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近代日本の人類学史

帝国と植民地の記憶

近代日本の人類学史

130年余にわたる日本人類学の足跡を、文献とオーラル・ヒストリー、現地調査の積み上げによって丹念に追った労作。

著者 中生 勝美
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2016/03/31
ISBN 9784894892279
判型・ページ数 A5・624ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき

序章 研究の課題と方法
  第1節 研究の問題意識と視点
  第2節 『オリエンタリズム』インパクト
  第3節 日本の植民地と人類学
  第4節 研究の対象と方法

◆前篇 植民地の拡張と人類学

第1章 台湾:旧慣調査と台北帝国大学
  第1節 はじめに
  第2節 臨時台湾旧慣調査
  第3節 台北帝国大学土俗・人種学研究室
  第4節 台湾研究から南方研究へ
  第5節 おわりに

第2章 朝鮮:慣習調査と京城帝国大学
  第1節 はじめに
  第2節 朝鮮総督府の調査事業
  第3節 京城帝国大学の研究
  第4節 京城帝国大学の人類学
  第5節 おわりに

第3章 南洋群島:委任統治と民族調査
  第1節 はじめに
  第2節 南洋群島統治史
  第3節 日本統治による調査事業
  第4節 松岡静雄のミクロネシア民族学
  第5節 日本のゴーギャン:土方久功
  第6節 杉浦健一と土地旧慣調査
  第7節 おわりに

第4章 満洲:満鉄調査部と満洲国の民族学
  第1節 はじめに
  第2節 兵要地誌と満鉄調査部
  第3節 満鉄調査部の旧慣調査
  第4節 満洲国の民族政策
  第5節 満洲民族学会
  第6節 おわりに

◆後篇 戦時中の民族学

第5章 民族研究所:戦時中の日本民族学
  第1節 はじめに
  第2節 岡正雄の研究所設立構想
  第3節 民族研究所設立までの経緯
  第4節 民族研究所設立運動
  第5節 民族研究所の組織
  第6節 民族研究所の活動
  第7節 研究所の戦争関与
  第8節 研究活動と海外調査
  第9節 おわりに

第6章 内陸アジア研究と京都学派:西北研究所の組織と活動
  第1節 はじめに
  第2節 日本の内陸アジア戦略
  第3節 西北研究所設立の経緯
  第4節 京都学派の学術探検
  第5節 西北研究所の成果
  第6節 戦争と西北研究所
  第7節 おわりに

第7章 イスラーム研究とムスリム工作:内陸アジアと東南アジア研究
  第1節 はじめに
  第2節 日本とイスラーム世界の関係史
  第3節 イスラーム調査・研究機関
  第4節 戦時中のムスリム調査
  第5節 おわりに

終章 近代日本の学知と人類学

あとがき
参考文献
応答者一覧(敬称略)
初出一覧
写真・図表一覧
人名一覧
索引

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内容説明

日本人類学は「大東亜共栄圏」の子供か?

「人類学は西洋帝国主義の子供である」とすればまさにそうだが、歴史はキャッチコピーではない。本書は、130年余にわたる日本人類学の足跡を、文献とオーラル・ヒストリー、そして現地調査の積み上げによって丹念に追った、貴重なドキュメントである。

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終章

(2)帝国の人類学

 日本の人類学の発展プロセスを検証するためには、歴史の分野に踏み込む必要がある。しかし単に文献資料に依拠するだけでは限界がある。なぜならば、人類学は机上の学問ではなく、辺境地でフィールドワークをする学問なのだからである。よって、人類学の歴史を叙述する場合でも、民族誌を検証するために再調査が必要な手段となる。

 人類学は、歴史研究に対して、フィールドワークを基調とすることで一定の距離を置いてきた。それは、19世紀の人類学研究が人類文明の発祥を探求するため、人類史の復元に力を注いでおり、そうした人類学史、あるいは文化史の復元に対するアンチテーゼとして、マリノフスキーやラドクリフ=ブラウンによって築かれた近代人類学は、あえて歴史記録のない社会のフィールドワークを採用したからである。人類学が、植民地主義との関係で自らの研究を批判的に検証する動きが世界各地で顕著になったのは、序章でも述べたように1970年代と1990年代である。日本でも、1990年代からポストモダン人類学の影響でこのテーマが扱われるようになってきた。けれどもポストモダン人類学は、この問題を理論にとどめる戦略をとっている。その理由は、歴史問題に一歩足を踏み入れたならば、人類学が歴史学に飲み込まれてしまうと危惧するからだと説明されている[太田 1996: 287]。

