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水曜日 東アジア 日本  〈1号〉 1

水曜日  東アジア  日本  〈1号〉

元慶応教授らの「老いのたわごと」を雑誌にしたら……。古典・民俗・時事などに容赦なき放談の数々!

著者 野村 伸一
岩松 研吉郎
金井 広秋
シリーズ 風響社ブックレット
出版年月日 2017/10/20
ISBN 9784894894006
判型・ページ数 A5・88ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

発行にあたって

久保覚の死後18年:借りを返すべきとき 野村 伸一

榕城家常雑記(一) 岩松研吉郎 

夢の思い出 金井 広秋

わが日わが夢 金井 広秋

近況三点 野村 伸一

しめぢ帖・抜書:1702〜07 岩松研吉郎

1号後記

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内容説明

元慶応教授らの「老いのたわごと」を雑誌にしたら……。古典・民俗・時事などに容赦なき放談の数々!
慷慨談式の内閉ではしょうもない、と(昔ながらの用語で)意志統一し、三人それぞれの、今日の東アジアとその中の日本にかかわる意見・異見、卓見・短見を、世間におしつけ・ひろめよう、ということにした。

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    発行にあたって





 その昔――1970年代なかばに、おなじ研究室仲間だった私たち三人は、60年代末からの昂奮と気焔をいかほどかは保存しようとしていた。周囲からは、爆弾三勇士ならぬ独断三勇士と、敬遠も蔑視もされていたけれど、それぞれ気にもかけず、しかしあれこれの折合をつけながら、教員・研究者の渡世にはいって四十年、この間前後して定年をむかえた。
 今や三老人は、年齢相応に、ときにビアホールで(たいてい水曜日に)会同し、しかし昔話はほとんどしない。かわらず生硬の経綸問答をかわす内に、花田清輝の55年前にいわゆる慷慨談式の内閉ではしょうもない、と(昔ながらの用語で)意志統一し、三人それぞれの、今日の東アジアとその中の日本にかかわる意見・異見、卓見・短見を、世間におしつけ・ひろめよう、ということにした。
 『老人の友』との題号案もあったが、三人はいわんとするところを単純にこのタイトルにあらわしている。「水曜日」は、単に上記の偶然による他、Wednesdayが北欧かどこかの戦闘神に由来することにも多少かかわるだけで、週刊を全然意味しない。不定期に続刊される小雑誌である。
 賞詞・同意は誹謗・中傷と共にいらない。反論・批評は歓迎する。


   久保覚の死後18年:借りを返すべきとき  野村伸一

  1

 久保覚(1937~1998)のことを、わたしは長い間、忘れていた。今、時代の閉塞のなかでふと思い出した。久保覚には借りたものがあった。金銭や物ではないが、何かだいじなものを借りたようだ。それを曖昧にしたまま別れてしまった。久保覚とは誰だったのか。久保覚、本名鄭京黙。東京牛込鶴巻町生まれ。在日朝鮮人二世。編集者。朝鮮民衆文化をいち早く日本に伝え、実践する。父親は戦前、早稲田留学のために来日した[鄭信子 2000b: 305]。だが、戦後、間もなく母の死などから家庭状況は悪化し、久保は十代にして独立し、出版界で働き、組合活動をしながら多く学んだ。妹信子によると、久保の書物への愛好、社会への関心は幼少のころからのものであった。後年の久保は領域横断的に広く休みなく文化活動をする編集者として知られた。そして、1998年、心筋梗塞で急逝。享年61。早すぎる死は多くの友人知己に惜しまれた。2000年、久保覚遺稿集・追悼集刊行会の名で『収集の弁証法-久保覚遺稿集』・『未完の可能性-久保覚追悼集』の二冊の本が出された。掲載の略年譜だけをみても、編集歴、かかわった文化運動領域は驚くほど多彩である。一般には1970年代後半の『花田清輝全集』全15巻・別巻2(講談社、1977~1980)の編集者として名高い。だが、久保はせりか書房(1967年設立)の設立者三人のうちの一人であり、また編集長でもあった。そこでは、1960年~70年代にかけて欧米の思想書や戸井田道三『能―神と乞食の芸術』などの出版に携わった。とくにバフチーン『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』の訳本刊行(1973年)などは、そののちの久保の民衆文化運動への関与の土台となっているとおもわれる。また『新日本文学』とのかかわりも深く、1984年から1987年までは同誌の編集長もつとめた。久保覚にはコスモポリタンの眼差しがあった。その眼で朝鮮民衆文化の躍動感をとらえ日本につなぐことを試みた。終生、崔承喜論を構想し、その先に『朝鮮婦女』(朝鮮の文化と社会の根柢に潜む女性論)を書くことを念願としていた。


