目次
第一章 問題の所在と考察対象者
一 本書の考察対象と研究の視点
二 本書の考察対象者
三 考察する諸問題
四 この時期の知識分子に関する研究の現状
第二章 政治理論学習と知識分子の思想改造
一 政治理論学習の展開 ──「思想領域における解放戦争」
二 清華大学の「大課」と費孝通
三 費の知識分子思想改造論と「紳士」「紳権」論
四 消極的な潘光旦
五 新理学を批判した馮友蘭
六 「課程改革」と社会学存続の危機
第三章 知識分子の土地改革参加と思想改造
一 教師と学生を土地改革の現場へ送りこむ大学
二 参加者の体験と「思想的収穫」
三 共産党中央と毛沢東の指示
四 積極的に呼応する民主党派
五 「思想的収穫」と思想的転換
六 村の「階級闘争」を踏まえて土地改革を思索する
第四章 土地改革工作隊と参加者たち
一 清華大学土地改革工作隊──潘の日記から
二 馮友蘭、雷海宗の解職をめぐって
三 沈従文の土地改革参加をめぐって
四 「教授治校」伝統の廃絶
第五章 時代の潮流に身を流されながら
──潘と沈の日記と手紙から読む
一 民盟と共産党政権
二 共産党流の政治統合の手法に対して
三 潘の「民主社会」論
四 潘の個人論
五 自らの位置づけと志
六 読書、図書購入、翻訳
七 沈従文の「生命観」と時代との不和
第六章 『蘇南土地改革訪問記』をめぐって
一 『訪問記』について
二 『訪問記』を潘の民国期研究と比較して
三 「江南に封建なし」説と董時進批判
四 董の批判者の民国期における土地制度に関する研究と視点
五 呉景超の国民政府の土地政策に対する評価
第七章 蘇南における階級、土地制度と土地改革
一 地主の所有地の比率をめぐって
二 土地所有権の変動と地主
三 階級区分の政治的経済的指標
四 開弦弓村の土地改革と地主に対する「階級闘争」
第八章 知識人の思想的転換から中国革命を読む
一 おのおのの思想改造とその共通点
二 「価値変換はある集団状況に根ざしている」
三 政治統制の組織的制度的特徴
四 「唯一の意味源」としてのイデオロギー
五 革命思想のレトリックに熟達した「局外者」
あとがき
参考文献
索引
内容説明
1949年の新中国の建国は「解放」の喜びとともに、とりわけ知識人に大きな変革──価値観の転換、立場や尊厳の喪失等をもたらした。本書は、そうした群像の中から、代表的な知識人を選び、その生き方を追究。歴史の奔流に直面した人間の真実に迫る貴重なドキュメントである。
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第一章より
1 考察対象
本書は、新中国の成立初期、共産党政権下で展開された最初の二つの政治運動、即ち「政治理論学習」と「土地改革」における「知識分子」を考察することを目的とする。
具体的には、この時期の潘光旦(一八九九〜一九六七)、費孝通(一九一〇〜二〇〇五)、及び清華大学を中心とする周囲の知識分子の言動に注目し、共産党政権と実際に接触するこの最初の時期に、知識分子は、新政権やそのもとで行なわれた政治運動に、いかに対応したか、その経験が彼らにいかなる変化をもたらしたか、或いは、いかなる状況のもとで彼らは自らを変えざるを得なかったのか、その後の彼らの社会や政治に関する言論が、民国期と比べていかに異なっていくのかなどを、時代背景や共産党政権の動向と関連させながら考察する。
ここで言う「知識分子」とは、一九〇五年に科挙制度が廃止されて以後、新教育制度のもとで大学や高等専門学校以上の教育を受けた者を意味し、その人数は、一説によると、一九四九年の時点では、一五〇万人ほどであった。知識分子群の中核をなしていたのは、「高級知識分子」と呼ばれた欧米留学の経験者たちであった。
一九四九年の夏から、すでに共産党に接収された大学では、「新思想」と呼ばれたマルクス主義理論と革命思想を学ぶ「政治理論学習」が行なわれた。「弁証法唯物論と史的唯物論」や「新民主主義」などが授業課目に組み入れられ、学生はその学習を義務づけられ、教員や職員も「学習班」に編成され毎週学習会が開かれた。
政治理論学習において、新思想を学ぶ知識分子が直面した重要な課題は、「人民革命」に対する認識を深め、各自が内面に有する個人主義や改良主義、「超階級観」(階級闘争否定論)などの錯誤思想を自己批判し、個人のブルジョアやプチブルの「階級的立場」をプロレタリアのそれへと転換することであった。
学習が開始されてまもなく、新聞や雑誌は有名な知識分子の感想文を掲載し始めた。費孝通も、比較的早く学習体験を寄稿する一人であった。多くの感想文から、彼らは真剣に新思想の学習に取り組み、自ら進んで思想改造をしていたことが伝わる。
