特集=韓国家族再考──制度/イデオロギーと実践の脱家族的相対化に向けて
著者 | 韓国・朝鮮文化研究会 編 |
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ジャンル | 定期刊行物 |
シリーズ | 雑誌 > 韓国朝鮮の文化と社会 |
出版年月日 | 2024/10/15 |
ISBN | 9784894899735 |
判型・ページ数 | A5・276ページ |
定価 | 本体3,500円+税 |
在庫 | 未刊・予約受付中 |
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目次
序論:韓国家族再考 本田 洋
──制度/イデオロギーと実践の脱家族的相対化に向けて
「儒教社会」朝鮮における家族・親族組織の「多様性」と「伝統」 田中美彩都
──近現代の異姓養子の変遷を中心に
韓国の家族における模倣と他者性 澤野美智子
──既婚女性の乳がん患者の語りから
韓国における家族主義とケアの社会化 株本千鶴
──介護・看病の社会化を中心に
★一般論文
『文章』(一九三九―一九四一)からみた植民地期朝鮮の随筆 柳川陽介
韓国巫俗がむすぶ社会関係と越境に関する一考察 重岡こなつ
──日本在住巫者の語りから
関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる記憶運動 韓光勲
──「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」を事例として
★書評
朴煕秉著『韓国古典文学史講義』──統合人文学の成果 野崎充彦
★末成道男先生追悼
末成さんの思い出 伊藤亜人
末成道男先生を偲んで 仲川裕里
末成道男先生の思い出 井出弘毅
彙報
編集後記
英文目次・ハングル目次
韓国・朝鮮文化研究会会則
執筆者一覧
内容説明
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序論 本田 洋 より
本特集は、二〇二三年一〇月一四日に開催された韓国・朝鮮文化研究会第二四回研究大会シンポジウム「韓国家族再考――制度/イデオロギーと実践の脱家族的相対化に向けて」の成果に基づき執筆された三編の論文からなる。この序論では、シンポジウム趣旨説明文を改稿し、その論点を特集論文に沿って展開したうえで、この主題についての現段階での展望を示したい。
一 韓国の家族の脱家族的相対化
1 概念装置としての「家族」
今回のシンポジウムの主題設定の背景には、現代の韓国社会において就職→結婚→妊娠→出産→育児といった規範的なライフコースに従って家族を営むことが困難や窮状を増している一方で、にもかかわらず生存や生活の必要性の充足において未だ多くの役割や責任を家族に担わさざるを得ない状況にあるという現状認識があった。周知のとおり、韓国では高齢化率が速い速度で上昇しつづけており、また合計特殊出生率は世界有数の低い値を示している。高齢者貧困率や自殺率(特に高齢男性)もOECD諸国のなかでは顕著に高い値を示している。超少子化の背景には子供の教育負担の重さと青年層の貧困による晩婚・非婚化傾向が指摘されており[박수민 二〇一七]、また高齢者の生きづらさは、子供世代にとっての扶養・介護負担の過重さを示唆するものと考えられる。韓国の社会学者、張慶燮のいい方を借りれば、韓国の家族はまさに「機能的過負荷」(functional overload)に陥っており[Chang 2010: 13]、それはケア・配慮をある程度持続的に担いうる主体、あるいは遂行しうる方法として、社会保障制度(ケアの社会化)を含む家族にかわる代案が未だ限定的であることによってさらに強められていると言えよう。