 久保の苛立ちはこういうことだろう。朝鮮近代民衆のこころの痛みは植民地経験以前に溯り朝鮮朝後期の民衆の暮らしに結びつく。その間の表現の機微をろくに知らないまま利いた風な口をきくものではない。それは日本の文壇や学会を背景に朝鮮文化を得々と語る日本知識人に向けていいたかったことばだったのだろう。久保は、周囲の者に自身が在日二世であることを告げなかったが、わたしは聞いてはいた。しかし、それは瑣末なことであった。久保は多面的に文化活動をした。そこでは「在日」を掲げることは不必要であった。とはいえ、久保の朝鮮民衆への思い入れは並大抵ではなかった。1985年の2月28日、荻窪の久保の家によばれていった。久保はどこで入手したのか、全羅道の「洗いクッ」や「茅船クッ」、慶尚道の「霊山綱引」などの民俗戯、さらには「フッサナ(ボムボク)打令」、「江原道金剛山笊売り」、「いなご打令」など各地の民謡のビデオをみせてくれた。日本の朝鮮文化研究者でこれらを一人で理解できる人は今でもいないだろう。久保も十分に解説できたわけではないが、その民衆性は理解していた。3月7日にも訪問した。このときは『河回仮面戯』『統営五広大』の仮面劇、村祭り『京畿道都堂クッ』のビデオをともにみた。畏るべき情熱である。当日の日記には「久保という人はできる人だ。モチベーションがあるということ」と記してある。3月14日には慶尚南道の仮面劇と放浪芸人男寺党のビデオを準備していた。3月24日には東中野の新日本文学会の編集室で韓国「大同あそび」関連の訳文を会読した。柳解丁(1954~)の「韓国民衆文化運動の論理―ひらかれている小集団運動」(1984。訳文『新日本文学』1985年2月号)だったとおもうが、メモがない。あるいは「新しい大同ノリのために」(1983)の訳文だったかもしれない。いずれにしても久保はこの若い演出家の説く集団制作、共同作業による演劇に強い関心を持っていた。その日、居酒屋での席で久保は若い人に向けて「民衆の目を馬鹿にしちゃいけない」といった。その場には総連系の人もいたが、久保は「今時、主体塔などというのはナンセンスだ」といい、熱い議論をしていた。


 久保は内なる民族主義の克服のために朝鮮半島の民衆文化を掘り起こし、それをアジアの次元で捉えようとした。日本、朝鮮といった枠を越えて、偏狭な時代を批評する文化を創造する。そのためには通名でよかった。実に久保は広大のようなものだ。久保光雄、北村久、高坂潤子、サンチョ・パンサという筆名も使った[木下昌明 2000b: 82]。そこにいるのは久保覚ではなく、サーカス芸人その人だったといえるかもしれない。ここで、久保が当時の韓国仮面劇に託した夢を振り返っておきたい。久保は1981年に「金芝河と韓国の民衆劇」を書いた。「1 蜚語と笑いの芸術に向けて」は金芝河への称賛ではじまる。金芝河は朝鮮民衆の口承的文化を巧みに用いて民衆に届く声とした。そのことへの称賛であった。また「2 トータル・シアターとしてのタルチュム」のなかで、韓国仮面劇は「朝鮮民衆のはげしい反封建闘争の歴史と対応し、通底している」といった。この視点でみるとき、それはバフチーンのいう「民衆的グロテスク」、小野二郎のいうイギリス民衆芸術の「下品、俗悪、法外……『尊厳』」にも通じる。そしてそれらがまた金芝河の指導した農民啓蒙劇『青山別哭』(天災、地主、侵略者との笑いに満ちた戦いの劇)にもみてとれるといった[梁民基・久保覚 1981: 11以下]。ただし、久保の仮面劇解釈は今日ではそのままでは通用しない。19世紀の仮面劇は地域の郷吏層が主導していて必ずしも平民(常民)による文化とはいえないとされる(李勛相著、宮嶋博史訳『朝鮮後期の郷吏』2007年)。しかし、久保のみた仮面劇は当時の日韓におけるひとつの演劇運動となった。その意味の真実性はあった。問題はそののち90年代以降にある。1970~80年代の民衆文化運動はその方向性を見失った。韓国でも日本でも「民衆」の多数はクルマを乗り回し、観光旅行を楽しむ消費者となった。市場経済の世界的な展開のもと、「民衆」は解体した。久保が讃えた金芝河は自身の生命思想にのめり込み、民衆の代弁者(市井の広大)としての輝きを疾うに失っている。こうしたことの原因は複合的なもので、個人の思想的転向や一、二の思想潮流では説明できない。いずれにしても大衆消費社会の波に呑み込まれたことだけは確かである。