一方、一九四〇年代後半、共産党は土地改革運動を、共産党解放区や、国民党政権から新たに奪取した地域において順次展開し、一九四九年の政権掌握に伴いさらに全国に拡大した。この「千古未曾有の社会制度の大変革」と呼ばれた政治運動に、大学の教授や芸術家、作家などの知識分子も積極的に、或いは、巻き込まれて参加した。一九五二年までの間、全国範囲で数十万と言われる知識分子が、「工作隊」や「参観団」のかたちで土地改革に参加し、「封建的土地制度を取り除き」、「千百年来人民を搾取してきた封建的地主階級を打倒する」といった革命闘争のなかで、村落において農民を組織し、土地改革の進行を取り仕切りながら、自らも階級闘争の概念や人民的視点を形成し、プロレタリアの階級的立場に立つよう自己改造した。多くの人が体験や感想を手記や記事に綴り新聞や雑誌に投稿し、土地改革の現場や個人の思想改造の状況を報告した。潘光旦も、江南地域に赴いて土地改革を見学し、その見聞を新聞に連続的に寄稿した。
このように、政治理論学習と土地改革参加は、知識分子が共産党政権のもとで歩む長い思想改造の道の始まりであり、そこで思想的転換の第一歩を踏み出した。それにより、一九五〇年代中期までに連続的に展開された「大学教師政治学習と資産階級思想批判運動」や、三反運動、紅楼夢研究批判、胡適批判、反右派闘争などの政治運動における知識分子改造の端緒が開かれたのである。
潘と費が所属していた清華大学は、民国期には北京大学と並ぶ中国国内一流の国立総合大学であり、欧米留学の経験者が集結していた。校内の最高機構であった校務会議のメンバーは、全員欧米大学の学位取得者であり、教授陣も留学経験者が多数を占めていた。このようなエリート校に対して、共産党政権は一九四九年初めに接収した当初から、対知識分子工作の重点校として、政治運動の進行ばかりではなく、大学の管理機構の改造や役職の配置、学科の設置、著名な学者の評価や待遇などに関するまで、様々な面において具体的に介入し、たえまなく指示を出した。
清華大学は、二つの政治運動において、全国の大学の先頭に立った。費が責任者だった政治理論学習の展開経験が、全国紙に紹介された。また、土地改革においても、清華大学はかなり早く「土地改革工作隊」を送り出した。
「高級知識分子」の多くは、本来、国民党政権に批判的な態度をもっていながらも、共産党の革命に「存疑」、即ち、疑問をもち、無条件に賛成することはなかった。しかし、革命が勝利し、大学が共産党政権に接収されるにつれて、彼らは、基本的に短期間で政治態度を変え、異口同音に共産党やその思想、政策を擁護するするようになった。中国知識分子群の代表的存在であった彼らは、それぞれ独自な社会思想や歴史観、豊かな社会研究や調査の経験、或いは、国民党政府の経済政策のブレーンを担当した政治経験など、共産党とは異なる体系の思想や学問、国家建設のプランの持ち主であったにもかかわらず、たちまち自らの社会思想や歴史観を「旧思想」というレッテルで封じ込め、「新思想」と銘打った共産党の言説を取り入れて、自分たちも未消化のうちに新しいレトリックで語り始めた。
2 研究の視点
中国知識分子の集団的転向の速さと付和雷同の如き言動に対して、後述するように (第四節)、現在、様々な分析や議論が行なわれており、肯定的に捉えるものもあれば、否定的に捉えるものもある。肯定的なものは、主としてそれを人民から遊離した知識分子層が人民へと近寄った一歩として評価するのに対して、否定的なものは、それを知識分子に対する洗脳の開始として批判した。後者には、その原因を共産党体制の抑圧性に帰するものもあれば、非難の矛先を王権に仕える士の伝統を受け継いだ知識分子の軟弱さに向けたものもある。
本書は、できるだけ価値判断を避けて、むしろダイナミックな歴史的現場の状況に近づくことに力を入れ、様々な要素が複雑に絡み合っていた「事実」から、知識分子の集団的思想転換に至る文脈を探求したい。この作業は、その時代の政治的仕組みを把握することに帰結する。
ここで言う「事実」は、歴史学者遅塚忠躬の理論を参考にしている。遅塚は、歴史家が①問題設定、②史料選び、③史料批判・照合・解釈、④事実の間の関連性を把握、⑤歴史像を構築など五つの作業工程を述べる際、二つの意味で「事実」に言及した。第一に、関心を抱いている「過去の問題を究明することに適した事実」、これは雑多な史料群の中から選び出した関連史料に記載された過去の出来事を意味する。第二に、関連史料を検討することを通して発見した「史料の背後にある事実」、これは様々な出来事間の因果関係や相互連関という歴史的文脈を意味する。歴史家は、具体性をもつ第一種の事実を取捨、照合、考証することを通して、現象の背後にある関連性をつかみ、歴史像を構築する。そして、その全体像の中で個々の出来事の意味を解釈する。
筆者は、新中国初期の知識分子を分析するために、当時の主要な新聞や雑誌、大学の議事録、個人の日記、年表、回想、著述などから、関連する事実を析出し、それらを総合的に分析し、次の四つの次元において研究を展開した。
