目次
著者 郝斌先生について(藤本和貴夫)
北京大学構内図(1960年代)・北京市全図
一 序章
二 三号院入口の対聯
三 「牛棚」の外に置かれた「牛鬼蛇神」
四 「陰陽頭」旋風
五 向覚明、覚り難く明なり難し
六 太平荘へ強制連行
七 閻文儒、師に侍すること親の如し
八 楊人楩、夜の断崖で糾弾される
九 縛りが緩む
一〇 太平荘での再拘束
一一 夜の点呼
一二 「牛鬼蛇神」の間で
一三 人道的な拷問? 拷問における人道?
一四 「単兵教練」
一五 「山花爛漫」――手紙事件
一六 鄧広銘、小を以て大を制す
一七 余韻
一八 付録――貼り出せなかった一枚の大字報
訳者あとがき(華立)
北京大学文革史関連年表・北京大学関係者人名リスト
索引
内容説明
北京大学元副学長の描いた若き日の文革体験。
「牛棚」〔牛小屋〕と呼ばれた北京郊外収容施設の、屈辱と暴行と強制労働の3年間。その日々を理性的に、時にユーモアを交え活写。さらに被害者となった教授陣だけでなく、加害者の学生たちの立場をも冷静に分析。歴史家の洞察力に満ちた手記であり、すべての犠牲者への哀惜と鎮魂の書である。
*********************************************
日本語版読者のみなさんへ
前世紀六〇年代、中国では「文化大革命」〔略して文革〕という運動が起きていた。
その時の私は、北京大学歴史学部に所属する一助教であった。大学教員の序列において、助教は一番下位にあたる。大学卒業後の数年間、私はまず、年長の教員の助手を務め、黒板消しや掛図の準備などの雑用を担当した。それからようやく教壇に立つことができ、二つの学期において講義を行ったが、まだ見習いの段階にすぎず、講義の資格を有する一人前の教員には至っていなかった。
一九六六年の夏、突如として「文革」が勃発した。北京大学の陸平学長はいち早く批判を受けたが、まもなくして私も「黒幫」〔黒い一味〕の深い淵に陥れられた。思いもよらなかったことは、私のような下っ端の者までその淵に陥れたのは、当時の中国の「ファーストレディー」、江青であった。それから三年間、私は社会から追放され、「牛棚」〔牛小屋〕で監禁され、自由を失った。その間、一日八時間もの重労働を課され、朝・昼・晩の食事の前には、屈辱的な儀式をさせられ、そしてはじめて食事をとることが許されるのであった。さらに、週に一回「認罪書」を強制的に書かされた。罵りや殴打などの暴行は随時随所に起こっていた。数十年が過ぎた今でも、あの時に味わった苦痛と屈辱感はときどき胸をよぎり、忘れがたい記憶になっている。
一方、「牛棚」での生活は、私にとって珍しい経験をもたらしてくれた。
一緒に監禁されていた人々は、先輩や目上の人ばかりで、なかには師匠の師匠という方もいた。以前、私にとって、先生たちは遠い存在であり、また見上げなければならない対象であった。しかしこの「牛棚」では、学部の著名な教授はほぼ「一網打尽」にされていた。同じ部屋で寝食をともにしているので、互いの呼び方も変わらざるを得なくなった。互いの姓のみで呼び合わねばならず、〔先生などの〕敬称は一切許されなかった。はじめは慣れずに落ち着かなかったが、時間が経つにつれ、平気で呼べるようになった。ときおり、上半身を裸にして向き合って座り、破れた服や靴下を繕うこともあったが、気恥ずかしく思うことはなくなっていった。
「牛棚」に行くときに、私はカミソリを持って行っていた。二週間ごとに半日間の休み時間があったが、髪が伸び放題になっている師匠や先輩たちの表情から、理髪してほしい、だが理髪を頼むと、私の洗濯の時間がなくなるので、それは申し訳ない、などと思っている気持ちが私に伝わる。先生たちのこのような思いやりも、私にとっては、それまでになかった経験である。何年か後になって、私たちは「牛棚」を離れ、正常の生活に戻ったが、当時の仲間であった人たちが、各々の仕事で業績を上げ、成功を収めたと聞いた時に、なぜか、「牛棚」にいた頃のあの困った顔がいつも思い浮かんだものであった。
