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出家と世俗のあいだを生きる

インド、女性「家住行者」の民族誌

出家と世俗のあいだを生きる

出家修行と家庭生活──「家住行者」と呼ばれる女性たちがどう両立させ、どう自分らしく生きているのか

著者 濱谷 真理子
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2022/02/20
ISBN 9784894893092
判型・ページ数 A5・408ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき
凡例

序論
   一 はじめに
   二 問題の所在と本書の視角
   三 調査の概要
   四 本書の構成

●第1部 フィールドの概要

第一章 「神の門」へようこそ
   一 はじめに
   二 巡礼センターとしてのハリドワール
   三 調査地の社会文化的背景
   四 小括

第二章 出家者の世界
   一 はじめに
   二 出家者の組織・制度
   三 出家者の日常生活
   四 小括

●第2部 「家住行者」とはだれか

第三章 地域で暮らす女性行者たち
   一 はじめに
   二 調査対象の概観
   三 日常生活の構成
   四 世捨ての経緯
   五 小括

第四章 「家住行者」とはだれか
   一 はじめに
   二 道場で暮らす
   三 庵で暮らす
   四 地域住民との近所づきあい
   五 小括

●第3部 社会生活

第五章 「夕食はガウリー・クンジュで」──無償の食事がつくる差異、友愛、社会
   一 はじめに
   二 共食の場と担い手
   三 贈与が想像/創造する︿サンガ﹀
   四 共食が育む︿サークル﹀
   五 ︿みんなのサークル﹀の可能性
   六 小括

第六章 招待券がつくるネットワーク――招宴参加をめぐる贈与実践の考察
   一 はじめに
   二 日常的実践としての招宴
   三 招かれる過程
   四 贈与を動かすモラル、贈与がつくる人間関係
   五 小括

第七章 寡婦行者たちの孤独な闘い──托鉢実践にみる「有徳な経済」の探求
   一 はじめに
   二 沐浴場の暮らし
   三 托鉢のジェンダー・ヒエラルヒー
   四 女性托鉢集団
   五 個別の托鉢実践
   六 小括

●第4部 家庭生活

第八章 男性パートナーとともに暮らす――奉仕実践にみる禁欲主義へのオルタナティヴ
   一 はじめに
   二 禁欲主義の理念と実践
   三 男性パートナーとともに暮らす
   四 奉仕実践とモラル・ディレンマ
   五 奉仕実践を通じた感情の鍛錬
   六 小括

第九章 「神の門」にて死者を見送る――葬送儀礼を通じた真正性の吟味と創出
   一 はじめに
   二 出家者の真正性をめぐって
   三 女性行者たちの葬送儀礼
   四 出家者か、在家者か
   五 小括

結論

あとがき

資料1 祭事暦
資料2 入門儀礼と出家儀礼
資料3 プシュパーンジャリ
用語解説

参照文献
索引

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内容説明

「サードヴィーの服も着るし、仕事も探している。両方やるつもりだよ!」
本書は、出家修行と家庭生活という根本的な矛盾を「家住行者」と呼ばれる女性たちがどのように両立させ、自分らしい生き方を実現させようとしているのか、約二年半にわたるインド巡礼地ハリドワール郊外でのフィールドワーク及び筆者自身の経験をもとに記述・考察した民族誌である。(本書まえがきより)

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まえがき





「サードヴィー(女性行者)の服も着るし、仕事も探している。両方やるつもりだよ!」



 一〇年以上フィールドワークを続けてきた中で、今でも忘れられない強烈な印象を残していった女性たちが何人かいる。ムスリムの寡婦ミーラーもその一人だ。初めて彼女を見かけたのは二〇〇九年のバドリーナート(ガルワール・ヒマーラヤ地方の聖地)、そのときは話しかけた途端不機嫌そうな表情をされて逃げられた。二〇一〇年のハリドワール・クンブ祭(大沐浴祭)では、向こうから上機嫌で話しかけてきた。そしていきなり愛人らしきバスの車掌を紹介された。滞在先を探していたミーラーは、私の宿泊していたホテルに転がり込み、お金が要り用だからとハリヤーナー州の村に一昼夜かけてバスで私を連れて行った。その晩は別の愛人宅に宿泊したのだが、なぜか夜明け前に突然起こされて、「ここは危険だ」と言って田畑を掻き分けて逃げるようにその民家を後にした。そして、ようやくたどり着いたトイレもない彼女の庵でその後数日を過ごすはめになった。