参考文献
久保覚 1978「百戯の道」『収集の弁証法-久保覚遺稿集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚 1980「半島の舞姫」『収集の弁証法-久保覚遺稿集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚 1981「やっかいな芸術家」『収集の弁証法-久保覚遺稿集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚 1982a「中上健次は軽蔑に値する」『水牛通信』7月号通巻39号、水牛通信編集委員会(http://suigyu.com/tushin/1982_07.html)。
久保覚・津野海太郎 1982b「マダン劇をやってみた」『水牛通信』9月号通巻39号、水牛通信編集委員会(http://suigyu.com/tushin/1982_09.html#07)。
久保覚 1985「朝鮮賤民芸能のエートス―流浪芸能集団「男寺党」をめぐって」『収集の弁証法-久保覚遺稿集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚 1998「21世紀への投瓶通信(上)―ローザ・ルクセンブルク『ロシア革命論』」『収集の弁証法-久保覚遺稿集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚遺稿集・追悼集刊行会編 2000a『収集の弁証法-久保覚遺稿集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚遺稿集・追悼集刊行会編 2000b『未完の可能性-久保覚追悼集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
久保覚 2003『古書発見 女たちの本を追って』影書房。
鄭信子 2000b「兄の思い出」『未完の可能性-久保覚追悼集』久保覚遺稿集・追悼集刊行会。
「マダン劇・アリラン峠」1982『水牛通信』9月号通巻39号、水牛通信編集委員会(http://suigyu.com/tushin/1982_09.html#07)
梁民基・久保覚編訳 1981『仮面劇とマダン劇』晶文社。



   榕城家常雑記(一)  岩松研吉郎



  ▼前がき
 この両三年、九月からの数か月を、中国福建省福州市の福州大学とその教員宿舎ですごしている。
福州の自他通称は、「榕城」。榕樹(南西諸島のガジュマル、和名アコウ)の繁茂する亜熱帯の都市だ。北緯二十六度で、海峡をはさんで台湾北部とあい対し、その東方に那覇がほぼおなじ緯度にある。7・8月の炎暑期で東京より摂氏五度以上、他の季節で約十度ちかく気温がたかいから、9月から10月は夏のつづきというしかない。
市民――といっても、同僚教員たち・寮生活の学生たちの範囲をでないが、彼らは、10月1日からの国慶節の一週間の休暇がすぎると「すずしくなっています」という。けれど、体感としてはむやみな「残暑」で、「秋暑し」の季語にもほどとおい。ホトトギスの声も、その前後からきこえてくるのである。
あらためてわかったのだが、ホトトギスは、なるほどわたり鳥だ。和歌や俳諧で、「夏」(の中でもせいぜい旧暦閏の五月まで、つまり新暦で5月から7月)とされている、その後が、渡南してのここの10月頃となるらしい。ひと声のみをまちわびた歌人・俳人を尻目に、というわけでもないが、毎日トッキョキョカの鳴声(ききなれると、テッペンカケタカよりも、この写音がずっと適切)をききあきた。ばかりか、ウグイスに托卵させた雛鳥をつれてきているのだろうが、「笹鳴き」のホトトギスが、11月にかけて成長してゆく様子までききとれてしまった。
鳥や樹木のおおさと共に、無論人がおおい。福州市は、中国全体では中規模の都市だが、七百万の人口だそうだ。せいぜいのところ、その万分の一におよばぬ位の人々と接しただけで、かぎられた期間だから、ここでの見聞といってもたいしたものはない。何よりも耳と口の中国語がゼロで、(自分に対してわざと差別語をもちいるが)オシがヨシの髄からのぞいた態の日々である。
それでも、すごした日常の備忘を、雑然としるしてゆくことにする。37年から40年まで華中に、また41年から42年末まで東北(満州)に「出征」した軍医の息子としてうまれた私、「新中国」(人民共和国)へのシンパとしてそだった私が、今何をかんがえているのかを自分でみてゆく、その何かの手がかりにもなるだろうからだ。
日時は特定せず、しるすところ順序前後も適宜だが、虚構はまじえない。前記でもわかる筈だが、月日につき、漢数字表記は旧暦(太陰太陽暦、中国のいわゆる農暦)、アラビア数字は新暦(現行太陽暦)をしめす。用字は、簡体字混用の印字不便のため、すべて日本通行字体をもちいる。