第一に、研究対象となる個人に関する記述を整理し、この時期における各々の活動軌跡を追究する。(中略)
第二に、個人の記述から読みとることができた、彼らの思想転換に影響を与えた直接的、間接的な様々な要因を整理し、それらの相互関連性を分析する。(中略)
第三に、知を生産する知識分子を研究対象とする場合、もう一つの歴史的「事実」を取り上げる必要がある。即ち、彼らが著した数多くの文章を通して、彼らの思想や、それを公表した環境の変化を見ることである。
この時期に、彼らは、新聞や雑誌の記事、自己批判書、手紙、日記など、様々な文章を残した。それらを分析すれば、上記二種の歴史的「事実」が浮かび上がるのみではなく、①彼らの歴史観や社会観、個人観、②それを形成する思考様式、③思考や意見を公表する手段や環境などの転換を読み取ることができる。
そこに見られる主要な傾向は、言うまでもなく、マルクス主義や共産党文化の浸透とそれへの思想的傾倒である。
(中略)
新中国が成立して以降、新聞や雑誌、放送などマス・メディアを「党の喉舌」、即ち、党の思想と政策を宣伝する道具として位置づけた共産党政権は、国民党政権時代以来のマスコミ各社を全面的に接収し、改組した。たとえ出版社が留保され、雑誌が本来の題名で発行されていても、中味は変わった。言わば、独立した知を育てる場が根こそぎ抜き取られて、あたかもかつて存在したことがなかったように黙殺され、封印された。かつて著名な知識分子が執筆陣であった雑誌『観察』さえも、一九四九年末に、共産党中央政府の主導で復刊されて以後、共産党やその政策を擁護する論稿一色に染まった。
知識分子が独自に刊行物を作る「自由」がなくなり、意見を発表する拠点を失ったことは、単に個々人にとって見解や研究成果を公表する手段やルートを無くしたことを意味するのみではなく、それ以上に、「天下」や社会に対する責任をもつと自負し、知識を生産する社会階層とされてきた知識分子群にとって、知を育成し、民衆に発信する公共の場がもはやどこにも存在しないことを意味した。
以上の他に、文化人類学者として、どうしてももう一つ付け加えたいのは、社会思想を社会現実と照合することである。即ち、知識分子たちを傾倒させた土地改革の思想と政策を中国農村の社会現実と照らし合わせて考察することである。それらははたして社会の現実に符合する適切なものなのか、複雑かつ流動的な社会様態ははたして単一な階級区分の基準で片付けられるか、などの問題を同時代の社会に戻して考えてみたい。特に潘光旦が見学した江南地域に注目し、地主階級、土地制度、義田などに関して、民国期の調査や論考、土地改革期の関連資料、近年来の研究、及び日本人研究者の考察などを総合して、できるだけその本来の様相に近づき、それを以て、共産党の相応政策及びそれに順応する論調の問題点を浮き彫りにしたい。
本書は、一つの歴史時期における知識分子の姿勢や言動に対する考察を通して、革命勝利直後の知識分子の思想的転換の足どりを明らかにするのみではなく、共産党政権の教育界思想界のコントロールに乗り出す方法や、共産党の政治的思想的統合のメカニズム、共産党の中国農村社会認識など、政治体制や思想統制、政治思想そのものに関する諸問題の考察にも「投石問路」してみる。
建国初期に焦点を当てて研究する理由について、「まえがき」に述べた以外、もう一言述べたい。
筆者の問題意識のコアにあるのは、革命の体質やその思想的特徴を相対化することである。中国の伝統思想や西洋の民主主義、現代思想に学問の源流をもつ、「異質」な知識分子が共産党政権下に身を置かざるを得なかった最初の時期こそ、知識分子に深く内省させ、思想的転換を猛烈に促した革命の「衝撃力」や、迎える「新」と放棄せざるを得ない「旧」との対峙がより明確であり、言わば、革命と向かい合うもう一つの「座標軸」が存在したわけである。この対比を通してこそ、革命の「すがた」を浮かび上がらせるのではないかと思う。
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著者紹介
聶莉莉(にえ りり)
1990年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
専攻は文化人類学、中国及び東アジア地域研究。
現在、東京女子大学現代教養学部教授。
主著書として、『劉堡――中国東北地方の宗族及びその変容』(東京大学出版社、1992年)、『大地は生きている――中国風水の思想と実践』(てらいんく、2000年、共編著)、『中国民衆の戦争記憶――日本軍の細菌戦による傷跡』(明石書店、2006年)、「費孝通――その志・学問と人生」(『東アジアの知識人』第281-299頁、有志舎、2014年)、など。