目次
はじめに
一 翻訳された中国の文革論理
二 モンゴル人の処遇をめぐる対立
三 モンゴル語によるモンゴル人攻撃
四 モンゴル語になる毛語録
五 恐怖の創出方法
六 中国流政治言語による文化的ジェノサイド
七 中国の政治言語に中毒したモンゴル人
参考文献
本書所収資料の出典
第二部 本書所収資料一覧
1.「中国共産党入党申請書」(Dumdadu ulus-un eb qamtu nam-tu oruqu ergüdel),1960年5月24日.....................................................................................................................................
2.「宣誓文」(誓詞,tangɣarig)………………………………………………………………………
3.「毛沢東思想の偉大な紅旗を高く掲げて、社会主義文化大革命に積極的に参加しよう」(Mao Zedüng-ün üjel sanaɣan-u aɣ-u yeke ulaɣan tuɣ-i ündür manduɣulju neyigem jirum-un soyul-un yeke qubisqal-du idebkitei orulčiy-a),1966年5月…………………………………
4.「妖怪変化を一掃せよ」(aliba čidkör šolmu-i darun šügürdey-e),1966年6月
5.「毛沢東思想の偉大な紅旗を高く掲げて、無産階級の文化大革命を徹底的に進めよう」(Mao Zedüng-ün üjel sanaɣan-u aɣ-u yeke ulaɣan tuɣ-i ündür manduɣulju ügeyiküü anggi-yin soyul-un yeke qubisqal-i tüilbüritei kiy-e),1966年6月
6.「毛沢東思想は我々の革命的事業の望遠鏡と顕微鏡である」(Mao Zedüng-ün üjel sanaɣa bol man-u qubisqaltu üiles-ün duran ba todudqaɣči sil mön),1966年6月
7.「革命的な壁新聞はあらゆる妖怪変化を暴露する照妖鏡だ」(qubisqal-un dazibau bol aliba čidkör šolmu-i ileregülkü qubilɣan toil mön),1966年8月
8.「群衆を信頼し、群衆に頼ろう」(olun tümen-i itegejü, olun tümen-i tüsiglekü keregtei),1966年7月
9.「中国共産党第八回中央委員会第十一回全体会議公報」(Dumdadu ulus-un eb qamtu nam-un naimaduɣar quɣučaɣan-u töb veyiyüvenhüi-yin arban nigedüger bügüde quralduɣan-u alban medege),1966年8月
10.「前門飯店会議における高錦明同志の発言」(Čiyen Men jočid-un baɣudal-un qurlduɣan deger-e Γou Jiin Ming nökür-ün kelegsen üge),1966年7月15日
(中略)
31.「現代の〈西太后〉―ウラーンフーの妾にして総参謀長である雲麗文の滔天の罪行」(odo üy-e-yin “Tsi si tayikü” : Ulaɣanküü-yin baɣ-a ekener büged yerüngkei Tsanmujang Yün Li Ven-ü tngri Tulum-a yal-a) ,1967年7月
32.「党中央の指導者たちの北京市革命委員会常務委員会拡大会議における重要な講話」(töb-ün daruɣ-a nar-un Begejing qota-yin qubisqal-un veyiyüvenhüi-yin bayingɣu-yin gesigüd-ün örgedkegsen yeke qural deger-e yariɣsan čiqula yariy-a),「江青同志が目下の情勢について語ったこと」(Jiang Čing nökür bayidal-i yariɣsan ni),1967年9月1日
33.「中華人民共和国成立18周年を祝うスローガン」(Bügüd nayiramdaqu dumdadu arad ulus bayiɣuluɣdaɣsan arban naiman jil-ün oi-yi belgelekü uriy-a) ,1967年9月24日