日常的なケアの脱家族化的な試みについては別途論じる必要があるが、ここではその前段階として、社会的あるいは法的に認証された血縁と婚姻に基盤を置く家族(関係/集団)、ならびにこの家族の成員の助け合いや相互依存あるいは扶養やケアがいかに当たり前で当然のことと考えられているのか(血縁家族の自明性・当為性)、またこのしがらみから何ゆえに逃れ難いのか(被拘束性)に焦点をあわせたい。このような血縁家族の自明性・当為性と被拘束性を、生の実践と制度・イデオロギーの相互構築性のなかに置き戻して再検討することにこの特集の意図がある。家族と関わる社会慣習や国家の法・政策、ならびに家族のあり方に関する観念・論理・イデオロギーが人びとの生の営みにどのように関係づけられるのか。またこのような制度やイデオロギーが、日常生活から大衆文化(例えば歌謡やドラマ・映画)、啓蒙的言説・形象(例えばマスメディア、ネットメディア、出版・刊行物、博物館)、宗教、社会科学的思考、さらには法・政策論議に至るまでの社会文化的諸領域でどのように交渉され形づくられるのか。このような実践と制度・イデオロギーが交錯し相互に作用しあう場において韓国の家族を再照査し、その自明性・当為性と被拘束性を省察的に問い直すこと、すなわち脱家族的に相対化することを、本特集の目標とする。
補足すれば、現代の韓国において家族を解消する、あるいは家族を作らないという選択も、決して非日常的であるわけではない。離婚件数は近年減少傾向にあるものの、それでも婚姻件数に対する比率は二〇二二年で四八・六%と依然高い値を示している。婚姻件数と婚姻率の減少も顕著である。すなわち実践面では生殖家族を解体することや生殖家族を作らない(あるいは作れない)ことが決して例外的な現象ではなくなっている。これは一方で現実・実態を制度・イデオロギーが捕捉しきれなくなっていることを示すものであろう。しかし他方で、制度・イデオロギーからのずれを示す現実・実態が「正常」でないと捉えられることが、血縁家族の自明性・当為性を裏付け、またその桎梏を強めているといえる。
このような制度・イデオロギーと実践との交錯、相互作用、相互浸透、あるいは弁証法的関係(相補、対立と交渉・調停・架橋)を対象化するひとつの試みとして、ここでは韓国の「家族」(kajok)を一種の概念装置として捉える。ここでいう概念装置とは、ある概念、あるいは言葉を核として、制度・イデオロギー、あるいはそれを担う諸媒体と個々人が複雑に関係づけられ、制度・イデオロギーと実践の再生産が統制されつつ促進されるような仕組みをイメージしたものである。この概念装置としての「家族」とは、個々の主体に焦点をあわせれば、「家族」という日常語/学術用語やそれに含意されるfamily/home/householdといった諸観念の指示する様々な集団や関係性の枠組みを用いて、現実を認識・言語化し、関係を交渉し、相互行為を生み出してゆくような思考、表象と実践の習慣を意味するといえよう。
ここで改めて注意を喚起したいのは、この「家族」という概念装置がすぐれて近代的な構築物であること、あるいは「家族」と関わる在来の制度・イデオロギーや諸実践が、「家族-family」という近代的な外来の概念との接合によって不断に再構築を迫られつつ、社会全体を広く覆うようになったことである。保護国期から植民地期にかけての啓蒙的言説では、在来の「大家族」・「家族制度」が批判され、「父子各居」の「小家族」・「単式家族制度」や「一夫一婦とその子女」(すなわち「核家族」)だけを含む「家庭」が想像されるなど、当時の現実と欧米や日本から伝えられた家族-family概念を接合・対照しつつ、その開化的、理想的なあり方が論じられていた[김혜경・정진성 二〇〇一]。同じく「民籍」・「戸籍」をめぐる法制度の編成過程では、現実の生活集団や扶養関係(戸主と「食口」)と父系血統として構築された「慣習」、さらには日本から導入が試みられたイエ制度が相互対照され、非血縁者を含む広義の扶養関係、あるいはケアの諸関係にある者たちの地位・役割関係や家族的な集団が法的に再定義されていった。
すなわち、未だ再生産される概念装置としての「家族」は近代的起源をもつものであり、「家族」の自明性・当為性と被拘束性を問い直す試み、すなわち脱家族的相対化には、家族の実践と制度・イデオロギーとの複雑な絡まり合いを解きほぐすこと、あるいは血縁家族に自明的・当為的に担わされるケアや配慮の諸関係が成立する条件とこれに対する代案的な可能性を探究してゆくことだけではなく、「家族」の構築過程で何が排除され何が包摂されたのかを実証的に辿りなおすことも含まれるということである。
以下、この「家族」の構築と作用について、①韓国の家族の非法人性と二重性、ならびに②家族イデオロギーの分化と権力関係の再生産に絞って概観しておこう。
2 韓国家族の二重性