  ▼忘月某日――「星火燎原」など

  ▼忘月某日――「萍」という名前

  ▼忘月某日、某々日――寺院いくつか

  ▼忘月某日――石と紙
 中国系アメリカ人のジン・ワン『石の物語』(法政大学出版局刊 邦訳)は、『紅楼夢』を中心に、『水滸伝』『西遊記』のどれもが、「石」が発端で「玉」(もしくは「珠」)が軸となってゆく、といっている。石への注目は、中国の古来の文化で、ワンは、はるか昔からについても参照している。
 石が大事といっても、京都龍安寺のちいさな石の点々を相手におもいをこらす、などとは、まったくちがうようだ。中国と中国人の石への感嘆や信仰は、奇岩、巨石、絶壁へである。
 現中国。「社会主義市場経済」では、観光産業への内外需要喚起も重要らしいから、「世界遺産」や「観光A級」以下等々の登録が盛である。そして、それら名所のおおくは、たとえば黄山・泰山・桂林・貴陽や張家界など、福建省では、武夷山が世界遺産指定を首尾よくうけたが、――どこでも、いわゆる「目玉」は、奇岩・巨石・絶壁の、昔からの奇勝だ。
武夷山には、いってみた。「自然遺産」だけでなく、「文化遺産」としても、“グローバル=環球的”に認定されている、とよろこばしく茶の原産や朱子旧蹟を宣伝している。が、売物はやはり自然景観で、奇峰と絶壁の間の急流くだりなのだった。
そんなものだろう、と前からおもっていたけれど、いってみてわかったのは、この岩・その絶壁、どこにも紅字刻銘があることだ。それは、福州市内・近郊の名所旧跡でもかわらない。石・碑がかならずあって、それぞれに刻字がある。泰山や黄山の名所映像をみても、そんな感じだ。