 一休みする間もなく、旅先からミーラーが戻ったことを聞きつけた村の人が次々に庵を訪ねてきた。中には、ミーラーが電話をして昼食を持ってこさせた男性もいた。彼女はその献身的な男性にいくらかの金銭も要求した。当初、人里離れた庵に住み始めた彼女を気遣い、自ら資金を出して門や水場を設置させたのも彼なのだそうだ。さらに隣接する寺院の賽銭も司祭と分けて受け取っているという。訪れる者は男性が大半で、中には前述した愛人とは別の「フレンド」や、男女関係を匂わせるような男性も何人かいた。ミーラーは驚くほどあけっぴろげにそうした関係について語ったものだ。

 とはいえ、彼女と一緒にいるあいだ、私はずっと疑問に感じていた。「彼女はそもそも私の探している女性行者といえるのだろうか」と。実際、ミーラーは「内面では、魂では、私はムスリムなんだ」と言い、寺院での礼拝やヒンドゥー的修行実践を行っていなかった。複数の愛人の存在もやはり不可解だった。その一方、彼女は、自分は修行者だと主張した。

 結局、賽銭箱の中身が盗まれたという理由で、要り用のお金を手に入れることができず、私たちは肩を落として再びバスで一昼夜かけてハリドワールに戻った。途方に暮れた様子のミーラーは、「サードゥ(行者)の服を捨てる」、「ふつうの服を着て仕事を探す。サードゥの人生は汚れている。人に食べさせてもらって、乞食して、よい人生じゃないよ」と投げやりになっていた。故郷に戻りたいと泣くミーラーに、私はいくばくかの交通費を支援した。喜んだミーラーはガンガー河に僧衣を流すと、グジャラート州の故郷に戻っていった。

 しかし、やはりうまくいかなかったようで、わずか一週間ほどでオレンジ色のシャルワール・カミーズ(在家女性の日常着)を着てハリドワールに戻ってきた。何があったのか不明だが、後に彼女の姉から私のもとに電話があり、帰ったことは帰ったが実家で何らかの問題が起きたことは間違いないようであった。家からお金を持ってきたというミーラーは元気を取り戻し、今度はナイニータール(クマーウーン・ヒマーラヤ地方の観光地)で社会奉仕活動のプロジェクトに参加する計画を立てているようだった。

 そして、呆気にとられる私を前に意気揚々と放った言葉が冒頭のセリフである。

  *

 本書は、出家修行と家庭生活という根本的な矛盾を「家住行者」と呼ばれる女性たちがどのように両立させ、自分らしい生き方を実現させようとしているのか、約二年半にわたるインド巡礼地ハリドワール郊外でのフィールドワーク及び筆者自身の経験をもとに記述・考察した民族誌である。

