目次
●第一部 理論篇
第一章 序論──「華人学」の循環論を超えて(津田浩司)
一 「華人学」の隘路
二 循環論を超えて
三 フィールドワーク
四 主体の物語を解きほぐす─事象を高所から把握する視点に抗して
五 本書の構成
第二章 社会現象としての「対象」をいかにして捉えるか─行為中心的アプローチの可能性(櫻田涼子)
一 呼称をめぐるジレンマ
二 エスニシティ研究の限界
三 認識論の限界
四 行為中心的アプローチ
五 その可能性と限界
●第二部 「華人」という枠組みを問う
第三章 タイで「華人性」を考える─ある「華人廟」からの問い(玉置充子)
はじめに
一 ジー・テック・リムとそれをめぐる人々
二 年中行事における儀礼
三 二人の女神─リム・コーニャウとラクシュミー
おわりに
第四章 上座仏教を実践する「華人」たち─マレーシアの上座仏教徒についての考察(黄 蘊)
はじめに
一 多元的な上座仏教世界
二 多様な活動・選択肢─上座仏教寺院、団体の活動
三 なぜ上座仏教なのか
四 人々にとっての上座仏教の実践
五 「華人仏教徒」として立ち現われてくる時
六 「マレーシア的」上座仏教実践と多様化する現実
おわりに
第五章 オランダ在住「プラナカン」の語りに見られる「華人性」の再検討(北村由美)
一 「華人性」の希求と問い直し
二 オランダにおけるインドネシア出身の華人と「プラナカン」、そして「華人性」
三 プラナカンと「プラナカン」
四 「プラナカン」の記憶と語り
五 結論
●第三部 想像された「ホーム」、記憶の中の「ホーム」
第六章 甘いかおりと美しい記憶─マレー半島の喫茶文化コピティアムとノスタルジアについて(櫻田涼子)
はじめに─〈過去〉を消費する
一 モダニティと記憶
二 コピティアムはどこから来たのか
三 個人の語りとナショナル・ヒストリー
おわりに─語られ、共有される〈美しい過去〉
第七章 つながりに生きる―「チャイニーズ」の“roots”と“routes”に関する考察(奈倉京子)
一 「チャイニーズ」と定位した、その先へ
二 「ホーム」の再考
三 あるミャンマー・チャイニーズ女性の歩みと越境する家族
四 想像の中の理想郷「中国」
五 個人の直接的経験が創り出す「ホーム」
六 “routes”の中に現出される「ホーム」
●第四部 実践の深みへ
第八章 シンガポールのハングリー・ゴースト・フェスティバルとスペクタクル化する儀礼(伏木香織)
─立ち現れる「華人」のイメージとその内実
はじめに
一 シンガポールの陰暦七月という時空間
二 スペクタクル化する儀礼
三 儀礼に関わる人々とスペクタクル化
おわりに
第九章 インドネシアの国家英雄ジョン・リー─「華人」という「主体」の物語を問う(津田浩司)
はじめに
一 国家英雄制度と華人
二 「華人国家英雄」ジョン・リーの推戴の経緯
三 ジョン・リーに読み込まれる諸々の価値
四 推戴当事者をいかに捉えるか
五 集合体としての「インドネシア華人」が立ち現れるとき
エピローグ
あとがき
索引
内容説明
「華人学」2.0を目指して。
循環論に陥りがちな従来の言説を離れ、「華人」と語られ、「華人」が行うとされる状況に寄り添い、無数の差異から立ち現れるものを凝視。本質主義をめぐる議論の呪縛を解き放ち、新たな地平を目指す貴重な試み。
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はじめにより