  ▼忘月某日――バスの中で



   夢の思い出   金井広秋



 山本一郎君は晴れて大学生になるとすっかりくつろいで腰を据えてしまい、学部、大学院と合わせて無慮十二年もの間、漠然と「文学と革命」を夢みながらウカウカ時を過ごすことになった。本音をいえばその先もっと五年も十年も夢に浸っていたかったわけだが、そんなとき断固として介入して因循な山本君に引導を渡した人が同君の指導教授だったY先生である。先生は一言「社会人になれ」とおっしゃった。今後は社会人としてだけ行為すること。それが君の夢実現の唯一路だと心得よ。先生のお説教は当時の山本君には当たり前すぎて退屈に思えたけれども、同君をたたき起こして未来へ旅立たせんとする先生の真情はよく伝わって来て有難かった。山本君は先生のお世話である高等学校の教員となり、恐る恐る社会人ということを始めたのだった。だいぶ昔、一九八〇年のことである。
 それから三年目の夏、Y先生の急逝を知って困ってしまった。享年六十八というのはいくらなんでも早すぎるので、山本君にはしばらく何かと心屈する日々がつづいた。
 社会人四年目の夏、山本君はフロイト『夢判断』を一読して感銘するところがあり、フロイト先生に倣って自分もひとつ夢日記をつけてみようかと志した。学校で働きつつ依然継続中だった同君の生ぬるい「夢見る人生」にようやく訪れた転機であるといえようか。いったい人は「夢を見る」などと当然みたいにいうが、厳密には「夢を見させられる」と受身形で表現すべきであって、事柄の主体は常に一貫して「現実」の側に属し、それが自らの管制下にある生活の一部を時に「夢」の形でわれら人民に「お見せ下さる」という次第だ。この世においては昼の「現実」こそ世界の主人、対して夜の「夢」はその下僕、たまには参考になる注釈とか、せいぜいグリコのおまけの楽しみで、それ以上ではない。ところがフロイトは常識が前提にしているそうした軽重、上下、主従の関係を転倒させ、逆に夢が王、現実はすべて王の臣、ないし必要に応じてその都度入れ替え可能な王家の備品にすぎぬと道破したのであった。一度、「夢」のほうから自分がこれぞ「現実」と仕方なく受け入れてきたこの世界を見直してみてはどうか。自分を仮に王様と決め、そこらの家来どもを好きなように値踏みしたり、備品類を勝手気ままに使ってみたりしたら、おもしろそうではないか。
 山本君の夢日記は一九八三年七月開始、翌年一月二日の記録で一区切りとした。記録した夢の数は計六十個。日記の全体は大判の集計用紙で百六十枚に及んだ。この間の山本君は毎晩枕元にメモ帳と鉛筆を置いて就寝、翌朝目覚めとともに見た(見せられた)夢を大急ぎで書き写し、夜はメモを清書したうえ、フロイト先生の発明になる「自由連想法」を使って分析・解釈を試みた。山本君はのちにこの仕事を、自分をして内側からよき「社会人」たらしめんと奮闘した意義深い勉強だったと振り返る。同君によれば、夢日記をつける作業は世間がしたりげに言う現実逃避ではなくて、むしろ「現実」と呼ばれる対象を変革する転換行為であるらしかった。
 以下に山本君の夢日記から、六十個目の夢=千九百八十四年一月二日の記録を紹介する。前半夢内容、後半解釈。前半は話の切れ目で①②③に分かれているが、話そのものは一つだ。後半解釈部も同じく①②③に分けて記述した。文中の「私」は自分の夢を記述し解釈する山本君本人を指す。彼は夢舞台の登場人物兼作者(批評者)である。終わりに、山本君の知人たる筆者の手で付記をくわえた。

  千九百八十四年一月二日の夢
① 私は雑居ビルの迷路のような内部にいた。長い通廊に沿って食堂,ラーメン屋、喫茶店、雑貨店等が装着したての入れ歯みたいにびっしりとひしめく。歩いていて少し気後れする一方、浮き立つような活気も感じられ、店の一軒一軒に薄く視線を走らせつつ狭苦しい廊をわたってゆく。埃と安油でべとつく壁、騒音、行き交う人々は口を利かない。……だんだんわかってきたけれども、どうやらこのビルのこの一画にどこか路地裏の飲食店街みたいなものがギュッと詰め込まれているのだった。二枚ほど婦人用のズボン(「二枚」というのだからスカートか?「腰巻」みたいでもあるがどうか。色は赤と緑)を正面に垂らしているだけで他になにもなく、店の奥のほうはがらんとして穴倉同然の薄暗い「ブチック」まであった。総じてビル内の印象は軽い親しみと、その親しみの中に変な圧迫感も交じっている。自分はそう感じる。



