構造変動、などについて調査研究を行っている。
主要業績に『インド映画への招待状』(単著、青土社, 2002)、『スリランカを知るための58章』(高桑史子、鈴木晋介と共編、明石書店、2013)、『朝倉世界地理講座 大地と人間の物語4南アジア』(立川武蔵・海津正倫と共編、朝倉書店、2012)など。
青木 恵理子(あおき・えりこ)
1953年生。
PH.D.(Anthropology)(The Australian National University)。
龍谷大学社会学部教授
人類学。インドネシア・フローレス島と日本(移民の子供たち、インドネシア人看護師・介護福祉士候補の若者たち)でのフィールドワーク。主なテーマは、詩的言語、身体、もの、信仰、権力。
主要業績に、『生を織りなすポエティクス』(世界思想社、2005)、「親密性と身体―フェティシズム現象と人類学の地平」田中雅一編『フェティシズム研究 第1巻』(京都大学学術出版会、2009)、「ネオリベラルな現在(いま)において人類学にできること」『文化人類学』74(2)、2009年、‘Korean Children, Textbooks, and Educational Practices in Japanese Primary School’. In Koreans in Japan: Critical Voices from the Margin. Ryang Sonia (ed.), Routledge, 2000 など。
岡 美穂子(おか・みほこ)
1974年生。
人間・環境学博士(京都大学)。
東京大学史料編纂所助教。
日本史、とくに16・17世紀の日本を取り巻く国際環境を、欧文史料から分析。ポルトガル、スペインのアジア進出と商業、日本に伝わったキリスト教が「キリシタン」化していく過程に関心をもつ。
主要業績に、『商人と宣教師―南蛮貿易の世界』(東京大学出版会、2010年)、「織豊政権とキリシタン」『岩波講座日本歴史 近世Ⅰ』(岩波書店、2014年)、「贖宥への祈り―マリア十五玄義と『オラショの功力』」『文学』13-5号(岩波書店、2012年)、羽田正総編集『海からみた歴史―シリーズ東アジア海域に漕ぎ出す 第1巻』(共著、東京大学出版会、2012年)、「ヨーロッパ勢力の台頭と日本人のアジア進出」桃木至朗他編『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008年)など。
藤原 久仁子(ふじわら・くにこ)
1970年生。
博士(人文科学)(お茶の水女子大学)。
大阪大学言語文化研究科言語社会専攻特任助教。
人類学、南欧地域研究。最近はEUの南方拡大、カトリシズムの社会活動と福祉ビジネスの変容/融合をテーマに研究を行っている。
主要業績に、“Customizing Places: Pilgrimage Sites, Holy Statues and the Moment of Connectedness in Contemporary Malta”, Akiko Mori (ed.), The Anthropology of Europe as Seen from Japan: Considering Contemporary Forms and Meanings of the Social, National Museum of Ethnology, 81: 169-181(2013)、 “Coping with Anxiety in a Long-living Society: Elderly Japanese Pilgrims and Their Life Design for Living Happily Ever After”, Nanami Suzuki (ed.), The Anthropology of Aging and Well-being: Searching for the Space and Time to Cultivate Life Together, National Museum of Ethnology, 80:109-122(2013)がある。
松川 恭子(まつかわ・きょうこ)
1972年生まれ
博士(人間科学)(大阪大学)。
奈良大学社会学部准教授。
専攻は文化人類学、南アジア地域研究。現在は、インド西部ゴアにおける多言語状況、大衆演劇を通じたゴア人ディアスポラのつながり、現代インドのメディア状況などについての研究を行っている。
主著書として、『コンタクト・ゾーンの人文学 第4巻 Postcolonial/ポストコロニアル』(共著、晃洋書房、2013年)、『南アジア社会を学ぶ人のために』(世界思想社、2010年、共著)、『日本文化の人類学/異文化の民俗学』(共著、法藏館、2008年)、論文として、“The Formation of Local Public Spheres in a Multilingual Society: The Case of Goa, India"(『南アジア研究』17号、2005年)など。
川島 耕司(かわしま・こうじ)
1958年生。