本書は「華人学」という枠組み、あるいはその根底にある「華人」という枠組みそのものについて問うことを目的としている。しかし、実のところ、筆者は個人的にその枠組みを疑っていた、あるいは信じたことがなかったといったら言い過ぎだろうか。本書における「華人」という研究対象はもとより、筆者がこれまでに研究対象としてきたインドネシアや台湾の音楽や演劇といったフィールドにおいて筆者がしてきたことといえば、自分の興味に従ってただ、人々の生きる様を見てきた、ということのみである。しかしその中で、我々は「〇〇人」である、という語りの嘘臭さ、というよりはむしろきな臭さといったらよいだろうか、そうしたものがいずれの場合にも常に透けて見え、その括り自体に辟易とすることもしばしばだったのである。それはもしかしたら、仮に「華人学」という学問分野に何らかの基礎があるとして、新参者の筆者はその基礎的な部分をかならずしも押さえていないからなのかもしれないが、いずれにしても、筆者には当初から「華人学」という学問分野が成立していること自体が不思議であった。
フィールドワークで見ている現実(筆者の今回のフィールドワークの現場はシンガポールである)にあっては、「華人」あるいは「チャイニーズ」という括りが人々の語りの中で登場する場面こそあれ、それがそう呼称する/される人の具体的実践を厳密に指しているわけでもなかったし、「華人」をめぐる何がしかの脱状況的本質を指しているわけでもなかったように思う。しかし、そのフィールドワークから得られた知見を踏まえて筆者が研究発表をすると、聴衆からはそれが「華人研究」の枠組みでなされたものと自動的にみなされてしまうことに猛烈な違和感を覚えていたのである。
もちろん、現実のなかには、どうしても「華人」という言葉と切り離して語ることができない何かがあることもまた事実である。「華人」を自分の肩書きとし、それを生きている人々を否定することはできないし、「華人文化」を積極的に生きている人々の実践を否定することも当然できない。しかし、「華人」という枠組みがそもそもどこまでも茫漠として捉えがたいものであったとしたらどうだろうか。一般に「華人」と呼ばれる人々は父系出自をベースに親族集団を認識するとされるが、移民によって明確なルーツを失った人々(つまり、祖先を同定できない人々)もいるし、地域によっては祖母やそれ以前の配偶者に「華人」がいたと語る(したがって自分も「華人」と関わりがある人物なのだと語る)人々もいるわけで、それらの人々はどこまでが明確に「華人」と認定できるのだろうか。そして、それを判別するのは一体誰なのだろうか?
そしてさらに言えば、その「華人文化」とされるものの実践が、必ずしも「華人」だけのものでないとしたら?実際、「華人」のものとして知られる文化要素の多くは、別に「華人」のみによって行われていたり享受されていたりするわけではない。例えばインドネシアの東ジャワを中心に行われているワヤン・ポテヒ(布袋戯)は現在、多くの担い手が「ジャワ人」である。そのような実践に「華人」という冠をつけることはふさわしいのだろうか? 実際、担い手たちは今日、これを「インドネシア」の芸能であると主張していて、そこには巧みな生存戦略が見られるわけだが、こうしたものを研究者が「華人」という括りを無条件に適用して語るわけにはいくまい。本来的にいかようにも括り得る複雑な現実の実践は、本書の各事例においても多くみられるわけだが、これらから「華人」という言葉の冠を外したら、一体どのようなまとまりとして語ることができるだろうか。いやそもそも、その実践ないし実践する主体を何らかのまとまりとして捉え尽くすことができないとするならば、それらばらばらの個の実践が、どのような条件のもと、どのような括りで語られうるのかを真剣に考えて見る必要がないだろうか?