    わが日わが夢  金井広秋


 大統領になってもトランプはトランプを辞めず、「入国禁止令」とか「安倍ゴルフ接待」とか、やることなすこと反エリートバッヂひけらかしてビジネスに徹する不動産王で一貫している。テレビの画面に大写しされるトランプ大統領事務見習いの顔は、比較的正直者に見えてしまうが、裏表というものがほぼない権力者とは、ほんとうは狡猾な政治屋なんかよりずっと恐ろしい存在なのではないか。支援者にむかって、スゥエーデンにおいて悪い移民によるテロが発生したと断定し、世界人類の危機を憂えるトランプの表情は、政治演技ではなくて、真剣な危惧の念と正義の怒りに満ちていて心うたれる。ところで、しかし、現実のスゥエーデンには悪い移民による深刻なテロなんかちっとも起こっていないのだ。僕は思うが、トランプ氏はもう少しご自身の正義の怒りの発作を事実の鏡に照らして制御するわざを学んではどうか。「僕んちの鏡」ではない、もっと無愛想な鏡を手元に置いておきましょう。(後日註。以上を2月某日記した。ところが4月7日、スゥエーデンはストックホルムの中心街のデパートにトラックが猛スピードで突っ込み、死者5名、負傷者15名〈うち重体9名〉を出す大惨事となった。当局は「悪い移民によるテロ」とみなして鋭意追及中であるという。トランプ氏はまちがった事実に基づいて「正義の怒り」をぶちまけて見せる「愚か者」なのではなく、その時点ではまだ発生していなかった「事実」を一人正しく予見して、あらかじめ怒りをぶちまけておいた、非常に手回しのいい「予言者」だったらしいのだ。トランプ氏を「素人」よばわりして嘲笑ってる玄人たちよ、甘いぞ。僕も反省中だ)。
 先般非業の死を遂げた金正男氏の風貌は、もう知る人も少ないか知れぬが、戦前からの俳優「岸井明」によく似ている。ゆったりと肥満した、善良なインテリで、昭和のはじめ頃、日大演劇科学生だった彼は、同級生の若い埴谷雄高と組んで「前衛劇」運動を担った。僕は遠い以前、日本最初の(?)ミュージカル映画『銀座カンカン娘』のなかで、すこし老けた岸井が笠置シヅ子や高峰秀子と主題歌を楽し気に軽く歌ったとき、ああ、この人は自分を全うした人なんだなあと実感したことを思い出す。正男氏の弟「金正恩」は(岸井明とは反対で)祖父「金日成」に似ようと目を吊り上げて頑張っている。兄は北の未来、祖父は偉大であってもあくまで過去の朝鮮だ。未来を抹殺すれば、過去に抹殺しかえされるのが現在の運命だと思うがいかがか。「岸井明」によく似た金正男氏の霊よ、安かれ。


    近況三点   野村伸一



〔近況一〕2月14日に想う―「そののちの東洋平和論」

〔近況二〕4月に平和を想う

〔近況三〕5月9日に想う

 5月9日は韓国大統領選挙の投票日であった。

 日本との関係はさておき、この選挙を期に韓国社会が地域や世代間の葛藤を収め、平和安定を取り戻すことを切に願う。「分裂と葛藤」「保守、進歩の葛藤」を清算し、一体となって国政に当たる。それは文在寅の就任辞にもあった。実際、保守、革新の色分け論がこの4月になって保守系の政治家により蒸し返された。結果をみると、それは、かつてほどの力はなかった。ただし、文在寅を支持した1338万人余りに対して、780万人余りの人が旧態依然の「保守」言説を支持したのも確かだ。今後、韓国民の期待に沿えるか否かで、この構図は逆転もありうるだろう。いずれにしても今回、韓国民は、昨冬来の度重なる市民行動を経て政治権力の偏重、富の偏在、青少年をひたすら競争に仕向ける社会システムに明確な「否」を提示した。ここには、20世紀にはみられた英雄的リーダーや流行の思想観念は全く関係がなかった。これはたいへん重要なことだ。一体、この間の数ヶ月、韓国社会にはどんな思いが渦巻いていたのだろうか。今後、各方面の専門家が解説をするだろうが、現時点でわたしは「韓国民のこころには大同への希求が息づいていたのだ」といわざるをえない。大同とは何か。それは『礼記』礼運第九にある孔子のことばである。同書によると、孔子は12月の蜡祭(各種農神への感謝の大祭)に参席したあと、楼台に登り、四方をみた。そして現時の世に対して溜息をつき、かつての大同の世を語った。「大道之行也」ではじまる文は二千年を越えて東アジア(とくに中国、朝鮮半島)の永遠の理念として生きている。先学に学びつつ訳してみる。(夏、殷、周〈三代〉以前の時代)、天下為公、選賢、与能、講信修睦をした。故、不獨子其子、使老有所終、壮有所用、幼有所長、矜、寡、孤、独、廢疾者、皆有所養。男有分、女有帰。貨悪其棄於地也、不必蔵於己。力悪其不出於身也、不必為己。是故、謀閉而不興、盜竊、乱賊而不作。故、外戸而不閉。是謂大同。