 そもそも、インド・ヒンドゥー社会にはなぜ女性出家者が少なく、女性たちは「家住行者」というどっちつかずの立場に置かれてしまうのか。その背景として、仏教やジャイナ教と違ってヒンドゥー教の出家の制度・組織が男性中心に構成されており、女性は正統な出家者として認められてこなかったというジェンダー規範を理解する必要がある。そうした男性中心の解脱志向・知識重視のいわば「上からの出家」に対し、一九八〇年代以降活発化する女性行者研究では、女性たちが母性やバクティ(神への信愛)などの霊的価値を重視し、日常生活と結びついた修行を実践していることが報告されてきた。アントワネット・E・デナポリ[DeNapoli 2014]は男性中心・知識重視の修行法に対し、教義と在地の慣習をハイブリッドさせた女性行者たちの修行実践を「ヴァナキュラーな(在地固有の)修行法」と呼んだ。一方、先行研究では女性行者たちのあいだの差異や、具体的にどのように日々の生きる糧を確保しているのかなど、その経済活動について十分に言及されていない。しかし、本書でみていくように、宗派組織に守られているわけでも親族に支えられているわけでもない「家住行者」たちにとって、その日その日を生き抜くことは切実な課題である。彼女たちが悩み葛藤する「修行」もまた、いかに生き抜くかという現実といかに生きたいかという希望のあいだから立ち上がってくる。そこで本書は女性行者の中でも周縁化される「家住行者」たちに着目し、彼女たちが日常的に営む乞食や贈与交換、家事労働など「生業」活動について記述する。それによって、女性たちがどのようにヴァナキュラーな形で世捨てを実践しているのかを明らかにしたい。
 
 本書は、序論から始まり、第1部「フィールドの概要」(第一章・第二章)、第2部「『家住行者』とはだれか」(第三章・第四章)、第3部「社会生活」(第五章・第六章・第七章)、第4部「家庭生活」(第八章・第九章)、結論の全九章で構成される。序論と第1部では調査地及び調査対象について俯瞰的にまとめ、第2部から具体的な民族誌記述に入っていく。

 序論では、女性行者をめぐる社会的背景及び近現代の動向について概観したうえで、インド社会論、南アジア出家論、女性行者論の先行研究を検討し、問題の所在と本書の視角を提示する。先行研究が「抵抗」や「エージェンシー」に着目してきたのに対し、本書の視角は女性たちが挫折しながら抱き続ける「希望」とそれが拓く未決定性の余地にある。

 第1部(第一章・第二章)では、調査地及び調査対象にかかわる出家者の組織・制度について概観する。「神の門」を意味する地ハリドワールでは歴史的にシヴァ派ダシャナーミー修道組織とその系統の武装行者集団が勢力を有してきた。それら集団の一つであるジューナー・アカーラーは構成員に多くの女性行者たちを含む一方、男性優位の組織構造の中で女性たちは周縁的に位置付けられている。

 そこで、女性行者たちの中には組織から離れ、郊外の新興住宅街にある小規模な修行道場で暮らす者、男性パートナーや馴染みの女性行者、血縁親族などとともに、あるいは単独で、それぞれ「自分の庵」と呼ぶ住まいを設けて暮らす者などがいる。第2部(第三章・第四章)ではそれらの女性行者たちについて概要を記したうえで、出家者でもなく在家者でもない、どっちつかずの「家住行者」として軽視される女性たちに着目する。そして、次章以降で彼女たちがそれぞれの庵=「家庭」とその外の生活空間=「社会」で営む生業活動の実態を描く。

 第3部(第五章・第六章・第七章)では、女性行者たちの乞食実践の記述を通じて、彼女たちが形成する複層的で文脈依存的な社会関係について考察する。具体的には、毎夕地域の行者が集まる施食会での共食実践(第五章)、招宴に参加するための贈与の政治(第六章)、沐浴場で暮らす「寡婦行者」たちを中心とする托鉢実践(第七章)と分けて論じる。

 第五章では、ヒンドゥー道場が実施する慈善活動を通じてどのようにヴァナキュラーな行者社会が形成されているのか、そして女性行者たちはどのように社会に参与しているのかを考察する。舞台となるのは毎夕数百人の行者が集まるガウリー・クンジュ道場である。第六章では、招宴参加をめぐるさまざまな贈与実践について考察する。行者たちにとって招宴に招かれることは自らの威信を示すという意味でも、招宴で配られるさまざまな施しを獲得するという意味でも非常に重要だ。しかし、不利な立場に置かれる女性行者たちが招宴に参加するためには人脈を駆使して招待券を入手せざるをえない。そこで、女性行者たちが贈与実践を通じてどのようなネットワークを形成しているのか明らかにする。第五章・第六章では女性行者たちが互いに配慮し助け合うという人間関係の明るい側面を照射したが、第七章では「家住行者」の中でも周縁化される「寡婦」と表象される女性行者たちに着目し、やや暗い側面に目を向ける。そして、集団托鉢に頼りつつ個別の托鉢実践を通じて自己の居場所を構築しようとする彼女たちの孤独な闘いを描く。