おそらく今日の韓国でも、「家族」(kajok)という用語は、日本のイエのような法人的な集団(corporate group)を指すものとしては用いられていない。また父系氏族を含めて「家族」と捉えたり[参考、金斗憲 一九六九]、協力・依存関係にある近親者の範囲の大小によって「大家族」や「核家族」という用語を用いたりもするように、この語は、親族関係の広がりも含意するようである。他方で、時に非父系近親、さらには非血縁者をも含みうるような居住と生計を共にする者は、「食口」(sikku)、あるいは「チバン・シック(食口)」(chiban-sikku)と呼ばれる。興味深いことに、一八八〇年に刊行された『韓仏字典』でfamille(英語のfamilyに相当)と対応付けられていた「집안(이)」が、一九二〇年に朝鮮総督府によって編纂された『朝鮮語辞典』では「門内」と「近親の一族」の二つの意味を持つと記されている。これを漢字語として表記した「家内」にも、「家屋の門内。(家中)」と「近き親族」という、ほぼ同義が示されている。ちなみに「家族」も項目として拾われ、「一族」、「一家内の者」という字義が付されている。すなわち、familyあるいはhouseholdに類似する意味とともに父系親族に通じるような意味も示されているということである[朝鮮総督府編 一九二〇:三―四、七九七]。「家族」を「一族」としているのは、自分の属する父系氏族あるいは父系親族を「一家」(ilga)と称することにも通じる。なお、近親という意味での「チバン」は、今日の用法と類似する[嶋 一九七六、伊藤 一九八七]。
朝鮮韓国社会で二〇世紀初頭以降に定着した「家族」という用語が、「食口」すなわち生計と居住を共にする者たちの関係性や基本的な生活集団と、「チバン」や「一家」で示唆されるような近親者から父系親族・氏族へと拡大する親族の広がりの二重の意味を担っていること、またこの二重性が示唆するように、それが法人的な集団に収斂するような一枚岩の概念ではないことは、韓国の家族の理解においてどのような含意を持ちうるであろうか。ひとつには、ブルデューが「親族の社会的用法」で指摘したような親族に担わされるふたつの役割、すなわち、社会的認証を受け義務・責任や象徴資本を共有するような集団・関係性、「公式的親族」(official kinship)と、生活上の必要性に向けられたケアの諸関係、「実践的親族」(practical kinship)あるいは「実践的諸関係」(practical relations)、ならびに両者の弁証法的関係が、韓国の家族(親族)にも見出しうるということであろう[Bourdieu 1990: 162-199、ブルデュ 一九九〇:三一―九八]。しかしそれ以上に重要であるのは、両者のずれがある種の柔軟性やダイナミズムを生むとともに、それに法的な枠付けを与えようとすること(具体的には、生死と婚姻・血縁関係によって一定の境界付けを行うこと)が本来的に不具合を伴うということである。この柔軟性やダイナミズムは解放・国権回復後の韓国を対象とした社会学・人類学的研究で様々な形で論じられてきた。法的枠付けについては民籍・戸籍と家族に関する法制史や近年の福祉社会学の議論が参考になろう。ここではまず前者について概観しておきたい。
一九五〇年代以降に本格化する韓国農村社会を対象とした社会学・人類学的研究では、同じチプ(chip:住居)に暮らし、基本的な生計を共にし、さらには生産・経済活動の基本単位ともなる近親者の集団を経験的に「家口」(世帯:household)として再定義し、その境界を越えた近親間の依存・協力関係や父系親族の組織化と関連付けながら、その構成や役割・機能(社会構造的諸側面)について実地調査や統計調査に基づいた詳細な分析を行った。特に英国構造機能主義の影響を強く受けた父系親族組織の民族誌的研究では、祖先の顕彰を主目的とする親族団体である門中(munjung)を、祖先を焦点として組織されるリネージ(lineage:単系出自集団)の一種と看做し、その内的構成や分節構造、あるいは機能・役割についての実証的な分析を蓄積した[Janelli & Janelli 1978, 1982、嶋 一九七八、一九八七、Song 1982、伊藤 一九八三、一九八七]。このようにリネージ的な親族組織に重点を置いた研究では、社会集団としての「チプ」や「家口」を自明性の高い、あるいは経験的に実体が確認される構成単位と見なす傾向が強かったが、他方で、個人に焦点を合わせて、チプの継承/「分家」とクンチプ─チャグンチプ関係の展開など、居住・生計・生産単位としてのチプが主に既婚男性のライフコースに従って父系的なバイアスのかかった近親関係(kindred)へと展開・再編成される様相に着目した研究も見られた[嶋 一九七六、伊藤 一九八三、一九八七、二〇一三:三章、Suenari 1998]。また嶋陸奥彦[一九八〇]は、祭祀継承の単位(儀礼的家)、財産所有を主体とする単位(社会的家)、ならびに同居単位(世帯)のずれに着目し、本論での用語に従えば韓国の家族が必ずしも法人的な一体性を構成しない様相にいち早く光を当てていた。