 「大同」は新自由主義への代案としても提示されている。金起賢「儒教の社会福祉精神」は儒教哲学の立場からいう。儒教は基本的に人間学、社会哲学であり、「社会福祉の精神」を内包する。儒教において人間はそもそも社会的な存在と位置付けられる。朝鮮朝のソンビ(士人、知識人)は郷約を作り郷人をして徳行に勤めさせ、困窮者の救済を図った。郷約には徳業相勤、過失相規、礼俗相交、患難相恤がある。さらに退渓は患難にある者を助けぬ者は処罰することとした。福祉とは人の交流を促し人びとが幸福に暮らせるようにすることであり、郷約にはその精神が込められている。これこそが今日必要とされている。金起賢によればソンビは精神福祉を重んじてきた。もちろん民は「無恒産、因無恒心」(『孟子』)。それは当然だが、ソンビは物質生活に留まらず道徳的な精神を追求した。李珥は礼、儀、廉、恥の四維が「確立しなければ国は滅びる」といった。金起賢は「これは卓抜な洞察だったというほかはない」と記す。国政の私物化を糊塗した朴槿恵の顛末をみると、同感である。そして金起賢は儒教の福祉精神の精髄として大同をあげた。しかも福祉の観点からみると大同には「愛の精神」がみられる。男女、老壮、「矜寡孤獨廢疾者」への配慮は退渓によりさらに敷衍された。退渓は「彼らの痒み、痛みをまさにわが身のこととして受け入れる」といった。金起賢は朝鮮朝のソンビがしばしば「各得其所」と述べたのは今日風にいえば、労働者、農民、商人、公務員などが各人の暮らしに満足しつつ幸福を享受できるようにすること、そこに政治の窮極目標を定めるということだったという。倫理学者金起賢は具体的な福祉の体系を提示したわけではない。また西欧個人主義を厳しく批判し、相応にソンビによる社会の徳化の意義を強く主張した。そのためか、社会福祉学の一線に立つ専門家からは批判がなされた。だが、朝鮮社会の特徴でもあった「敬老孝親」の徳義は今日、新自由主義のもと、崩壊の危機にあり為す術がない。これは韓国も日本も同様である。それゆえ大同のような根源的な理念を社会福祉の名で提唱することは決して間違ってはいない。現今、権利と義務の教育は受けてはいても、親子、隣人との会話を煩わしがり、スマートフォンによるメールに馴染む世代が続出している。そうであれば、なお「大同」の短い文言を噛みしめるくらいの時間は持ちたいものだ。今、韓国の市民社会では大同に向けた大いなる変革がはじめられた。政治はいつの世も名分なき不毛の闘争をこととする者たちの側に傾くものだ。泥田鬪狗(泥仕合)に陥れば、韓国内はもちろん、日韓間、また東アジアには旧態依然とした対決構図が蒸し返されるだろう。それを防ぐためにはまずはアジアの市民連帯が必要だとおもう。


    しめぢ帖・抜書:1702〜07   岩松研吉郎


  ▶はしがき
 室町期頃の狂言や歌謡にでてくる地口というか惹句に、「しめぢが腹立ちや」がある。
 気にくわぬこと、納得できぬとき、立腹・反撥を、この句ではじめるのである。
 ひろくしられていた清水寺の観音の託宣歌、