文革の終結からはや四〇数年が過ぎた。往事のことは、いまさら触れる必要はないという人、また意図的にその歴史から目をそらし、あるいはその議論を抑制しようとする人もいる。確かに、若い世代には、あの時代のことを知る人は少ないかもしれない。しかしあの時代を過ごした当事者の一人として、そのような態度には到底賛同できない。私は退職後、時間的にも余裕ができたので、かつての体験を書き下ろした。中には私自身のことはもちろん、ともに受難した先生や先輩たちのことも含まれている。読者のみなさんには、この回想録をノンフィクションとして読んでいただきたい。遅れたノンフィクションではあるが、遅れていても残すことの必要性を感じている。本書に書いたのは、文革中の北京大学歴史学部の「牛棚」のことである。しかし当時の北京大学には一八の学部があり、これと似た「牛棚」は各学部にも存在していた。だが、まだ誰も書いてはいない。
訳者あとがき(華立)より
(前略)
以下、書中の内容についてかいつまんで紹介したい。
文革前の北京大学歴史学部は、大物学者がそろい、中国の史学界を牛耳る存在であった。しかし従来の文化体系を清算しようとする文革では、そのことが逆に攻撃の標的にされる理由となった。三号院(歴史学部の所在地)の入口に貼られた対聯の、「池は深くして、王八は多し」という句は、毛沢東が下した評語である。「王八」と罵倒された教員たちを待ち受ける運命は、この評語からも容易に想像することができる。文革期間中に、北京大学の教職員及び学生の中で、いわゆる「非正常死亡者」(=非業の死を遂げた人)は六三人にものぼったという。一九六六年六月一一日に自殺をもって文革に抗議した、歴史学部副学部長代理を務めていた汪籛はその第一号となる。同学部長で著名な中国史家で知られる翦伯賛は一九六八年、三年間批判と侮辱を受けた末、夫人とともに自ら命を絶った。「牛鬼蛇神」とされた他の教員も、暴力的糾弾に加えて、三号院の二階のバルコニーの外縁に立たされて土下座をさせられ、あるいは頭髪の半分を乱暴に剃られる(いわゆる「陰陽頭」)など、人格に対する筆舌に尽くし難い侮辱をことごとく受けた。
(中略)
「牛棚」に入れられると、人間としての権利はすべて剥奪される。一挙手一投足のすべてが監視者の管理下に置かれた。毎日三度の食事前の「罪詫び」、毎週提出させられる「認罪書」の強要、甚だしいことに、夜間のトイレでさえ、監視者の許可が必要とされた。実に暗黒で息苦しい「牛棚」生活だったが、しかしその中でも、人間性の善と良心は光っていた。師である重病の向達に対して、閻文儒は終始、最善を尽くして世話をしていた。彼も当時すでに五六歳だったが、夜はいつも遠くから湯を汲んできて先生に足湯をさせ、終わると水を捨てに行く。先生の靴と靴下を脱がせたり、履かせたりすることまでしていた。周一良と高望之の二人もまた、そのような関係であった。文革後、周一良は、「私が忘れられないのは、彼〔高望之〕がいつも私の面倒を見てくれ、汚い仕事や重い仕事のときには先にやってくれていたことだ」と、感激しつつ話した。「牛棚」に身を囚われ、威圧と暴力を前に、自らの良心を守るのは大きな試練となる。監視者が根拠もなく夏応元が鋤を山の畑に置き忘れたと断じ、「意図的生産妨害」として殴りかかろうとした間際に、劉元方は列の中から「私が忘れた」と声を上げた。それはいかにも良心にもとづく勇気ある行動であった。また楊済安は、温厚な年長者として冤罪を被せられた若い著者を気遣い、「あなたは大勢の前で江青に名指しされたが、言われたことは彼女の家庭に関するものばかりなので、むしろ彼女自身が品格を落としたことになっている。……大したことは起きないはずだ。心配しすぎなさんな」(第一二章)と励ましたことも、心が温まる一場面であった。当時、「牛鬼蛇神」間の会話は厳しく監視されており、また内部からの密告者も警戒しなければならなかった。楊済安は道で著者とすれ違ったときに、こっそりと上記の言葉を告げた。二人は目線を交わすことなく、互いにそのまま立ち去ったが、著者は相手への感謝を心に深く秘めた。
