目次
序論 別様でありうる「住まうこと」─非同一的な生の民族誌に向けて
第一章 「海に住まうこと」の現在─民族誌的概観
第二章 海を渡り、島々に住まう─移住と人工島群の形成史
第三章 海を渡る生者たちと死者たち─葬制、移住と親族関係
第四章 「カストム/教会」の景観─現在の中のキリスト教受容史
第五章 夜の海、都市の市場─漁業と「住まうこと」の現状
第六章 生い茂る草木とともに─土地利用と「自然」をめぐる偶有性
第七章 想起されるマーシナ・ルール─「住まうこと」と偶有性の時間
結論
あとがき
参照文献
写真・図表一覧・索引
内容説明
サンゴを積み上げた人工の島に暮らす人々。悠久の昔から続く南洋の長閑な風景と見まがう。だが、ひとびとの日常に深く寄り添うと、そこには絶えざる変化と切り結ぶ日々新たな生活があった。同時代を生きる者同士としての共振から新たな民族誌を展望。
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序論より
3 別様でありうる「住まうこと」
以上の説明が示すように、T村やその周辺に住むアシの人々には、現在通用しているような居住=生活の諸条件、たとえばT氏族の先住集団としての立場を一方で受け入れつつ、他方で同時に、それとはまったく異なる居住=生活のあり方を想像し続けているという、顕著に二面的な状況が認められる。居住=生活をめぐる異なる可能性が並存する、このように多義的な状況を、本書では偶有性(contingency)という概念によって言い表すこととしたい。
偶有性は、必然性(necessity)、すなわちあるものが「そうでしかありえない」ということに対立する概念であり、あるものが「現にそうであるのだが、それはたまたまそうであるに過ぎず、それはあくまで別様でありうる」という可能性を意味している[cf. 東・大澤 二〇〇三:七五―七六、古東 一九九八、メイヤスー 二〇一六]。右でイロイとu島の事例に即して見たように、アシの人々が生きている「住まうこと」の現状には、「自分たちが今ここで、このように住まっている」ということの内部に、現在とは異なる居住=生活の可能性がつねに潜在しているような、重層的な性格が認められる。しかもそうした可能性は、客観的・分析的にのみ指摘されうるものではなく、右の例が示すように、アシ自身によって多かれ少なかれ明示的・意識的に経験されている。また、これらの異なる居住=生活のあり方は、一方が他方を否定・排除するに至ることなく、相互に緊張を保ったままで、アシの「住まうこと」の現状の中に共存し続けているように見える。
調査の過程で筆者が気付いたように、そしてまた、本書の各章が描き出していくように、このような偶有性は、今日におけるアシの居住=生活のさまざまな側面に見出される。「われわれ(gia, gami)」は近い将来どこに住むのか、この土地の「本当の」保有集団はどの人々なのか、「われわれ」の居住=生活は、本当に「教会に従った(sulia lotu)」、すなわちキリスト教的なものと言えるのか。このような多くの点について、アシの人々は、奇妙に非決定的な、宙に浮いたような意識をもっている。そしてその中で、現在の居住地とはまったく異なる場所への移住や、現状とはまったく異なる集落の形成、あるいは現在とはまったく異なる経済生活といった、別様な「住まうこと」の多様な可能性が想像され続けているのである。
そうであるとすれば、アシにおける「海に住まうこと」の現状を明らかにするという本書の作業は、「住まうこと」をめぐるそのように異なる可能性の間での、アシの人々の不断の揺れ動きを記述するというかたちで遂行される必要がある。また理論的には、アシの「住まうこと」の偶有性を記述しようとする本書は、民族誌記述を伝統的に支えてきた対象の同一性についての想定から、決定的に離れることになる(四節参照)。本書において問題なのは、対象となる人々について、「アシはこれまでも〇〇であったし、これからもそうである」といった必然性あるいは不変の同一性を描くことでもなければ、「アシはかつて〇〇であったが、現在では××である」と表現されるような、ある同一性から別の同一性への外的な移行あるいは通時的な変化について記述することでもない。求められているのはむしろ、アシの「住まうこと」の現状それ自体を、異なる可能性が重層的に並存する、複雑な、そして根底において非同一的なものとして描き出すことなのである。
なお、u島の例が示すように、このように偶有的で非同一的なアシの「住まうこと」の現状において、この人々の伝統的な居住空間としての人工島は決定的な位置を占めている。u島は、すでに約三〇年に渡って無人となっており、多くの人々から見れば「ただそこにあるだけ(too gwana)」の島である。しかし逆説的にも、それは「ただそこにある」ことによって、人々の現在の内部に、つねに別様な現実の可能性を維持している。この無人の島は、その歴史的由来などがもはや「よくわからなく」なった、「われわれ」にとって根本的に疎遠で謎めいた形象であるがゆえに、現在における「われわれ」の生の中につねに異質な契機をもたらしている。そのような島が「あり続ける(too)」限り、「われわれ」の生は安定した自己同一性、すなわち「われわれの居住=生活はこのようなものと決まっている」という了解にとどまることができず、異なる可能性の間で変転し続けることになるのである。
このことはまた、無人の島のみならず、現在なお人々が居住している島々についても指摘できる。以下の各章で見るように、アシにとって人工の島々は、過去における通婚や移住といったさまざまな出来事を具現し、言うなればそれらを現在の内部へと凍結し保存するものとしてある。無人か有人かに関わらず、アシの島々は、「住まうこと」をめぐる過去や未来の多様な変化を具象化しており、それによって、現状とは異なる居住=生活のさまざまな可能性を「われわれ」に提示し続けているのである。
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著者紹介
里見龍樹(さとみ りゅうじゅ)
1980年、東京都生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得退学。博士(学術)。
現在、日本学術振興会特別研究員PD。
専攻は文化人類学、メラネシア民族誌。
主な著書に、『景観人類学――身体・政治・マテリアリティ』(時潮社、2016年、共著)、主な論文に、“An Unsettling Seascape: Kastom and Shifting Identity among the Lau in North Malaita, Solomon Islands”(People and Culture in Oceania 28、2012年)、「身体の産出、概念の延長――マリリン・ストラザーンにおけるメラネシア、民族誌、新生殖技術をめぐって」(『思想』1066号、2013年、共著)、「人類学/民族誌の『自然』への転回――メラネシアからの素描」(『現代思想』42巻1号、2014年)、訳書に、マリリン・ストラザーン『部分的つながり』、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『インディオの気まぐれな魂』(いずれも水声社、2015年、共訳)。
また、本書のもととなった博士論文に対し、第15回アジア太平洋研究賞(井植記念賞)を受賞。