34.「毛主席が三つの地域を視察状況について」(Mau Jüsi ɣurban orun-i bayičaɣaɣsan bayidal) ,1967年10月18日
35.『万代紅』(tümen üy-e ulaɣan), Vol.1,1967年12月26日
36.『万代紅』(tümen üy-e ulaɣan), Vol.2,1968年1月2日
37.『万代紅』(tümen üy-e ulaɣan), Vol.3,1968年2月10日
38.『前哨』(emün-e qaraɣul),Vol.2,1968年2月
39.『前哨』(emün-e qaraɣul),Vol.3,1968年3月
40.「学習材料」(surulčaqu tsayiliyou),1969年5月
41.「内モンゴル自治区革命委員会文件」(Öbür Mongɣol-un öbertegen jasaqu orun-u qubisqal-un veyiyüvenhüi-yin venjiyen),1969年6月9日
42.「公開の書簡(公開信)」(ile jakidal),1970年5月9日
43.「公開の書簡(公開信)」(ile jakidal),1971年6月10日
44.「毛主席の偉大な旗幟を高く掲げて、党の民族政策を着実に貫徹しよう」(Mao Jüsi-yin aɣuu yeke tuɣ-I ündür manduɣulju nam-un ündüsüten-ü törü-yin bodulɣ-a-yi sayidur tuušlaɣulsuɣai),1977年6月
45.『教育批判』「関与蒙古語文教材検査情況的総結報告」,1968年2月22日
内容説明
本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印するシリーズ。文革の最中に行われたモンゴル人への弾圧は、収束後どう清算されたのだろうか。その詳細を伝える第一級の史料群。
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解説 より
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本書は私が2009年から毎年一冊のペースで公刊してきた文革資料シリーズの第12巻である。今までの資料はほとんどが中国語であったのに対し、本書は基本的にモンゴル語資料を収めている。今日までの資料集にモンゴル語があまり入っていなかったのは、単純に少なかったからである。モンゴル語だけでなく、他の民族の言葉も同様である。文革中に発行された各種の紅衛兵新聞やビラ類を収集し研究する鄭光路によると、紅衛兵新聞は1967年5月から1968年6月までにその編集印刷がピーク時に達していたが、ほとんどが中国語だった。チベット自治区で印刷されていたチベット語の『紅色造反報』と四川省の四川大学の『八二六砲声』(カム版、チベット語)だけは希少価値が高く、コレクターたちの間で注目されていたという[鄭 2006:120]。その他の言語に関する情報はまだ、少ないようである。
モンゴル人は自治区において、最初は自らの母国語を駆使しながら、ぎこちなく文革に関わっていった[楊 2011b:189,2018a:86]。文革はそもそもモンゴル人を民族ごとに抹消する目的で発動された為に、モンゴル人は最初から肩身が狭く、モンゴル語も次第に使われなくなった。文革が終息した後も、文革特有の政治言語はモンゴル社会に残り続けた。モンゴル人たちもその政治言語を用いて文革を記憶し、語り、著述を試みた。トゥメンの著書『康生と内モンゴル人民革命党冤罪事件』が中国語で出版されてからは二種類ものモンゴル語に翻訳された事実はそうした現象の代表例といえよう[Tümen and Ju Düng Li 1996a,1996b]。
それでも、モンゴル語による語り・著述・研究は圧倒的に少ない。少ないのは、中国人がすべての実権を握る、有名無実な自治区において、モンゴル語が圧倒的に不利な立場に置かれているからである。実際、モンゴル人研究者のボルジギン・ラムジャブ(Borjigin Lhamujab)がモンゴル語で文革に関する著作『紅色革命』(Ulaɣan Qubisqal, 2012)を出版すると、政府はただちに著者を逮捕し、2019年夏に懲役二年の実刑判決を言い渡しているのもそうした厳しい現実を反映している。ジェノサイドの犠牲者であるモンゴル人が、母国語のモンゴル語で過酷な体験を語り、著述できない事実は、文化的ジェノサイドが自治区において現在進行形で実施されていることを雄弁に物語っている。
