青島〈チンタオ〉と日本
日本人教育と中国人教育
青島を中心とする山東省の権益は近代日本の大きな焦点であった。教育の現場からその数奇な足跡をたどる、もう一つの日中近代史。
著者 | 山本 一生 著 |
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ジャンル | 歴史・考古・言語 |
シリーズ | 風響社ブックレット 風響社ブックレット > 植民地教育史ブックレット |
出版年月日 | 2019/03/15 |
ISBN | 9784894894112 |
判型・ページ数 | A5・70ページ |
定価 | 本体800円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
1 日本と青島との関係
2 世界史の中の青島
二 戦前青島の中国人学校
⑴ ドイツ統治時代の中国人学校
1 蒙養学堂の設立過程
2 生徒数
3 高等教育の整備
4 まとめ
⑵ 第二次日本統治時代の中国人学校
1 青島の中国人学校で使われた日本語教科書
2 日本語教員
3 まとめ
三 戦前青島の日本人学校
⑴ 戦前青島の日本人小学校
1 青島日本第一尋常高等小学校
2 青島第二日本尋常小学校
3 青島日本第三国民学校
4 四方日本尋常小学校
5 滄口尋常高等小学校
⑵ 戦前青島の日本人中等学校
1 青島日本中学校
2 私立青島学院
3 青島高等女学校
⑶ 敗戦後の青島日本人学校と戦後日本
1 敗戦と青島からの引き揚げ
2 戦後日本における青島中学校同窓会「鳳雛会」の再興
3 日中国交正常化と青島への進出
4 青島日本人会の結成と青島日本人学校の創設
おわりに
参考資料
参考図書案内
参考文献
現在の戦前日本人学校校舎
青島および日本人学校関係年表
内容説明
青島(チンタオ)を知れば、日中問題の根っこが分かる。
ドイツ・日本・中国と何度も統治者が入れ替わった青島。「対華二十一箇条要求」「五四運動」は青島を中心とする山東省の権益が大きな焦点であった。教育の現場からその数奇な足跡をたどる、もう一つの日中近代史。
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本書より
本章では第二次日本統治時代の青島における中国人教育を見てきましたが、日本語教育が特に重視されました。こうした日本語教育で使われた教材の流れを見ると、公立学校は日本統治下の関東州と南満洲鉄道の中国人学校である公学堂で行われた日本語教育の影響があることが分かります。青島と日本との関係だけでなく、すでに日本が統治していた他のアジア地域との関係で青島の日本語教育の流れを見ていく必要があります。
こうした日本語教育の中心的存在となったのが、「青島治安維持會教育指導官」でした。彼らの選抜と派遣を担ったのが、外務省でした。ちょうど興亜院という新しい官公庁が設立される時にこうした教員人事が行われました。日本占領下の中国大陸では、日本の関係省庁の利権が複雑に入り組んでおり、教員人事をめぐってもそうした利権対立があったのかもしれません。
三 戦前青島の日本人学校
本章では、第一次世界大戦中に日本が青島を占領した後に設立された日本人学校を学校毎に見ていきます。第一次世界大戦を経て、青島の日本人人口はどう変わったのでしょうか。そこで一九一三年から二六年にかけての人口増減を[表4]にまとめました。ドイツ統治時代の一九一三年の日本人人口は三一六人で、一九一五年で三七四三人となっています。この表を見ると、占領と同時に日本人人口が急増し、さらに民政期の一九二〇年から二二年にかけて二万四〇〇〇人に増加しています。しかし、「山東還附」後の一九二三年には約九〇〇〇人減少しています。その後一九二六年までほぼ一定となっています。以上のように、日本の占領に伴う日本人人口が急に増え、家族を伴っていたために小学校の必要性が求められた訳です。
こうして第一次世界大戦によって日本と青島との関係が強まり、日本人のための学校が展開していくこととなります。では、青島にはいったいどのような日本人学校が設立されたのでしょうか。[表5]にまとめました。この表では開校日と指定日にズレがあります。この「指定日」とは、外務省・文部省による在外指定を受けた日です。この指定を受けることで教員は勤続年数を中断することなく「外地」の学校に勤務でき、卒業生も日本の学校と同じ卒業資格を得ることができるようになります。
⑴ 戦前青島の日本人小学校
1 青島日本第一尋常高等小学校
青島に最初に設立された日本人学校の一つ、青島日本第一高等尋常小学校(一小)を紹介します。前に見たように占領前の青島には日本人は三〇〇人程度しかおらず、西本願寺の住職が小さな小学校を開校していた程度でした。第一次世界大戦中の一九一四年に日本は青島を占領します。翌年日本人小学校は李村と青島に設立されます。青島ではドイツ総督府学校を改築して、小学校にしました。占領前の三〇〇人から、占領二年目の一九一六年には日本人人口は一万人を超えます。このように日本人人口の急増に伴い、一九一八年武定路に新校舎を建設します。それが一小となり、それまでの小学校が二小になります。校舎は二小の方が古いわけです。
[図5]のように、一小校舎は重厚な作りです。では、なぜ日本はこのような立派な建物を建てたのでしょうか。一九一九年に出された朝鮮総督府『支那教育状況一斑』にはこのようにあります。「壮大にして外人に威容を示すに足る教舎を新築せんとせり第一青島尋常高等小学校は既に完成して移転を終へ山東の東端に東洋第一とも称すべき宏壮なる校舎を備ふるに至れり」。このように、「外人」に威容を示すために、「東洋第一とも称すべき宏壮」な校舎を新築した、とあります。この「外人」とは、中国人ではなく欧米人であったと考えられます。というのも、第一次世界大戦に参戦して戦勝国となり、国際的地位を上げた日本は、ヨーロッパ諸国との関係を重視したからです。ドイツが建設した青島を日本が引き継いだ以上、ヨーロッパ諸国が注視している中でみすぼらしい占領地経営を行うわけにはいかなかったのだと考えられます。そのため立派な建物を建設することになったのだと思われます。では、小学校校舎は今どうなったでしょうか。二〇一一年に徳愛ガーデンホテルに改装されました[図6]。一泊五五〇元と中国のホテルとしては高い方ですが、客室は教室を改造したものですし、泊まってみてはいかがでしょうか。
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執筆者紹介
山本一生(やまもと いっせい)
1980年生まれ。
2011年東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。
専攻は日本教育史、中国教育史、都市史。
現在、上田女子短期大学総合文化学科専任講師。
主著書として、『青島の近代学校:植民地教員ネットワークの連続と断絶』(皓星社、2012年)、『京都大学人文科学研究所所蔵:華北交通写真資料集成』(国書刊行会、2016年、共著)、論文として「「外地」の商業学校の学科課程における商業教育の意義と編成方法:私立青島学院商業学校を事例として」(『植民地教育史研究年報』Vol.19、2017年)、「中華民国期山東省青島における公立学校教員:「連続服務教員」に着目して」(『史学雑誌』123編11号、2014年)など。