これに対し、産業化過程での農村社会の変化と都市的生活領域の形成に関する人類学・民族誌的研究や、植民地期にまで遡るオーラル・ヒストリーを主たる資料とする歴史民族誌的研究では、階級・階層、ジェンダーやその他の社会経済的諸条件によって異なる様相を示す父系/非父系の(双方的な)近親者間の依存・協力関係と「家口」の編成を、集団/関係としての家族を一つの資源として活用する生計維持や社会上昇の戦略的・交渉的な諸実践として捉え直した。박부진[一九九四]や拙稿[一九九四]では、産業化過程での若年・壮年層の農村から都市への移住にともない、日常的な居住・生計単位としては農村に残る親夫婦と息子、特に長男夫婦の別居が増える一方で、子供への配慮や老親の扶養などケアの諸関係においては父系直系家族、あるいは父系拡大家族的な認識枠(あるいは孝のネットワーク)が再生産されている様相を指摘している。また、윤형숙[二〇〇四]や拙稿[二〇一六:五章]では、世帯編成や近親・親族関係が社会的生存に向けられた戦略的実践の所産であるとともに、またそれに活用される資源ともなっている点に着目し、地主・富農、中間的小農、あるいはマージナルな生計を営む者など、社会経済的基盤を異にする人たちの家族を基盤とする再生産戦略の諸様相を歴史民族誌的に論じている。いずれの論考においても、父系血縁的な広がりをもつ「家族」と居住・生計単位としての「家口」(世帯)を分析的に区別し、前者の遡及的構築性と後者の流動性・柔軟性や暫定性を指摘している。これは近代核家族理論への批判的視座を提示するものでもあった。
一方、都市住民の家族、特に産業化過程で形成、あるいは再編成された都市中産層(urban middle class)の家族については、一九八〇年代後半以降、主に米国系の文化人類学者によって本格的な民族誌研究が進められた。そこではフェミニスト/ジェンダー人類学的な観点が強く表れるのも特徴的で、資本主義的労働市場で主たる「生計扶養者」となった夫・父親によって担われないあらゆる役割を引き受けるようになった妻・母親の交渉的実践と行為主体性、特に母性に注目が集まった。「専業主婦」として自己同定する彼女たちの役割は、家事・庶務、子供の養育と教育管理から、インフォーマルな経済・利殖活動と誇示的消費、さらには近親者との関係管理にまで及ぶ。特にNancy Abelmann[2003]は、ソウルとその近郊に居住する中高年女性たちの経験と想像が入り混じった錯綜した語りを資料として、彼女たちがいかに能動的に家族の階級移動を実践し想像してきたのかを、このような語りとの関係で生起するジェンダー化された主体性とジェンダー関係に着目しつつ、極めて詳細に分析している。
このように、一九九〇年代以降活発な展開を見せる歴史民族誌的研究と都市研究では、個々人の行為主体性と実践に焦点が合わせられる。そして諸個人が親密な、あるいは身近な他者との交渉と相互行為を通じて「家族」の名のもとに包摂/排除される諸関係を編成し再編成する様相を、儒教的孝・家族規範、近代核家族規範、状況的論理、法・福祉制度、さらにはAbelmannのいうジェンダー・システムを含む制度・イデオロギーやその媒体との複雑な関係を視野に入れつつ、実証的に跡付けている。
3 家族主義の分化と再生産される家父長制