しかしこれは考えてみれば、何も「華人」や特定のエスニシティに限定した問いではない。それらの実践を体系づけて語ろうとするならば、何らかの枠組みに依拠せざるを得ない。主体を捉える枠組みの指標として、国家や地域などの概念を用いたとしても、問題は同じである。つまり、目の前の人を「ある種/地域の人々」として括ったとき、その人はすでにその「種/地域」的属性を背負った主体としてそこに厳然として立ち現われてしまったかのような様相を見せてしまい、そこからは当の「種/属性」をめぐる問いと答えしか得られない。せいぜい、その枠組みから幾分はみでるような事態を、さも重大事であるかのように報告するのが関の山だろう。この永遠に続く循環論的な罠については、序論で津田が詳しく述べているのでここでは触れない。いずれにしても、その循環論的な罠に陥らないで、どのように主体の紡ぐ物語を認識し捉え直すことができるのか、という点について自覚的になることを自らに課したのが、本書のもととなった研究会だった。この緩やかな合意のもと、それぞれが現時点で起きている現象と人々の実践を注意深く見直すこととなった。
しかしながら、これがとんでもない難題であったことは、研究会発表の場で、たびたび思い知らされることとなった。「華人」を論じているつもりはなかった。しかしふと気がつけば「華人」がゴールになっている……。あるいは「華人」という表現を注意深く避けようとしながら、一方でそれ以外のエスニシティや国家という概念的まとまりをあたかも自明であるかのように語ってしまう……。私たちの議論は時折紛糾し、収拾がつかなくなったことがあったことを白状しなくてはならない。そうした格闘の末に、さらに議論と相互査読の一年間を経て、ようやく本書の理論的なコンセンサスが整ったのであった。
この議論の骨格となる理論については、第一部の津田と櫻田の両章で展開されているが、その先では人々の様々な実践、現象が具体的に語られていく。タイの「華人廟」とそれを見つめる研究者、「英語で上座仏教を実践する人々」、インドネシアからオランダへ移住した「プラナカン」たち、マレー半島の「コピティアム」という現象、ミャンマー出身の「帰国華僑」と呼ばれる人々、シンガポールの中元普度儀礼とそれを取り巻く人々、そしてインドネシアにおける「華人国家英雄」の実現というプロセスの捉え方、といった具合に並ぶ諸論考は、それぞれに「華人」の香りを色濃く示すものばかりであるかのように見えるかもしれない。しかしながら、それらを丁寧に読んでいただくと、いかに「華人」と呼ばれるものが一枚岩でないのかは無論のこと、そもそも「華人」という括りを設定することがいかほどに難しいのかを示す事例になっていることが、お分かりいただけるのではないかと思う。もしかしたら本書のいくつかの章については、語りが小難しかったり、章としてボリュームが大き過ぎたりして、読む気力がわかない、という読者もいるかもしれないが、そうした方々には、たとえば第二部、第三部のコンパクトな論考から読んでいただくとよいかと思う。その上で理論編に戻っていただければ理解が一層深まると思うし、第四部の長大さと情報量の多さにも納得していただけるのではないかと思う。
ただし、先に正直に断っておくが、本書を通読した後にすっきりと何かが解決したような爽快感を得られることは、残念ながらないかもしれない。というのも、本書で問おうとした問題はあまりに大き過ぎて、結論が出るようなものではなかったからだ。いやむしろ、私たちが立てた問いというのは、明快な解を導き出すためのものというよりも、現実を硬直的に大掴みするのではなく実直に見るための、新たな問いを生み出すための問いであったから、と言った方がよいだろう。だからこそ私たちは、この問いに目を瞑ることなく、ある時点では確実に問題意識をもって取り組み、その問題から一時離れることがあったとしても、再びその問いに戻ってくる瞬間がやってくる、と信じる。こうした意味において、本書はあくまでも中間報告である。それでもこれを世に問い、多くの人に問題を共有してもらうことで、さらなる研究の進展がみられることを願う。厳しいご意見、ご叱責を受けることもあるかもしれないが、それは甘んじて受けたい。それを糧として、現実を生きる人々の生きざまとその実践に今後さらに深く迫ることができるならば、それは執筆者一同の本望である。
編者を代表して 伏木香織
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執筆者紹介(掲載順)
津田浩司(つだ こうじ)
1976年生まれ。
2008年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
専攻は文化人類学、東南アジア(特にインドネシア)の華人社会研究。
現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。
