ホーム > ムスリム捕虜の語る近世の地中海

ムスリム捕虜の語る近世の地中海 別巻24

マルタの「海賊」とオスマン朝のはざまで

ムスリム捕虜の語る近世の地中海

16世紀後半、マルタ私掠船に連行されたオスマン朝の官人の語りから、知られざるムスリム虜囚の足跡や心情を探る。

著者 末森 晴賀
ジャンル 歴史・考古・言語
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》 > ブックレット〈アジアを学ぼう〉別巻
出版年月日 2021/10/25
ISBN 9784894892989
判型・ページ数 A5・76ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

一 一六世紀末の地中海と私掠船
   1 レパントの海戦後の外交関係
   2 私掠船と国家
   3 マグリブ私掠船とマルタ私掠船

二 あるムスリム捕虜の肖像
   1 マジュンジュザーデ・ムスタファ・エフェンディの経歴
   2 『マルタ虜囚の冒険譚』

三 捕虜の足跡――マルタへの連行
   1 捕虜となった経緯
   2 マルタにおける虜囚生活

四 解放へ
   1 身代金交渉
   2 母国への助力嘆願
   3 オスマン朝への帰還

五 捕虜が「語る」ということ
   1 捕虜による「語り」の意味
   2 個人の記録か、手段か

おわりに

注・参考文献
略年表
あとがき

このページのトップへ

内容説明

ムスリム捕虜の数奇な運命
16世紀後半の地中海は、キリスト教徒もムスリムも掠奪行為を繰り返す海域だった。本書は、任地キプロスへの途上マルタ私掠船に連行されたオスマン朝の官人の語りから、知られざるムスリム虜囚の足跡や心情を探る。

*********************************************

   捕虜は湿った牢獄で命をつなぎ
  治者は栄えた街に心を恣(ほしいまま)にす

  その金言はもっともなこと
  ある者を富ませばある者を貧しくす

  ある者の背もたれが金色の枕で
  ある者の敷布団は古びた筵(むしろ)

  ある者が享楽と充足の中で笑うとき
  ある者は困難の中で涙を流し盲目になるほど

  いかなる物を手に入れるのも失うのも
  支配者であり全能者である神の為せるわざ

     *

  そうしてあらたな本(risâle)の筆者
  出来事ややりとりを伝えし者

  その者は一介のしもべ マジュンジュザーデ
  バフのカーディー 哀れなムスタファ

  わが身に降りかかりしあらゆる出来事の
  千のうちひとつを書いて名づけたり

  マルタのみじめな者の帰還
  マルタ虜囚の冒険譚(Sergüzeşt-i Esir-i Malta)

  わたしは望む 身分の高き者も低き者も言わんことを
  「神よ、この取るに足らない者に解放のお恵みを与えよ」と

  神よ あらゆる恐怖から守り給え
  この祈りに〔アーメンと〕唱えし者に アーメン[Sergüzeşt: 72]


 これは、あるムスリム捕虜が書いた回想録の冒頭に綴られた詩である。彼の名はマジュンジュザーデ・ムスタファ・エフェンディと言い、オスマン朝(一二九九―一九二二年)の官人として海路で任地のキプロスに向かう途中、マルタの「海賊」の襲撃を受けて捕まり、「海賊」たちの本拠地であるマルタに連行されたのであった。彼の回想録『 マルタ虜囚(りょしゅう)の冒険譚(Sergüzeşt-i Esir-i Malta)』に書かれた世界が、本書でこれから見ていく話である。

 本書の主人公であるマジュンジュザーデが捕虜となった一六世紀末の地中海は、様々な「海賊」たちが跋扈する時代であった。彼らのうち代表的なものが、ムスリムのマグリブ私掠船(しりゃくせん)と、キリスト教徒のマルタ私掠船である。「私掠船」とは特定の公的権力の庇護を受けた海賊集団のことであり、マグリブ私掠船はオスマン領マグリブ地域を拠点に、マルタ私掠船は名目上スペイン領のマルタ島を本拠地に活動していた。史上名高いレパントの海戦(一五七一年)以降、大規模な海戦が姿を消す中で、これら私掠船による海上での掠奪(りゃくだつ)行為が歴史の前面に出てくるようになる。

 このような地中海における私掠船のうち、最もよく知られているのは通称「バルバリア海賊」と呼ばれるマグリブ私掠船であろう。彼らはキリスト教徒のヨーロッパ人に対して掠奪をはたらき、当時のヨーロッパ人の恐怖の対象となっていた。かの有名な『ドン・キホーテ』の作者セルバンテス(一五九七―一六一六年)も、マグリブ私掠船に攫われて異郷の地で虜囚の日々を過ごした者たちの一人である。

 その一方で、マルタ私掠船がムスリムの商船を中心に襲撃を繰り返していた事実についてはそこまで知られていない。おそらく今日では地中海の私掠船に関するヨーロッパ人側の言説が相対的に影響力を持っているためであろうが、当時の地中海の実像に迫るにはマルタ私掠船による掠奪行為も等しく取り上げられるべきである。

 このことを踏まえたうえで本書が光を当てるのは、そのような私掠船に攫われた捕虜による「語り」である。当時のヨーロッパでは捕虜が自らの虜囚体験を回想録の形で記録し公開することが広く行われており、今日ではそれらを対象とした研究も蓄積が見られる。他方で、ムスリム捕虜による回想録についてはいまだ「発掘」の途上にあり、これに関する研究も本格的というには遠い段階にある。本書の主人公であるマジュンジュザーデが記した『冒険譚』もその一つである。

 本書ではマジュンジュザーデの『冒険譚』を繙き、ムスリム捕虜自身の語りに耳を傾けてみたい。そこからは捕虜の目を通した虜囚の光景や、虜囚の最中にいる彼の心象風景が見えてくることであろう。彼の話をひと通り聞いた後で、なぜ彼が『冒険譚』を書いたのか、また彼が「語る」ことの意味も探る。それは近世の地中海を行き来した数多のムスリム捕虜のうち一人の姿である。

*********************************************

著者紹介
末森晴賀(すえもり はるか)
1991年、静岡県生まれ。
北海道大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。
主な論文に「18世紀前半のエーゲ地方における勃興期の「アーヤーン」――「匪賊」サルベイオウル・ムスタファの事例から」(『東洋学報』100(1): 1-26、 2018年)などがある。




このページのトップへ