 第4部(第八章・第九章)では、個々の女性行者たちの家庭生活や「家族」との関係性について記述する。第八章では、性的禁欲や独身を価値とする禁欲主義イデオロギーと一見矛盾するようにおもわれる男性パートナーとの同居生活について、家事労働を「奉仕」として従事する女性行者たちの語りに着目して考察する。そして、彼女たちが奉仕実践を通じてどのように男性中心の禁欲主義とは異なる価値を探求しようとしているかを明らかにする。第九章では、女性行者たちと血縁親族や地域住民、行者仲間など親密な他者との紐帯について、それらが前面化する葬送儀礼を事例として考察する。婚姻歴や親族との紐帯を理由に、女性行者はしばしば在家者とみなされ、出家者よりも低く位置付けられる。しかし、親密な他者との紐帯や「在家者であること」は必ずしも否定的にとらえられるものではない。むしろ、親密な絆こそが女性行者たちが「出家者/修行者であること」を支持し、真正性をつくりだす力となることを示す。以上の民族誌記述・分析をもとに、男性中心の「上からの出家」と女性行者たちのヴァナキュラーな世捨てがどのように異なるのか、それは学術的・社会的にどのような意義を持つものか、結論を述べる。

  *

 ミーラーの話に戻ろう。現在手もとに彼女の連絡先はなく、今どこで何をしているのかまったくわからない。それでも、ふと彼女のことを考えるときがある。今おもえば、彼女との出会いこそが、本書作成にまでいたるその後のフィールドワークの方向性を決定づけたのかもしれない。

 インドの「出家者」というと、一般にどこか世俗社会とかけ離れた、苦行に専念する高尚な存在として想像される。当初は筆者も、もっと「ちゃんとした」女性出家者について調査するつもりでいた。しかし、女性出家者を探す調査の過程で出会い近しくなったのは、家族と一緒に暮らしたり細々と商売に従事したりする「家住行者」と蔑視される女性たちだった。そして、行者見習いとなって彼女たちと行動をともにする中で、ときに矛盾を抱え葛藤しながら行者としての人生と一人の女性としての人生を両立させようと模索する姿に気づかされていった。修行か生活か、仕事か家庭か、どちらかを排他的に選択するのではなくどちらも実現させるための落としどころを模索する「家住行者」の生き方は、決して遠い世界の高尚な人びとの絵物語ではない。

 本調査自体は二年半で終了したが、調査期間中ずっと、そしてその後も、研究を続けるべきか出家してしまおうか揺れ続けてきた。正直にいうと、今も揺れ続けている。だから、ミーラーのことを想うとき、私は少しだけ力をもらえる気がする。「こう生きたい」という希望を持ち続けることは、たとえ現実にはかなわなかったとしても、未来を変えることはできなかったとしても、〈いま・ここ〉を生き抜く力となる。彼女に惹きつけられたのは、調査に使えるかもしれないという打算だけではなく、単純にそんな力を感じたからだ。今も研究と出家のあいだで揺らぐ筆者を含め、現代社会の多様化する生の局面で選択を迫られ続ける〈私たち〉に、あえてあいだにとどまる女性たちが抱く希望の力を提起することが、本書のめざす射程である。

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第9回日本南アジア学会賞(2023年9月23日、受賞)

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著者紹介
濱谷真理子(はまや まりこ)
1981年生まれ。奈良県出身。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程研究指導認定退学。
博士(地域研究)。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科特任研究員。
主な業績に「贈与に見る女性行者の社会関係──北インド・ハリドワールにおける招宴の分析から」(『文化人類学』第81巻第2号掲載、第13回日本文化人類学会奨励賞受賞)などがある。


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