内モンゴル自治区において、モンゴル語による研究は厳しく禁止されている。逮捕されたボルジギン・ラムジャブだけではなく、他のモンゴル人たちもモンゴル語で文革に関する研究書を執筆しているが、出版できない状態が続いている。モンゴル人の文革経験について研究する際に、近年に現れた私家版の家族史も重要である。例えば、シリーンゴル盟のボルジギン・ジャンチュブ(Borjigin Jangčub)の未公刊原稿『正蘭旗における〈抉り出して粛清する運動〉に関する略記』(Maltaju Arilɣaqu Ködülkegen-ü Siluɣun Köke Qosiɣun daki Dorɣun Temdeglel,執筆年不明)、オルドスのチョイダル(Čoyidar)の私家版『トゥク・ソムの略史』(Tuɣ Somun-u Tobči Teüke,1998)ガルディ・バンザル(Γarudibanzar)の『歳月』(On Jil, 2009)などはその典型的な実例である。今後の研究はこうした資料の活用も欠かせない。内モンゴルだけでなく、新疆ウイグル自治区やチベットにおいても、2012年から習近平体制による抑圧がますます強まり、少数民族の言語による教育が次第に奪われ、停止に追い込まれた。
文化的ジェノサイドが続く内モンゴル自治区において、記憶の喪失が顕著である。特に若い人たちは文革に関する知識がなく、モンゴル人が虐殺されていた運動についても、情報を持たない。当然、中国語から翻訳された、暴力を行使した言葉についても無知である。本書は、文革中にモンゴル語資料が少なかったことと、文革後もモンゴル語による語り、著述と研究が困難であるという状況を鑑みて、長年にわたって収集した資料の一部を公開するものである。文革中は政府系の新聞、例えば『内モンゴル日報』や各盟の新聞のモンゴル語版はほぼ刊行し続けた(写真1 1966年8月28日の『シリーンゴル日報』。毛沢東がほぼ毎日のようにモンゴル語新聞の巻頭を飾る時代が始まった。★写真扱い大★)。文革言語は一種の上からの、強制された政治言語であるので、政府系新聞を用いればそれなりの研究も可能であろう。しかし、それだけでは足りない。政府によって受身的に政治運動に巻き込まれていった人々の政治言語を知る為には、政府系新聞以外のモンゴル語資料を発掘し、研究しなければならない。そうすれば、運動の全体像が見えてくる。本書はそうした目的を帯びていることを断っておきたい。
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編者紹介
楊海英(Yang Haiying)
日本国国立静岡大学人文社会科学部教授。専攻、文化人類学。
主な著書
『草原と馬とモンゴル人』(日本放送出版協会,2001年)
『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』(風響社,2004年)
『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』(平凡社,2005年)
『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』(風響社,2007年)
『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』(風響社,2008年)
『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上・下,岩波書店,2009年,第十四回司馬遼太郎賞受賞)
『続 墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店,2011年)
『植民地としてのモンゴル―中国の官制ナショナリズムと革命思想』(勉誠出版,2013年)
『中国とモンゴルのはざまで―ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(岩波書店,2014年)
『ジェノサイドと文化大革命―内モンゴルの民族問題』(勉誠出版,2014年)
『チベットに舞う日本刀―モンゴル騎兵の現代史』(文藝春秋,2014年,第十回樫山純三賞受賞)
『日本陸軍とモンゴル―興安軍官学校の知られざる戦い』(中公新書,2015年,国基研・日本研究賞受賞)
『逆転の大中国史』(文藝春秋,2016年)
『モンゴル人の民族自決と「対日協力」―いまなお続く中国文化大革命』(集広社,2016年)
『「中国」という神話』(文春新書,2018年)
『「知識青年」の1968年―中国の辺境と文化大革命』(岩波書店,2018年)
『最後の馬賊―「帝国」の将軍・李守信』(講談社,2018年)
『モンゴル人の中国革命』(筑摩新書,2018年)