 日本における人類学の形成過程と、現地調査にいたる歴史・社会背景をふくめた「学史」の記述は、調査地の選定とか、そこへの交通手段、現地での生活支援など、現実的な交渉を必要とするため、政治的影響を回避できない。例えば、第6章で述べた京都帝国大学の大興安嶺探検の事例がそれに当たる。満洲国の北端で、ソ連と国境を接した大興安嶺は、満洲国で唯一の白地図地帯であったがゆえに、京都帝国大学探検隊の候補地となった。当初、探検実施の申請は満洲国治安部から拒否されたが、粘り強い交渉の結果、最後に実施の許可を得た。大興安嶺探検が僻地の学術調査から、徐々にソ連との国境地帯地図の作成という軍事的な要請を採り入れた内容に変更することで調査が許可された。大興安嶺探検の実施プロセスからわかることは、調査者と政治的・軍事的主体との関係は、一方が他方の依頼で調査を実現したというのではなく、学術的な目的と政治的・軍事的な要請が相互に乗り入れた「同床異夢」の状況ということができる。

 人類学のフィールドワークは、一方で純然たる学問的な動機が出発点にあるとしても、他方で政治的な要素が絡んでくる。そこで人類学史を描くためには、その背景となる帝国日本の公的機関、台湾・朝鮮総督府や南洋庁などの植民地政府、満洲国や蒙疆連合自治政府などの傀儡政権、そして軍隊との関係を検証しなければ、真の意味で民族誌の社会背景はつかめない。特に、フィールドワークにより民族誌を作成する手法が進んだ1930年代は、日本が戦争により対外戦略を展開した時期である。序章で1929年に制定された「日本十進分類法」では「風俗慣習・民俗学」と「国防・軍事」が隣接して分類されていると指摘したように、日本の学知にとって、人類学と軍事が隣接領域であることを示唆している。

 第1次世界大戦が終結した1920年代より、民族ごとに国民国家を建設する動きが活発になった。その一方で、ヨーロッパ諸国の植民地拡張は、すでに無主地の分割が終わり、植民地を巡る国際紛争へと展開していた。1930年代は、領土の併合や植民地の拡張が不可能となり、独立を目指す民族の国家建設を支援することで、傀儡政権による実質的な植民地拡張へと路線変更している。満洲国、蒙疆連合自治政府のような傀儡政権は、民族と国家の矛盾をついて、民族の独立支援の名目で、帝国日本の勢力圏を拡大しようとした政策であった。

 植民地では、直接的な同化政策=内地延長政策が施行できたが、傀儡政権では、直接的な日本統治を強制することはできず、現地の文化を尊重する間接統治が基本であった。1935年に民族学会が組織されたように、日本国内でも異民族の社会、文化研究が盛んになるのは、このような対外政策の展開と無縁ではなかった。

 しかし、本書で分析したように、人類学が植民地の統治や傀儡政権の政策に直接関与したことは少ない。あくまで植民地や傀儡政権の拡大によって、人類学の調査対象地域が拡大したにすぎない。また、帝国日本の勢力が拡大するにしたがって、特に傀儡政権の場合、現地事情を掌握する国家機関の軍人、植民地官僚、植民地機関(満鉄や南洋拓殖会社など)などの職員、調査員など、民族誌的知識を調査する人々が大量に生まれ、人類学への情報提供、通訳、現地での受け入れ補助などをしている。特に傀儡政権の場合、現地事情を掌握した上で、日本の統治政策を進めるため、現地で人類学者が求める民族誌的情報と同じものを収集する必要性があった。当時の民族誌に、文献資料として傀儡政権や軍部、満鉄調査部のような調査機関の資料を引用しているのは、数多くの情報機関が現地情報を収集していて、人類学者の活動はその一環であったことを示している。

(中略)

 ヨーロッパの国民国家建設を分析したホブズボームも竹内と同じ見解を示している。19世紀にヨーロッパで建設された国民国家(nation state)は、世界的な統一をした「大国家」を理想として、それが直ちに実現できないため、次善の策として想定されたのであった。そこで国家建設は不可避的に拡大する過程にあると捉え、民族運動は国家建設を民族的統一あるいは拡大を目指す運動であると思われていた[ホブズボーム 2001: 37-40]。日本の近代化は「後発の国民国家の建設」と形容されるが、帝国日本の膨張主義は、19世紀のヨーロッパで形成された国民国家建設のプロセスを忠実に導入したに過ぎない。生物学で「個体発生は系統発生を繰り返す」といわれるように、日本の膨張主義は、近代国家建設に不可分な要素であった。この膨張主義こそ、「他者」としてのアジアの知識を必要とする動機となっている。

