目次
一 従来の研究が明かす謀略と犠牲
二 オルドスからの狼煙
三 延安派を襲う「青い都」の赤い嵐
四 「二つの顔をもつ連中」(双面料)
4.1 破壊された文藝界
4.2 「二つの顔を持つ」政治家たち
五 「日本刀を吊るした偽満洲国の奴ら」
5.1 ナンバー・スリーの重要性
5.2 トグスの背後のハーフンガ
5.3 「決死隊員」の発見
六 黄河の怒涛
参考文献
本書所収資料の出典
第二部 民族自決と民族問題に関する資料群
資料一 前門飯店会議の荒波と陝西省北部の「高崗反党集団」
1,伊盟盟委书记暴彦巴图同志大会发言记录(1966年6月27日).
2,暴彦巴图同志与郝、田宗派集团斗争的回顾(1967年6月12日).
3,呼和浩特八个总部赴伊联合调查团关于伊盟问题的调查报告(1967年9月7日).
4,华北局、内蒙党委负责同志关于暴彦巴图问题的谈话、指示(1966年).
26,暴彦巴图是武斗的总指挥,刘琮(1968年1月3日)
27,北京活动过程和组织系统,吴占东(1968年元月24日)..
28,彻底批判中国赫鲁晓夫及其在伊盟代理人在农牧业生产上推行反革命修正主义路线的罪行(1968年3月27日)..
29,坚决揪出反党反社会主义的巴图巴根(1966年10月15日)..
資料二 延安派に対する攻撃
1,抗议!为什么不让我们声讨布赫?(1967年5月9日).
2,大好形式激斗志,红色狂飙卷长风(1967年12月2日)
3,打倒活阎王布赫(1967年12月2日)
4,批倒批臭内蒙古文艺界头号走资派布赫(1968年6月10日)
26,『革命大批判简报』第12期(1970年7月28日)
27,『革命大批判简报』第13期,呼和浩特市革命委员会革命大批判组,册子(1970年8月4日).
28,打倒女魔王―乌兰(1967年7月9日)..
29,内蒙女魔王乌兰就擒记(1967年7月9日)..
資料三 東西融合の「二つの顔を持つ連中」(双面料)への理論的攻撃
1, 彻底清算乌兰夫反党集团破坏京剧革命的滔天罪行(1967年8月)
2,『静静的顿河』与『茫茫的草原』(1967年11月29日)
3,『大批判』(1967年12月).
19, 打倒反革命修正主义民族分裂主义分子王再天(续)(1968年3月14日)..
20, 王再天之流迫害李旭同志的铁证(1968年3月21日)..
21, 王再天包庇坏人反党叛国罪责难逃(1968年3月13日)
資料四「日本刀を吊るした奴ら」と「漢奸」への攻撃
1,哈丰阿的死党,漏网乌兰夫分子,反革命修正主义分子,民族分裂主义分子,特古斯(1967年11月27日)..
2,哈丰阿的死党,漏网乌兰夫分子,反革命修正主义分子,民族分裂主义分子,特古斯(1967年11月27日)
3,哈丰阿的死党,漏网乌兰夫分子,反革命修正主义分子,民族分裂主义分子,特古斯(1967年11月28日).
4,批斗反革命修正主义分子民族分裂主义分子特古斯大会专刊,1。(1967年11月?)
39,打倒巴盟党内最大的走资本主义道路的当权派,乌兰夫的代理人巴图巴根(材料汇编一),(1967年9月).
40,打倒巴盟党内最大的走资本主义道路的当权派,乌兰夫的代理人―巴图巴根(材料汇编二)(1967年10月)..
41,反革命修正主义民族分裂主义分子李贵罪行选编(1968年7月23日)
42,李贵疯狂反对毛泽东思想破坏活学活用毛主席著作群众运动罪该万死(1968年7月28日)
内容説明
本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印するシリーズ。モンゴルの「民族自決」のさまざまな流れが、文革に至る政治闘争の中でいかに問題化されていったか。一次資料からその局面を探る。
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第一部 民族自決と民族問題に関する資料解説 より
中国文化大革命は、内モンゴル自治区の最高指導者のウラーンフーの打倒からはじまった。ウラーンフーに批判の罵声を最初に浴びせたモンゴル人政治家は、オルドスにあるイケジョー盟書記のボインバトだった。東部出身のボインバトが西部のウラーンフーを攻撃するという政治的な構図である。西部のモンゴル人政治家が追放された後、東部のモンゴル人たちも生き残れなくなり、最終的には中国政府と中国人たちに大量虐殺されたのである。
では、北京市内の前門飯店でボインバト書記はどのような発言をして、それまでの上司のウラーンフーに矛先を向けたのだろうか。この問題は、今日までの文化大革命研究が解明してこなかった謎のひとつである。……
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北京では劉少奇と鄧小平たちが工作組を各大学に派遣して文化大革命運動を従来の政治運動同様に政府主導でリードしようとしていたのと同じように、内モンゴル自治区でもウラーンフーの長男ブヘ(布赫)をはじめとする文革指導小組は工作組を各大学に回した。工作組は共産党の既得権益者たちの利益を守ろうとしているのではないか、とみた学生たちは抵抗をはじめた。ウラーンフーが北京の前門飯店会議で粛清されたとの情報が内モンゴル自治区に伝わると、6月18日にブヘの文革指導小組の組長のポストは早速、剥奪された[楊 2011a:328]。ここから、ウラーンフーのファミリーと彼を中心とする延安派たちは一掃されるコースをたどる。8月17日、林学院大学と文化芸術聯合会(略して文聯)の「革命的な群衆」たちはウラーンフーの長男ブヘの夫人、ジュランチチク(珠嵐其其格)を「抓みだして闘争」した[楊 2011a:342]。いうまでもなく、「抓み出して闘争する」ことは、暴力を加えて人格を凌辱することを指す。中国人たちが最も得意とする行動である。まもなく、ウラーンフーの夫人雲麗文も「現代の西太后」として打倒された。ウラーンフーは「現代の殿様」(当代王爺)や「第二のチンギス・ハーン」と批判された。モンゴルや中央ユーラシア諸民族の英雄であるチンギス・ハーンも「封建的な領主」だと貶されていたからである。モンゴル人の歴史は完全に否定され、肯定すべきところは何ひとつなかった。……
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編者紹介
楊海英(Yang Haiying)
日本国静岡大学人文学部教授。専攻、文化人類学。
主な著書
『草原と馬とモンゴル人』日本放送出版協会、2001年。
『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』風響社、2004年。
『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』平凡社、2005年。
『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』風響社、2007年。
『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』風響社、2008年。
主な編著書
『《金書》研究への序説』国立民族学博物館、1998年。
Manuscripts from Private Collections in Ordus, Mongolia I, Mongolian Culture Studies I, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2000, Ko¨ln, Germany.
Manuscripts from Private Collections in Ordus,Mongolia II, Mongolian Culture Studies II, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2001, Ko¨ln, Germany.
『オルドス・モンゴル族オーノス氏の写本コレクション』国立民族学博物館、2002年。
『ランタブ―チベット・モンゴル医学古典名著』大学教育出版、2002年。
Subud Erike: A Mongolian Chronicle of 1835. Mongolian Culture Studies VI, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2003, Ko¨ln, Germany.
『内モンゴル自治区フフホト市シレート・ジョー寺の古文書』風響社、2006年。
『蒙古源流―内モンゴル自治区オルドス市档案館所蔵の二種類の写本』風響社、2007年。