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それでも、彼女は学校へ  新刊 これから出る本

エチオピア村落の教育とジェンダー

それでも、彼女は学校へ

教育を通した自立というストーリーではなく、抑圧の日常から「明日」へという選択の「多様な束」を描く

著者 有井 晴香
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2025/02/28
ISBN 9784894890381
判型・ページ数 A5・264ページ
定価 本体4,000円+税
在庫 未刊・予約受付中
 

目次

はじめに

序論 アフリカの女性の生き方と学校教育

   一 問題の所在と本書の目的
   二 女子教育は何をもたらすのか
   三 自律的主体を問い直す
   四 ライフストーリーへの注目
   五 本書の構成と調査概要

第一章 変わりゆく村

   一 コイベ村の概観
   二 地理的特徴と生業
   三 マーレの社会制度
   四 宗教と社会変容

《コラム1》 祈る

第二章 教育開発の展開

   一 学校教育の導入
   二 公教育の広がり
   三 急増する就学者
   四 成人教育の実施
   五 教育の質の問題
   六 学校教育の意義

第三章 進学か結婚か

   一 就学した若者のライフプラン
   二 マーレ女性のライフサイクル
   三 就学と就業の結びつき
   四 結婚している生徒の存在
   五 就学と結婚の選択
   六 就学と結婚をめぐるライフコースの交渉

《コラム2》 売る

第四章 女性性の再構築―娘を学ばせた女のライフストーリー

   一 マーレ女性の語りの態度と語りの場
   二 オーコの略歴
   三 「私は男を産んだ」
   四 八人の娘の教育
   五 望ましい暮らし方と現実
   六 考察

《コラム3》 食べる

第五章 時代による差異のはざまで―女性教員のライフストーリー

   一 教員としてのふるまい
   二 就学をめぐる交渉
   三 「完全な娘」であること
   四 教職への不満
   五 望ましいふるまい

《コラム4》 贈る

第六章 結婚後の就学――学校に通う母親たちのライフストーリー

   一 既婚男性の就学
   二 イテネシのライフストーリー
   三 アッディスのライフストーリー
   四 マルタのライフストーリー
   五 既婚女性の就学

《コラム5》 産む

結論 教育を求める女性たちの関係的自律性

あとがき

参考文献

索引

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内容説明

切実な「学び」の希求
結婚や出産を経て学校へ通い始めた彼女たち──その実像は教育を通した自立というストーリーではなく、抑圧の日常から「明日」へという選択の「多様な束」であった。「自律と依存」「伝統と近代」といった二項対立を超え、「持続可能な自立」を目指す生き方を描く。


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      はじめに




 本書は、エチオピア西南部に暮らす少数民族マーレの女性たちが自らの生をいかにして価値あるものとするのか、そこに学校教育の広がりはどのように関係するのかについて論じるものである。

 二〇〇〇年代以降、サブサハラアフリカ(以下、アフリカ)諸国では初等教育を中心に就学率が劇的に改善した。エチオピアは、なかでも大きく就学者数を伸ばした国のひとつである。二〇一〇年、私が大学院に入学した際に考えていた研究テーマは「初等教育修了者の進路」であった。すべての子どもたちが教育を受けられるように、と国際目標が設定され、初等教育に対する援助が集中するなかで、課題となっていたのは教育の質や中等教育以降の進学率の低さであった。そこで、小学校を卒業した人たちがどのような進路選択をおこなうのかをエチオピアの村落地域で調査したいと考えたのだ。

 マーレの村を調査対象地としてフィールドワークをはじめた頃、マーレ語もろくにわからない中で、インフォーマントを探すべく、小学校を卒業していそうな年頃の若者たちを見かけるたびに、名前と学歴を聞いてまわっていた。


 「あなたは学校に通ってた?」

 「今、通っている。六年生だよ」


 当初、小・中学校の中退者が村にはたくさんいると想定していたが、見事に予想は裏切られ、誰にたずねても「今、学校に通っている」という回答がかえってきた。この村ではいうなれば「就学ブーム」がまさにその時、巻き起こっていたのである。フィールドワーク開始時に設定した「初等教育を終えた人は何をしているのか」という研究の問いは、この村の現状にはそぐわない。さて、どうしたものか。研究テーマを調整する必要が生じたなかで、ひとりの女性と出会ったことが本書につながる第一歩となった。