 植民地統治は、「異化」よりも「同化」が強調されるが、統治初期は「旧慣調査」に示されるように、現地の習慣尊重という「異化」の政策が取られた。その後、「異化」が重要性を帯びるのは、植民地よりも傀儡政権による戦略である。第1次世界大戦の終結によって、ヴェルサイユ条約で取り決められた国境線は、大国の利害が変更を要求する以外は動かせなくなっていた[ホブズボーム 2001: 173]。そこで帝国日本が採用したのは、親日傀儡政権を擁立する戦略である。傀儡政権の創出は、民族と国家の矛盾を突いて勢力圏の拡大を目指した。

 現在の人類学の研究から、民族がナショナリズムの影響で創造されたものであり、紛争や政治的な要素で形成されるものであることは自明なこととされている[ゲルナー 2000: 95]。しかし、民族を形成するイデオロギーとしての文化的要素は、宗教、言語、歴史であり、外面的には人為性を隠蔽しているので、連綿とした歴史的継続性と伝統を強調して恣意性を表面化させない。それゆえ、政治的・経済的格差を文化的差異で説明し、対立する社会集団との文化差異を主張し、一定集団のアイデンティティを形成するのである。このようにしてナショナリズムを喚起し民族形成を促進する「民族」の「学」として「民族学」が帝国日本の戦略として期待され、民族起源論から大日本帝国の統治原理を正当化しようとした。しかし、大東亜共栄圏、八紘一宇などの概念は、最終的に統治原理にまで昇華されず、敗戦を迎えたのである。

 

 (3)学知とモラル

 最後に、日本の人類学史を植民地と占領地の調査から分析した結果として、歴史と倫理の問題について考えておきたい。ヘーゲルは、『歴史哲学講義』の中で、ドイツ語の「歴史(Geschichte)」は客観的な面と主観的な面が統一されており、「歴史」は「なされたこと」を意味するとともに「なされなかったことの物語」も意味していると述べている[ヘーゲル 1994: 108]。ヘーゲルのいう「なされなかったことの物語」とは歴史的な行為や事件の公的な記録ではなく、家族の回想や一族の伝承、日々の単調な経過などをさしている。これは公式の歴史(official history)に対して非公式な歴史(unofficial history)である。ヘーゲルは、このような個別な歴史記述に目を配りながら、そこを超越して世界精神の自己発展としての哲学的な歴史に関心があった。筆者が本書で目指したのは、ヘーゲルのように細部にこだわりながら、人類学を通して帝国日本の学知を描くことであった。

 日本では、植民地の行政や国策会社を指揮監督する独立した中央官庁を設置しようとする計画が、後藤新平が拓植省を構想して以来、何度も議論されたが、1929年にようやく拓務省として実現された[加藤 2006: 142]。植民地と占領地で展開した人類学も、すべての調査活動が明確な国家目的で組織され、整備された研究体制で実施されたわけではない。国策と調査研究が直接的な関係で結ばれていたとはいえず、強いて挙げるならば第5章で分析した民族研究所が、その設置目的から関連が深いといえるだろう。

 戦前の植民地、そして占領地を含む帝国日本で展開された人類学的研究は、ニコラス・トーマスが指摘するように、植民地状況によって記憶が「断片化」されている[Thomas 1994]。だからその全体像を鳥瞰するためには、レヴィ=ストロースが『未開の思考』で用いたブリコラージュの手法で個別の研究史を重ねあわせることでしか描けない。

 民族誌が作成された歴史背景を復元しながら日本の人類学史を記述するには、「書かれない歴史」を、いかにオーラル・ヒストリーや未公刊文書から復元するかが鍵になってくる。第5章の民族研究所で述べたような占領地の書籍を収奪して図書館の蔵書にしたことや、第6章で述べた人類学者と細菌戦との関係など、従来の人類学史でまったく記述されていない事柄は、断片化した資料の復元から初めてたどり着いた。これらの史実の掘り起こしを踏まえ、次の段階は歴史と倫理の関係である。(後略)

 

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著者紹介
中生勝美(なかお かつみ)
1956年広島生まれ、中央大学法学部、明治大学博士前期、上智大学博士後期満期退学。2015年京都大学より博士(人間・環境学)の学位授与。宮城学院女子短期大学、大阪市立大学等を経て桜美林大学教授。主要な業績は、『中国村落の権力構造と社会変化』(アジア政経学会、1990年)、『広東語自遊自在』(日本交通公社、1992年)、編著として『植民地人類学の展望』(風響社、2000年)。翻訳にウルフ著『リン家の人々:台湾農村の家庭生活』(風響社、1998年)、その他、中国、香港、台湾の社会・文化、植民地関係の論文多数。

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