転流 52
アム川をめぐる中央アジアとロシアの五〇〇年史
ピョートル一世がカスピ海への転流を企図したアム川。複雑な地政学的理由によるこの壮大な構想は、数奇な運命を辿り今も生きている。
著者 | 塩谷 哲史 著 |
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ジャンル | 歴史・考古・言語 |
シリーズ | ブックレット《アジアを学ぼう》 |
出版年月日 | 2019/10/25 |
ISBN | 9784894894150 |
判型・ページ数 | A5・60ページ |
定価 | 本体700円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
二 転流構想の誕生
1 ジェンキンソンの中央アジア探検
2 ピョートル一世の転流構想
3 ピョートル一世の遺産
三 転流事業の展開
1 ロシア帝国の中央アジア軍事征服
2 「旧河床」を求めて
3 企業家たちの進出
4 ロシア帝国中央政府のトルキスタン開発計画
四 ソ連期の開発の遺産と今に生きる転流構想
1 中央アジアにおける革命、内戦、ソ連体制の成立
2 ソ連体制下中央アジアにおける大規模灌漑事業
3 カラクム運河とトルクメン幹線運河
4 アム川右岸の開発可能性
5 トゥヤムユン貯水池
五 おわりに
注・参考文献
あとがき
内容説明
ピョートル大帝の夢の跡
アム川はアラル海に流入する中央アジアの二大河川の一つだったが、ピョートル一世によってカスピ海への転流が企図された。複雑な地政学的理由によるこの壮大な構想は、その後数奇な運命を辿り、現在も環境問題に姿を変えて生きている。
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…… 本書は、ロシアがこの五〇〇年をかけて、中央アジアと政治・経済・文化などの多面にわたる関係を構築した過程で、追求してきた課題――アム川をカスピ海に転流させるという課題――の展開を明らかにする。
一九九一年のソ連解体にともない、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンからなる中央アジア五カ国は独立を果たした。この独立は、一九世紀中葉以来、一世紀半近くロシア帝国(一六一三〜一九一七年)、ソ連(一九二二〜九一年)という国家のもとで政治的に統合されてきたロシアと中央アジア地域が、それぞれ別個の国民国家として歩み出すことを意味していた。しかし、その統合の遺産、とりわけソ連期の社会主義的近代化による正負の遺産は、中央アジア諸国に今なお根強く残っている。ロシア主導で結成され、旧ソ連諸国の経済統合から将来的な政治統合も視野に入れていると言われる、ユーラシア経済連合とその加盟国間での思惑の違い、各国の旧共産党エリートの世代交代、対テロ・麻薬対策を名目として駐留するロシア軍の地位、中央アジア諸国の農村部の疲弊とロシアへの出稼ぎ者の人権問題、一九六〇〜七〇年代に急速に整備された都市インフラや電力エネルギー網の更新、ナショナリズムの台頭とリンガフランカとしてのロシア語の地位低下にともなう教育水準の維持といった諸問題は、いずれもソ連期の社会主義的近代化を抜きには語ることはできない。
こうした遺産の一つに、アラル海問題がある。一九六〇年代にアラル海は当時世界第四位の湖面積(六万八〇〇〇平方キロ)を有していたが、現在はその十分の一以下まで縮小した(図1)。その結果、砂の飛散による塩害のために農地の生産性が低下し、飲料水の汚染によって人々の胃腸系疾患の増加が見られる。またアラル海湖面の熱の吸収・放出機能が失われたため、周辺地域の夏の高温をもたらしている。アラル海沿岸地域で発達した漁業は壊滅的な打撃を受け、漁業関係者の多くがこの地を去った(図2)。こうした様々な被害をもたらしたアラル海の湖面積縮小の直接の原因は、第一にソ連期アラル海流域で展開された、綿花播種面積の拡大を目指した大規模灌漑事業に求められてきた。アラル海は、北方に東は大興安嶺から西はカルパチア山脈に延びるユーラシア草原地帯の一部をなすカザフ草原(面積約八〇万平方キロ)が広がっているとはいえ、他の方角はカラクム(約三五万平方キロ)、キジルクム(約三〇万平方キロ)という二大砂漠に囲まれた乾燥地域に位置している。そしてこの海は、中央アジアの二大河川アム川、シル川からの河水流入量と、湖面からの蒸散量の均衡によって保たれた、大部分は水深一〇メートル以下の広く浅い内海だった[峠 二〇一五:九]。それゆえアム川、シル川からの大量取水をともなうソ連期の大規模灌漑事業と綿花播種面積の拡大により、両河川からアラル海への流入量が激減した。そして一九八〇年代から、アラル海の湖面積は急速に縮小していった。
現在、アラル海問題の解決を目指し、国家間レベルから民間レベルまで幅広い取り組みがなされている。ソ連解体直後の一九九二年に設立されたアラル海流域諸国間の水利用を規正するための国際機構(水管理調整国際委員会Interstate Commission for Water Coordination of Central Asia, ICWC)は、中央アジア地域内諸国の水資源問題のみならず、アラル海問題にも取り組んでいる[ダダバエフ 二〇〇八: 二八―二九]。近年ウズベキスタンの綿作地域では、綿作モノカルチャーから多種栽培への転換が図られている。またカザフスタン領内の小アラル海では、漁業再生が試みられている。さらに、二〇〇六年から石田紀郎を中心に市民環境研究所が現地で続けている植林事業のように、日本からの貢献もある[「アラル海で続ける植林」]。また欧米の研究者たちもソ連末期のグラスノスチ(情報公開)の時期からアラル海問題の深刻さに注目し始め、おもに政策担当者や地理学、水文学、土壌学、人類学の専門家がこの問題に関する著作を刊行し続けている。しかし残念ながら、歴史学の視点からこの問題に取り組む研究は、本書で取り上げる断代史的な研究がほとんどで、まだ多くの仕事が積み残されているのが実状である。
本書は、一六世紀中葉以降ロシアが、政治・経済・文化などの多面にわたって中央アジアとの関係を構築した過程で、いく度となく実現を追求してきた、アム川のカスピ海への転流構想の歴史をたどる。一六世紀中葉にロシアは、ヴォルガ流域の軍事征服を通じて、「タタールのくびき」すなわち一三世紀のルーシ征服以降続いていたモンゴル帝国およびその後継諸政権への従属から脱した。その後繰り返されたアム川のカスピ海への転流の試みは、二〇世紀後半になってついにはアラル海問題に代表される大規模環境破壊の一因になった。この歴史を知るために、ロシア、西欧、日本の先学の業績を参照しつつ、筆者が研究に取り組んできたチャガタイ・トルコ語を始めとする諸言語で書かれた歴史史料の記述や、最近従事しているウズベキスタン共和国ホラズム州でのフィールドワークの聞き取り記録を随所で紹介しながら、新たな事実に光を当てていく。
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著者紹介
塩谷哲史(しおや あきふみ)
1977年宇都宮市生まれ。
博士(文学)(東京大学、2012年2月)。
専攻は歴史学、中央アジア近現代史。
現在、筑波大学人文社会系助教。
主要著書として『中央アジア灌漑史序説』(風響社、2014年)、また最近の論文として、「1842年ガージャール朝使節団のヒヴァ派遣」(『内陸アジア史研究』33、2018年)、「伊犁通商条約(1851年)の締結過程から見たロシア帝国の対清外交」(同32、2017年)、など。