韓国の近代家族を論ずる家族社会学・フェミニスト社会学や認知・行為モデルを論ずる文化人類学では、「家族」の実践に介在する多様な、時に競合する社会規範、制度、イデオロギー、論理を、しばしば「家族主義」(familism, familialism)という融通無碍な概念で対象化する。例えば、韓国におけるフェミニスト人類学の先駆けである趙韓恵浄は、家族主義を論じた先駆的な論考で、これを①社会の基本構成単位が個人でなく家族集団であり、②この家族集団が国家を含む他のあらゆる社会集団よりも優先されるという信念に基礎を置くものと捉え、韓国文化の核心的な構成要素と位置付けた。そして「伝統的家族主義」の諸段階として、朱子学的理念に根拠を置く朝鮮時代の「道徳的家族主義」、生存の維持を目的とする混乱期の「功利的家族主義」(家族の道具的機能)、そして家族の利益の極大化をもくろむ現代の「家族(集団)的利己主義」を区別している[조혜정 一九八五]。また先述の社会学者、張慶燮は、「圧縮された近代性」を論じた二〇一〇年の著作で韓国人の家族中心性と家族に関する観念と態度の多様性を強調し、家族イデオロギーの主要な類型として、「儒教的家族主義」(Confucian familism)、「道具的家族主義」(instrumental familism)、「叙情的家族主義」(affectionate familism:家族の心理的防御機能)、「個人主義的家族主義」(individualistic familism:女性と若者の個人性の発達と家庭生活の商品化)を挙げている[Chang 2010: 16-24]。さらに別の論考では、「理念的家族主義」(儒教的、道具的、叙情的、個人主義的家族主義など多様な家族主義理念の競合)、「状況的家族主義」(特定の歴史的・社会的状況で家族中心的行為や関係が合理性を持つこと)、「制度的家族主義」(社会制度の形成・運用で、家族的次元の責任・義務・権利を強化し家族中心的な生活を営為するようにする効果)の三つを区別している[장경섭・진미정・성미애・이재림 二〇一五]。このような用語法に従えば、筆者が論じた農村住民の家族を基盤とする再生産戦略[拙稿 二〇一六:五章、七章]は、それぞれが理念性(理念的家族主義)と状況的合理性(状況的家族主義)を具えた道徳・儒教的家族主義と功利・道具的家族主義の競合、ならびに両者の架橋として読み替えることができるかもしれない。
一方、前項で言及したような産業化過程で形成された都市中産層夫婦家族をめぐる役割関係・性別分業や情緒性・親密性は、しばしば「儒教的家父長制」の「家父長制的資本制」への接合として論じられている。フェミニスト社会学者、イ・ジェギョンは、これを「新家族主義」と名づけている[이재경 一九九九]。また、後期近代という枠組でリスク社会化と福祉レジームの再編成を論ずる近年の社会学では、社会の基本的な構成単位の「個人化」あるいは個への志向性と人びとを強く拘束する諸々の「家族主義」との複雑な関係、ならびに福祉制度の原理としての複数の「(制度的)家族主義」の可能性が論じられるようになっている。そこでは近親間に見出される家父長制的な権力関係がどのように再生産され、またどのように交渉されるのかも重要な論点となる。
近年の韓国の家族に関する類型論が、「(父系)直系家族」や「核家族」・「夫婦家族」といった居住・生活集団、あるいは社会集団の内的構成に従うものではなく、多様な競合する「家族主義」(家族イデオロギー)を腑分けするものとなっているのは、一方で「正常」家族からの逸脱や家族の実践自体の多様化、ならびに行為主体としての個人の焦点化を反映するものであろうが、他方で先述のように韓国の家族が単一の法人的単位として結晶しにくいこととも関係があるのかもしれない。またその意味で、上にあげたような諸々の「家族主義」は、居住・生活集団内の関係性のみを統制/促進するものではなく、「家口」の境界を越えて拡大する近親の関係性に作用するものともなっている。
(後略)
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執筆者一覧(掲載順)本田 洋 東京大学大学院人文社会系研究科 教授
田中美彩都 東洋大学国際学部 講師
澤野美智子 立命館大学総合心理学部 准教授
株本 千鶴 椙山女学園大学情報社会学部 教授
柳川 陽介 埼玉大学学術院・大学院人文社会科学研究科 講師
重岡こなつ 東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
韓 光勲 大阪公立大学大学院文学研究科 博士後期課程、日本学術振興会特別研究員
野崎 充彦 大阪市立大学 名誉教授
伊藤 亜人 東京大学大学院総合文化研究科 名誉教授
仲川 裕里 専修大学経済学部 教授
井出 弘毅 東洋大学アジア文化研究所 客員研究員