 二〇歳前後に見えた彼女は、二児の母であり、そして小学校に通っていた。エチオピアのみならず、多くの開発途上国において、結婚や出産といったライフイベントは女子の就学を妨げる要因として考えられており、妻や母となった女性は学校に通うことが難しくなる。それが当たり前のことであると考えていた私にとって、彼女のように子どもを出産した後に小学校に通うというライフコースは全く想定していないものであった。

 ちょうど私がフィールドワークを始めた頃から、この地域ではそれまで学校教育を受けたことがなく、教育から取り残されていた母親たちがひとり、またひとりと学校に通うようになっていった。自分の子と同じ教室で机を並べて学ぶ人もいるし、なかには、夫からの賛同が得られなくても学校に通う人もいた。なぜ、彼女たちは学校に通うのだろうか。学校に通うことは、彼女たちの人生に何をもたらすのだろうか。これが本書の問いの出発点である。


 学校に通う母親たちのひとり、アレフェチは、結婚前に学校教育を受けたことがなく、成人識字教室に通った後に、小学校に入学した。あるとき、小学校から自宅までの帰りに知人の家の軒先で談笑しているアレフェチを見かけたので、「学校に通い始めたの?」と声をかけてみた。アレフェチは、にやっと笑って「私はもう市場での商売はやめたの」と言った。マーレの女性は、各村で異なる曜日に開かれる定期市をまわり、農作物の売買を通して現金を稼ぐ。アレフェチも毎日のように市場に出かけている女性だった。

 「学校に行って、ノートを持って座ってるだけでお金を見つけることができるもの。だって女子生徒は油がもらえるから! 油がもらえなくなったら、やめればいい」

 当時、マーレの一部の小学校では女子就学者数を増やすため、給食用の食用油の余剰分を女子生徒のみに配給していた。油は市場で売るとお金になるため、学齢期をとうに過ぎて学校に通い始めた女性たちに対して「油目当て」と揶揄する声も聞かれた。実際、油目当てに学校に通っていた人もいたようである。

 「なるほど」

 アレフェチの語りを真面目に受け取った私を見て、彼女はけらけらっと笑い「冗談よ。本気じゃない」と言って、真顔になってこう続けた。

 「学(təmhərt)を知ることは良いことだ。知らないと、後々、損をすることになる。私の村の人たちは学の大切さを知らなかった」

 アレフェチは落ちていた小枝を拾い、地面にゆっくり線を引いてアムハラ文字をひとつ書くと「これが何か知ってる?」と言って私の目を見た。

 「今なら私はこれがわかるの」

 アレフェチが地面に書いた線は、何も知らない者から見ればただの線であり、意味をもたない。学校に通い、知識を得ると、ただの「線」が「文字」へと変わる。文字を知り、学びを続けたとき、彼女たちの生はどう変化するのだろうか。「学を知ること」とは、単純に文字の読み書きができるということではない。

 「学を知ること」を通じて個人をエンパワーすることは、教育開発に関わる政策や指針、研究において、学校教育の意義として主張されてきたことであり、自らの人生における意思決定ができる自立/自律した個人の確立が学校教育の重要な目的となる。たとえば、アレフェチのような女性が子ども時代に学校に通えなかった理由は、学校教育の社会的意義が見出されていなかったことに加え、子どもに教育を受けさせるにしても男子が優先されるような考え方があることがあげられる。このような女性が劣位におかれる家父長制的な社会構造を変革し「抑圧された女性」をエンパワーすることが学校教育に期待される。裏を返せば、教育によるエンパワーメントの論理の前提には、近代的な学校教育を受けていないアフリカの女性には自律性が欠如しているという見方が含まれている。自律的ではないからこそ、ときに女子生徒は結婚、出産を経験し、中退にもつながっていくと解釈される。