主著書として、『「華人性」の民族誌―体制転換期インドネシアの地方都市のフィールドから』(世界思想社、2011年)、『民族大国インドネシア―文化継承とアイデンティティ』(木犀社、2012年、共著)、論文として、「インドネシアにおける『中華の宗教』の現在―2000年代以降の体系化の動向を中心に」(『華僑華人研究』9号、2012年)、“The Legal and Cultural Status of Chinese Temples in Contemporary Java”(Asian Ethnicity 13(4)、2012年)など。
櫻田涼子(さくらだ りょうこ)
1975年生まれ。
2010年筑波大学大学院人文社会科学研究科歴史・人類学専攻修了。博士(文学)。
専攻は文化人類学。
現在、育英短期大学現代コミュニケーション学科准教授。
主著書として、Rethinking Representation of Asian Women: Changes, Continuity, and Everyday Life. (Palgrave-Macmillan, 2015年、共著)、論文に「家庭内祭祀から公共領域へ―マレーシア華人社会における『盂蘭勝会』の都市的構造」黄蘊編『往還する親密性と公共性―東南アジアの宗教・社会組織にみるアイデンティティと生存』(京都大学学術出版会、2014年)、 など。
玉置充子(たまき みつこ)
1965年生まれ。
2009年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。
専攻は東アジア史、東南アジア地域の華人社会研究。
現在、拓殖大学海外事情研究所客員研究員。
主著書として、『入門 東南アジア現代政治史〔改定版〕』(福村出版、2016年、共著)、論文として、「第二次世界大戦後におけるタイ華人の祖国救済運動―『暹羅華僑救済祖国糧荒委員会』(1945〜1948)を中心に」(『華僑華人研究』8号、2011年)など。
黄 蘊(こう うん)
1974年生まれ。
2005年大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。
専門は文化人類学、東南アジア地域研究。
現在、関西学院大学講師。
主著書として、『往還する親密性と公共性―東南アジアの宗教・社会組織にみるアイデンティティと生存』(京都大学学術出版社、2014年、編著)、『東南アジアの華人教団と扶鸞信仰―徳教の展開とネットワーク化』(風響社、2011年)。
北村由美(きたむら ゆみ)
1972年生まれ。
2010年一橋大学大学院言語社会研究科博士修了。博士(学術)。
専攻は東南アジア研究。
現在、京都大学附属図書館研究開発室准教授。
主著書として、『インドネシア 創られゆく華人文化―民主化以降の表象をめぐって』(明石書店、2014年)、論文として、「『西』への道─オランダにおけるインドネシア出身華人の軌跡」(地域研究』14巻2号、2014年)、「第2次世界大戦後のアメリカにおける東南アジア研究の興隆と大学図書館」(『図書館界』66巻5号、2015年)、など。
奈倉京子(なぐら きょうこ)
11977年静岡県生まれ。
2007年中国中山大学大学院人文学院(現社会学与人類学学院)博士課程修了。博士(法学)。
専攻は文化人類学、中国地域研究。
現在、静岡県立大学国際関係学部 専任講師。
主著書として、『「故郷」与「他郷」─広東帰僑的多元社区、文化適応』(北京:社会科学文献出版会、2010年)、『帰国華僑─華南移民の帰還体験と文化的適応』(風響社、2012年)、「団地における『中国系』住民と日本人住民との『融合的コミュニティ』の構築に向けて―京都府N団地自治会の取り組みを事例として」吉原和男編『現代における人の国際移動─アジアから日本へ(慶應義塾大学東アジア研究所叢書)』(慶應大学出版会、2013年)論文として、「中国系移民の『故郷』を問う―帰国華僑の中国認識」(『文化人類学』80巻4号、2016年)など。
伏木香織(ふしき かおり)
1971年生まれ。
2004年大正大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。
専門は音楽人類学、民族音楽学。
現在、大正大学文学部、准教授。
主著書として、Potehi: Glove Puppet Theatre in Southeast Asia and Taiwan, Kaori Fushiki and Robin Ruizendaal eds.(Taipei: Taiyuan, 2015、編著)、「『過平安橋』─シンガポールの広場に出現するゆるやかな公共性の場」黄蘊編『往還する親密性と公共性─東南アジアの宗教・社会組織にみるアイデンティティと生存』(京都大学学術出版会、2014年)、「シンガポールの歌台─イメージの連鎖からたちあがる問題系としての現象」(『アジア・アフリカ地域研究』12巻2号、2013年)、'Social and Political Effects of Pop Bali Alternatif on Balinese Society: The Example of "XXX"' (International Journal of Asia-Pacific Studies 9/1, 2013年)、 「『生きる』楽器─スリンの音の変化をめぐって」河合香吏、床呂郁哉編『ものの人類学』(京都大学学術出版会、2011年)など。