   猶たのめしめぢが原のさしも草 我世の中にあらむかぎりは

の、ほんの一部をつかって、腹だたしいあれこれにつき、うたったりつぶやいていたらしい。いかにも室町風の脱信仰・世俗化で、気軽におもしろい。今どきネット上の「いいね!」式と逆で、色々のふくみでいえるから、ずっとましだろう。
だいぶ前から、折々の私情腹だちを、「公共圏」につなげようと、「しめぢ帖」として多々のメモをかいてきた。ネット空間の「公共性」は全然信用しないから、紙にかいておいて、どこかの席でしゃべったり、何かの原稿につかったり、という程度で、わづかに腹ふくるるくらいにはたまっている。
 本誌での機会もえて、各月の一部を抜書してゆく。三人の「近況」の、私の分である。

  ▶17年2月──東芝とウェスティングハウス

  ▶17年3月──痴漢・政治家と挙証責任
 「痴漢冤罪」よけの保険ができている、ときいた。何でも商売になるものだ、とおどろくけれども、商売にする理由もあるわけだ。電車内などで「痴漢」といわれた者が、線路上・トンネル内に逃走する例がよくあり、それは、実態が何であれ、うたがわれた側に防御の手段がない(とおもわれている)かららしい。念のために「保険」も必要になる。
すなわち、「痴漢」犯罪の疑団(疑惑)──「犯罪」は、まづはそれが犯罪か否かのうたがいから出発する──については、告発者と被告発者に非対称の関係があって、両者の通常の(市民法的)立場とことなる。
先年のある映画でもとりあげられたが、「痴漢」の件では、加害・被害両者が証拠をあげて対等市民としてあらそうことは稀で、被害者側の挙証責任がほとんど阻却されたまま、その主観証言が採用される。加害者なる側は、加害不存在の証明(これは原理的に無理な「悪魔の証明」である)をもとめられる。こうして、刑事的に立件された「痴漢」事件は、すべて「犯罪」となるのである。
 (私の多少の経験でも、大学内の諸「ハラスメント」事件にたちあって、挙証的な分析と処理は面倒なことばかりだった)
 個人間の(ことに性的な)面倒では、挙証がむずかしく“水かけ論”になることもおおい。だから、所謂セクハラにかぎらず、パワハラ、アカハラ等々で、被害(申立)者側の保護と利益のために、挙証責任の阻却がみとめられてゆく傾向は、支持・理解できぬでもない。(刑法「強姦罪」の名称変更と非親告罪化は、当然のこととおもう)
 それでも、この市民法上の非対称は、一般則に対して、例外・周縁的だ(だから、法のことでなく、災難として保険で担保される)。どこにもひろげて通用させてよいものといえない。
 このところの某私学への利益誘導の件では、この非対称が、グロテスクにあらわれている。
 税負担者たる国民への「加害」を告発されている政治家・官僚が、「被告発」=「被害」に身をおいて、「悪魔の証明」ができるのか云々といいながら、挙証責任の完全な阻却を主張しているのだ。被害者・弱者でまったくないのに、非対称を拡大利用している、といえる。
 トンネルに逃げる「加害者」や、痴漢保険をかける人よりも、いっそういなおりながら、安心の「被告発者=被害者」であろうとしているのだろう。

  ▶17年4月──桐山襲と「退位法」「共謀罪」

  ▶17年6月──「6.15」に

  ▶17年7月──70年間の憲法と「弥栄日本」


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執筆者紹介
野村伸一(のむら しんいち)
1949年生まれ、東京都台東区上野桜木町育ち。
現在、慶應義塾大学講師(言語文化研究所)、原典講読担当。
近作に編著『東アジア海域文化の生成と展開 〈東方地中海〉としての理解』(風響社、2015年)。

岩松研吉郎(いわまつ けんきちろう)
1943年東京うまれ。
慶應義塾大学名誉教授。福州大学外国語学院日語系客員教授。
日本語日本文学専攻。近業は俳句誌『都市』への「木々雑記」連載程度。

金井広秋(かない ひろあき)
1948年生まれ。群馬県前橋市に育った。学生時代は学校新聞の編集にかかわり、また同人誌「映画のおと」「文化同盟」の創刊にくわわった。作品に『死者の軍隊』上下(彩流社刊。2015)『ボクちゃんの戦争』(「慶應義塾高等学校紀要」1991)『黒田喜夫ノート』(「三田新聞」1970)等がある。元慶應義塾高等学校教諭。

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