 それでは、アレフェチのように、子どもの頃に就学経験をもたない女性たちは、果たして自律性が欠如した社会的に抑圧された存在だったのだろうか。もし、そうなのだとしたら、彼女たちはどのようにして結婚後に学校に通うことを決めたのだろうか。自律性の欠如した、抑圧された女性像を前提として考えた場合、マーレの既婚女性がときに夫の反対を押し切ってでも学校に通う理由は解き明かせない。一方で、彼女たちの選択を単純に「自律的」であると位置づけてしまうことは、マーレ社会の家父長制的イデオロギーを無批判に肯定しかねないジレンマを抱える。

 ここで問題となるのは、自律性の捉え方である。西洋近代的な自律性の概念は合理的な人間像を背景に経済的な自立と結びついているが、アフリカのフェミニズム研究や女性の民族誌においては、女性が必ずしも抑圧され従属的な地位におかれているのではなく、連帯や協働を通して地位を確立していく姿が描かれてきた。そして、西洋近代的な価値観に基づいた自律的な主体の概念を普遍的な価値として適用することは、「抑圧された脆弱なアフリカ女性像」を生み出し、アフリカの女性を周縁化するものとして批判の的となってきた。

 一方で、こうした個人主義的な自律性の追求は、先進国のあいだでも社会的弱者を切り捨てる論理として批判されてきた。アフリカの女性のみならず、人が生きていくうえで誰かに依存せざるを得ない状況は日常にあふれている。合理的な経済人を前提とした個人主義的な自律性の追求は、病人や障害がある人、社会的マイノリティなどを脆弱な存在として切り捨て、新自由主義的な価値を推し進めることにつながっている。

 つまり、ローカルな社会関係の中にあることと、自律した生を紡ぐことを、二律背反的なものとして捉えることに問題があるのではないだろうか。

 本書は、自律概念の問い直しを含めて、マーレの女性がいかにして自律的な主体となるのかを、学校教育の普及のプロセスのなかで解き明かそうとする試みでもある。そして、地域の文化的要因と学校を切り分けて論じるのではなく、就学を文化的な実践のひとつとして捉え、個々の女性たちの視点からみたときに学校に通うことがどのような意味をもちうるのかを論じる。エチオピア農村のような、近年ようやく学校教育が普及し始めた地域においては、大きな学歴格差はすなわち就学したか否かに収斂される。学校教育が女性の生き方に与える影響を考えるとき、就学を終えた人を対象とした研究がなされてきたが、中退者や長期にわたって未就学であった人の人生は注目されてこなかった。個人をとりまく社会の動態と関わるプロセスとして就学をみるとき、修了者だけではなく、広く学校教育と関わりをもつ人たちにも焦点をあてる必要がある。そこで、本書では、学齢期を越えてから就学した人、就学を支える人にも注目することで、人びとのなかで、学校教育を受けることがいかなることとして捉えられているのかについても考えたい。


 なお、日本の教育制度では、小学生を児童、中高生を生徒、大学や専門学校などの高等教育機関に通う人を学生と称するが、本書では小学生から高校生までを一律に生徒として記述する。「児童」のことばが示す通り、日本の小学生は「子ども」であることが想定されている。途上国においても一般的なイメージではそうであろう。「アフリカの子どもたちに教育を」というキャッチフレーズは世の中にあふれている。しかし、本書の中でライフストーリーを記述する対象は子どもをもつ「大人」たちである。子どもだけが小学校に通うわけではないという事情もふまえて、本書では子どもを意味する「児童」ではなく「生徒」の語を採用する。また、本書で用いる事例における人名はすべて仮名である。

 

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著者紹介
有井晴香(ありい はるか)
1988年生まれ。
2016年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。
専攻は文化人類学、アフリカ地域研究。
現在、北海道教育大学教育学部准教授。
主著書として、『子どもたちの生きるアフリカ:伝統と開発がせめぎあう大地で』(昭和堂、2017年、共著)、『ようこそアフリカ世界へ』(昭和堂、2022年、共著)、Contemporary Gender and Sexuality in Africa: African-Japanese Anthropological Approach(Langaa RPCIG, 2021, 共著)、論文として、“Gender Relationships in Reproductive Health in Maale, Ethiopia: Decision-Making in Family Planning as Practice of Care”( Nilo-Ethiopian Studies 28, 2023)など。

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