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沈黙の医療

スリランカ伝承医療における言葉と診療

沈黙の医療

言語を忌避し、分析を超越した医療体系は、積徳=診療、供物=代価の応答でもあった。伝統医療の根底に潜む生命観・世界観に迫る。

著者 梅村 絢美
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2017/03/20
ISBN 9784894892408
判型・ページ数 A5・320ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

 はじめに──セレンディピティ
 序論
◆第Ⅰ部 パーランパリカ・ウェダカマという対象
 第一章 受け継がれる医療実践
 第二章 パーランパリカ・ウェダカマの位置づけ
 第三章 治療家たちの「顔」
◆第Ⅱ部 治療効果の由来
 第四章 アトゥ・グナヤ(手の効力)の由来
 第五章 布施としての診療
 第六章 供物としての「診察料」
◆第Ⅲ部 沈黙と秘匿性
 第七章 沈黙の診断
 第八章 名のなき草とその薬効
 第九章 発話がまねく禍、沈黙がもたらす効力
 結論 沈黙と物象化──矛盾の先にみえるもの
 あとがき
 文献一覧
 索引

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内容説明

患者のナーディ(脈)を読み取る治療家の指先。診断から薬草の処方までの問診や応答なき治療。言語や発話を忌避し、分析を超越した医療体系は、積徳としての診療、供物としての代価の応答でもあった。伝統医療の根底に潜む生命観・世界観に迫る。

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序より

 

はじめに──セレンディピティ

 

 

 「沈黙」から見える世界。言葉にすることで消えてしまうものがあるということ。スリランカ伝承医療の治療家たちが教えてくれたのは、私の“当たり前”をひっくり返す世界の見方であった。スリランカで出会った伝承医療の治療家たちはしばしば、患者を診療する最中や処方薬を作るとき、知識を継承する過程において、特定の言葉を発話することや、何かを言葉で表現することを拒んだりする。「いったいなぜ、患者が何も説明しなくとも体調が分かってしまうのか、患者は治療家から何も説明を受けなくて不安ではないのか、薬草に関する知識を継承するとき、なぜ、暗号化したり音読を禁止する必要があるのか」。調査を開始した当初の私は、目の前でおこなわれる治療家と患者たちとのやりとりに、こうした疑問を次から次へと抱え当惑することしかできなかった。そして同時に、この不可解さの背景に何か途方もなく大きな世界が広がっているのではないかという確かな直感を覚えてもいた。

 そしてこの直観は次第に無視できないものとなり、「語らない」背景を探し出すのが私の調査の中心となっていった。しかしそこで直面せねばならなかったのは、患者や治療家たちが「語らない」のはなぜかという問いだけでなく、私自身がなぜ「沈黙」という主題にこれほど執着するようになったのかという自分自身に対する問い、つまり私の“当たり前”に対する問いであった。それは、他でもない、伝承医療の治療家やその診療を受ける患者たちが私に投げかけてきた問いでもある。診療の順番待ちをしている患者たちとおしゃべりをしている最中、「ウェダ・ハーミネー(お医者さま)は何も言わないけれど、不安じゃないのですか?」と率直に疑問をぶつけてみることがあった。すると何人かの患者が、不思議そうな表情とともに「何でわざわざ言ってもらう必要があるの?」という質問を私に向けてきたのである。つまり、「語らない」ことを私が不思議だと思うのと同様、この患者たちも私のこの質問に対し不可解さを覚えていたのだ。

 私は当初、治療家たちが「語らない」のは、おそらく「語ることができない」、つまり「言語化しようにもできない」からだと考えていた。ところが、調査をすすめる過程で明らかとなったのは、「言語化できる/できない」という二者択一の外側にある問題、つまり「言語化すべきではない」から語らないのだ、という治療家たちの姿勢であった。なるほど、「言語化できる/できない」という二者択一は、「言語化したい」「言語化せよ」という至上命令を前提としている。この前提こそ、患者たちが私に突きつけてきた問いに相違ない。沈黙あるいは「語らない」ことを、「語るべきではない」という視点から考えてみることはできないか。本書は、こうしたスリランカの人びとと私との対話の積み重ねから書かれている。

 中井久夫は、「何か全貌がわからないが無視しえない重大な何かを暗示・示唆する」徴候にもとづく知(徴候的知)と、意識的におこなわれる方法論とを対置し、前者をセレンディピティによる知であると述べている[中井 二〇〇四:二五─三六]。セレンディピティ(serendipity)とは、ペルシャに伝わる童話『セレンディップの三人の王子たち』に由来する言葉で、「思いがけない発見」という意味で用いられる。奇しくも本書と同じくスリランカ(セイロン島)を舞台とした三人の王子の冒険談である。この物語のなかで王子たちは、さまざまな些細な“気づき”から大きな発見をしていく。