一方、著者のこの回想録は、単なる文革における被害者の哀れと加害者の凶暴ぶりをさらけ出すことが目的ではなかった。その視線の先には、つねに、これらの表象を通して文革という悲劇の真の原因はなにか、というものがある。ことに著者が注目しているのは、なぜ大衆がこれほど深く文革に巻き込まれ、社会全体が狂気に包まれたのか、という問題である。そこには一種の「マインドコントロール」があったと著者はいう。たとえば太平荘に監禁される以前の学内の強制労働中、二人の学生が向達先生に凶暴に罵声を浴びせた末、毛主席の肖像の前で跪かせて謝罪させたことについて、なぜ彼らがあのような行為を「正々堂々」と振舞えたのか、それは当時の「社会に『疫病』が流行り、青少年層は全体として感染し、『狂熱的暴力的集団性症候群』になった」からであると分析している(第五章)。また太平荘の「牛棚」おける監視学生と「牛鬼蛇神」たちの関係は、一見前者が後者を支配しているようにみえるが、実は同じ茶番劇に連れ出されているに過ぎない。さらに著者は次のように鋭く分析し結論付けた(第一一章)。
紅衛兵も私たち「牛鬼蛇神」も共に一種の強制力に操られていたのだと、私は言いたい。ただ、紅衛兵と私たちの異なる点は、彼らはその中で進行する役を演じ、私たちはお辞儀をする役をやらされた、つまりポジションの違いはあったが、本質の面では違いはなかったのである。いや、本質的な違いは一つあったかもしれない。すなわち、「牛鬼蛇神」は外部の力に強制されてやむなく行動したが、内心では納得していない、それどころか反抗意識をもっていた。だが進行役の方は、「紅衛兵文化」のくびきに引きずられ、マインドコントロールされて盲従または屈従し、ある種のイデオロギーの奴隷に堕ちていたのに自覚がなかったことである。
最後に本書の文章における特色に触れたい。著者は歴史学者で古典文学の造詣も深いため、筆遣いは典雅で美しく、かつ独特の魅力がある。血と涙がないまぜになる辛酸な日々の記録だが、淡々としてユーモアのある語り口で、冷静ながら狂気の時代の非人道的行為への批判を鋭くそして深く滲ませている。また、随所に織り込まれている多くの典故と漢詩は、著者の文学的素養の高さを示すと同時に、この回想録に精彩を放った。各章の結びに用いられている対句も、抑揚のある韻文でその章を締めくくり、まさしく画龍点睛の一筆である。中国の古典小説にみられるこの手法を文革回想録に生かしたのも、著者ならではといえよう。(後略)
*********************************************
著者紹介
郝 斌(Hao Bin かく ひん)
1934年中国河北省張家口に生まれる。父は鉄道員、8人兄弟の6人目として育つ。
1953年、北京大学歴史学部に入学。1958年卒業後、同学部中国近現代史教研室の助教に就任。
1966年の夏に文革が始まると、同学部教授・副教授らとともに「牛棚」と呼ばれる監禁施設に三年間拘束された。
文革後、1978年、名誉回復。1984〜2000年、北京大学共産党委員会副書記、副学長などを歴任。2000年より北京大学校友会の副会長。
訳者紹介
華 立(Hua Li か りつ)
大阪経済法科大学名誉教授。歴史学博士(中国人民大学)。専門は中国(清代)史、内陸アジア史。
主な著書には『清代新疆農業開発史』(黒龍江教育出版社、1995年初版)、『中央ユーラシア環境史2 国境の出現』(共著、臨川書店、2012年)など。
姜若冰
(Jiang Ruobing きょう じゃくひょう)
大阪経済法科大学教養部准教授。京都大学博士(文学)。専門は中国古典文学、中国女性史。
主な著書・論文には『中国女性史入門』(一部執筆、人文書院、2005年)、「贈內詩の流れと元稹」(『中國文學報』第五十九冊、1999年)など。
伍 躍(Wu Yue ご やく)
大阪経済法科大学国際学部教授。京都大学博士(文学)。専門は中国近世史。
主な著書には『中国の捐納制度と社会』(京都大学学術出版会、2011年)、『明清時代の徭役制度と地方行政』(大阪経済法科大学出版部、2000年)など。
田中幸世(たなか さちよ)
大阪経済法科大学アジア研究所客員研究員、演出家(フリー)。研究の柱は社会思想史・民衆文化論。
主な著書・論文には「自由大学運動と現代」中村浩爾他編著『社会変革と社会科学』(昭和堂 2017年)、『電力労働者のたたかいと歌の力』(共編著、かもがわ出版、2019年)など。