博士(学術)(ロンドン大学)。
国士舘大学政経学部教授。
歴史学。特に南アジア近現代史。キリスト教と南アジア社会、宗教とナショナリズムに関して、南インドとスリランカを中心に研究を行ってきた。
主要業績に、Missionaries and a Hindu State: Travancore, 1858-1936. (Delhi: Oxford University Press, 1998)、 『スリランカと民族─シンハラ・ナショナリズムの形成とマイノリティ集団』(明石書店、2006年)など。
白川 千尋(しらかわ・ちひろ)
1967年生。
博士(文学)(総合研究大学院大学)。
大阪大学大学院人間科学研究科准教授
文化人類学。メラネシアや東南アジア大陸部をフィールドとして、呪術と科学の関係や、国際協力・開発援助と文化人類学の関係に関する研究などを行っている。
主要業績に、『南太平洋における土地・観光・文化─伝統文化は誰のものか』(明石書店、2005年)、『カストム・メレシン─オセアニア民間医療の人類学的研究』(風響社、2001年)、『呪術の人類学』(川田牧人と共編、人文書院、2012年)など。
橋本 和也(はしもと・かずや)
1947年生。
博士(人間科学)(大阪大学)。
京都文教大学総合社会学部教授、文化人類学研究科教授。
文化人類学。南太平洋フィジーにおけるキリスト教、スポーツ、政治についての研究を行い、近年は観光学の確立に力を注いでいる。
主要業績に『キリスト教と植民地経験─フィジーにおける多元的世界観』(人文書院、1996年)、『観光人類学の戦略─文化の売り方・売られ方』(世界思想社、1999年)、『観光開発と文化─南からの問いかけ』(共編著、世界思想社、2003年)、『ディアスポラと先住民─民主主義・多文化主義とナショナリズム』(世界思想社、2005年)、『ラグビー&サッカーinフィジー─スポーツをフィールドワーク』(風響社、2006年)、『観光経験の人類学 ─みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(世界思想社、2011年)、(翻訳書)『王権』(A.M.ホカート著、岩波文庫、2012年)など。
辰巳[福武] 慎太郎(たつみ[ふくたけ]・しんたろう)
1972年生。
博士(地域研究)(上智大学)。
上智大学総合グローバル学部准教授。
人類学、東南アジア地域研究。東ティモールとインドネシアにおいて、人権、暴力、開発、難民、紛争後の和解の問題について民族誌的研究をおこなってきた。
主要業績に、「略奪婚─ティモール南テトゥン社会における暴力と和解に関する一考察」『文化人類学』(第72巻1号、2007年)、「開発を翻訳する─東ティモールにおける住民参加型プロジェクトを事例に」信田敏宏、真崎克彦編『東南アジア-南アジア 開発の人類学』(明石書店、 2009年)、「東ティモールにおける非暴力の思想〈ナヘビティ〉」小田博志、関雄二編『平和の人類学』(法律文化社、2014年)など。
高崎 恵(たかさき・めぐみ)
1963年生まれ。
学術博士(人類学)(国際基督教大学)。
国際基督教大学アジア文化研究所研究員。
現在は、エスニック教会の社会活動、文化財をめぐるアイデンティティ形成などに関する調査・研究を行っている。
主要業績に、『自己像の選択』(国際基督教大学比較文化研究会、1999年)。「帰属の場を求めて」西井凉子・田辺繁治編『社会空間の人類学』(世界思想社、2006年)。「2つのpara:オリジナルとイメージ群」ツベタナ・クリステワ編著『パロディと日本文化』(笠間書院、2014年)など。翻訳にマーク・R・マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(トランスビュー、2005年)など。
小林 勝(こばやし・まさる)
1960年生。
文学修士(南山大学)。
長崎純心大学人文学部比較文化学科教授。
社会人類学、インドの宗教と社会の関わりについて、特にケーララ地方をフィールドとして研究してきた。
主要業績に 「文明化としてのキリスト教的制度性への改宗―インド・ケーララ地方におけるヒンドゥー教の再編成をめぐって」『キリスト教と文明化の人類学的研究』(杉本良男編、国立民族学博物館報告62、2006年)、「歴史のなかのヒンドゥー教とその課題(1)〜(5)」『純心人文研究』15〜19号ほか。
窪田 幸子(くぼた・さちこ)
1959年生。
社会学博士(甲南大学)。
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。
文化人類学、オーストラリア研究、先住民研究。現在は、オーストラリア先住民を中心として、先住民と国家、国際社会との関係の国際的比較、美術館、博物館や観光による先住民の美術工芸品の変化の実像などについての調査研究を行っている。
著書に『アボリジニ社会のジェンダー人類学─先住民・女性・社会変化』(世界思想社、2005年)、共編著に『「先住民」とはだれか』(野林厚志と共編、世界思想社、2009年)、『多文化国家の先住民』(小山修三と共編、世界思想社、2002年)、などがある。