 人類学の知も、セレンディピティによる知に近いのかもしれない。フィールドの人々と積み上げていく毎日の具体的なやりとりは「なんだかよく解らない謎」や「確かな根拠はないのだが何か気になる出来事」、「思いがけない発見」に満ち溢れている。ときには、その場ですぐ気づかなかったとしても、過去に記したフィールドノートや写真、記憶のなかにさえ「思いがけない発見」が潜んでいることもある。大学院生の時、ある先輩が、「調査に行く前に詰め込んだ知識っていうのは、フィールドでいったん全部“ぶっ壊れる”もんなんだ(だからといって勉強はサボるなよ)。でも、そこから本当の調査が始まるんだ」と教えてくれたことがあった。まさにそのとおりで、スリランカで過ごす毎日の中で「思いがけない発見」に遭遇するたび、これまで勉強してきたものが壊れていくこと、自分の“当たり前”が壊れていくことに、ある種の快感にも似た心地よさを覚えた。そしてその「思いがけない発見」を夢中になって追いかけていくことが、何より楽しかった。中井の言い方を借りれば、治療家や患者たちが「語らない」というとても小さな出来事の向こう側に、何かとんでもなく面白いものがあるのではないか、という根拠のない直観と気配が私の体験線を大きく変えたのである。

 本書は、二〇一二年度に提出した博士論文が基礎となっている。しかし、本書の完成に至るまで多くの時間が経ってしまった。その理由は、私の力不足と計画性のなさに加えて、本書がはらむ無視できない重大な矛盾を前にして、私自身が厄介な袋小路から抜け出せなくなってしまったことにある。その矛盾とは、「明らかにされないこと・言葉にされないことについて書く」という本書の試みそのものに他ならない。「言葉にすることで消失するものがあるのだ」(序論で詳述する言語表象と単独性の議論)と書いているうちに、「だったら何も書かなければいいじゃないか」と思えてならなかったし、本書を書くことそれ自体が自身の議論の胡散臭さを体現しているようでもあり、気が引けてしまったのである。

 こうした葛藤は、調査中ずっと私の背後にまとわりついて離れることのなかったある種の戸惑い・奇妙な自制心とも関係している。調査の最中、私は、フィールドでの五感にもとづく正直な気持ちと、調査対象について何でも明らかにして記述しなければならないという研究者としての使命感との間で常に葛藤を余儀なくされていた。「薬草の名前を言う(明らかにする)とサクティ(治療の効力)が無くなる」(私のことを信頼しているか否かという問題ではない。第八章参照)と主張する治療家たちを前にして、執拗に薬草の名前を尋ねたり、自身で調べたりすることが心底苦痛で無意味なことのように感じられ、それらは決して「明らかにしてはならない」ものであり、私などが「踏み込むべきでない」「知るべきでない」領域のように思えてならかった。むしろ私の興味は、「なぜ言わないのか」という方向にシフトしていったのである。しかし一方で、治療家たちがどんなに拒み嫌がったとしても、もっとアグレッシヴにアプローチして、何としてでも薬草の名前や治療内容の全容を明らかにすべきではないのか。こうした姿勢を自ら諦めることは、フィールドワーカーとして失格ではなかろうか、という自責の念ももっていた。博士論文を書き上げた後にも、何度かスリランカを訪れ、治療家たちのもとで調査をおこなったが、この葛藤はより大きくなるばかりで折り合いをつけることなど到底できなかった。

 こうした矛盾や葛藤を自覚しながらも、どうにか本書をまとめることができたのは、右も左も分からない私をサポートしてくださったスリランカの人びとがいたからである。何としてでも本書を書き上げてみんなに見てもらいたいと思ったし、彼・彼女とのやり取りの中で、私自身の世界の見方が大きく変わっていった過程について、矛盾や葛藤も含めて正直に記しておくことが、私に与えられた重要な仕事に相違ないと確信したからである。あらかじめ断っておくと、本書はスリランカ伝承医療についてのモノグラフや民族誌としては不十分な内容となっている。伝承医療の具体的な治療法についてはほとんど書かれていないため、伝承医療に関する詳細な「情報」を求める読者を満足させることはできないだろう。しかし、こうした「情報」に対して治療家たちがどのような姿勢で向き合っているかということについて、彼・彼女たちの診療をじっくりと観察し、立ち止まって考察することこそが、私が遭遇したセレンディピティが導く先に他ならない。

 「人類学なんかやってて、何の役に立つの?」という質問に、相手が納得する形で答えることは難しい。しかし、人類学者であるからこそ伝えられる世界の見方があり、ひとりひとりの人類学者にしかできない話というのがあって、ときにそれは人に感動を与えうるのだと私は確信している(少なくとも私は、人類学を続けてくるなかで何度も救われてきた)。単なる自己物語りや自己満足に収束することなく、本書に込めたメッセージが幾人かの読者に届けば何より幸いであり、またこれ以上にない本研究の成果である。

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著者紹介

梅村絢美(うめむら あやみ)
1983年、愛知県岡崎市生まれ。
東京都立大学人文学部卒業。
首都大学東京大学院人文科学研究科博士後期課程修了。博士(社会人類学)。
現在、日本学術振興会特別研究員PD。
専攻は社会人類学。
主な論文に、「発話がまねく禍、沈黙がもたらす効力:スリランカ土着の伝統医療パーランパリカー・ヴェダカマの知の継承と医療実践」(『社会人類学年報』37号、2011年)、「エンターテインメント化する医療:スリランカにおけるアーユルヴェーダ・ツーリズムをめぐって」(『人文学報』453号、2012年)、「人と環境をつなぐツーリズム:スリランカにおけるアーユルヴェーダ・ツーリズムをめぐって」(『旅の文化研究所研究報告』22号、2012年)、「土着医療のアーユルヴェーダ化:スリランカにおける土着の医療実践の位置づけをめぐって」(『南アジア研究』24号、2012年)などがある。

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