目次
第一章 涼国公藍玉とその死
一 藍玉の獄に至る時代状況
二 藍玉のパーソナリティ
三 藍玉誅殺の月日
第二章 『逆臣録』と『藍玉党供状』
一 藍玉党と『逆臣録』
二 『逆臣録』と『藍玉党供状』
第三章 藍玉の獄と詩人王行
一 王行に関する伝記史料
二 王行の履歴
三 王行と藍玉の獄
第四章 沈萬三一族の藍玉の獄
一 陳高華氏論文簡介
二 沈萬三一族と藍玉の獄
三 再び陳高華氏論文について
第五章 藍玉の獄とモンゴル人──乃兒不花とその周辺
一 達官乃兒十花とは?
二 乃兒不花という人物
三 乃兒不花誅殺の背景
四 乃兒不花告発の波紋
第六章 藍玉の獄に連座した火者たち
一 火者の連座事例
二 火者の来由
三 火者と宦官との間
四 火者と功臣家の家政
第七章 刀鋸の彼方に
一 還郷政策の行方
二 文臣官僚の連座
三 武臣・衛所官軍の連座
四 衛所官の配置転換
五 刀鋸の由来
後記
索引
〔付1〕『逆臣録』所載藍玉党人名一覧
〔付2〕皇帝直属親軍衛関係の連座者
内容説明
明の洪武帝は、皇帝権強化や政治改革のため五つの疑獄事件を発動したといわれる。本書は、従来功臣や官僚排除のためとされてきた「藍玉の獄」をつぶさにとらえ直し、洪武帝がこの事件で真に意図したものは何か、を探究するものである。
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序語 川越泰博
明代洪武朝三一年間の歴史において、洪武二六年(一三九三)は、極めて騒然とした年であった。陬月(正月)が明けると、早々に世間を恐懼させた事件が起きたのである。錦衣衛指揮の??なる人物が、
玉は景川侯曹震、鶴慶侯張翼、舳艫侯朱寿、東莞伯何栄及び吏部尚書??、戸部侍郎傅友文等とともに変をなさんと謀り、将に帝の?田に出るを伺い、事を挙げんとす(『明史』巻一三二、藍玉伝)。
という告発をしたのを機に、藍玉を中心に曹震・張翼・朱寿・何栄・??・傅友文、それに会寧侯張温・普定侯陳桓・懐遠侯曹興など明朝の重臣たちが次々に捕縛されて下獄していったのである。かれらが逮捕されたのは、二月一五日における洪武帝の?田(皇帝みずから田を耕して宗廟に祭る穀物を作る儀式)の機会を狙って事を挙げようとしたとの事由によるものであったが(宋端儀『立斎間録』巻一)、逮捕されたのは、これらの重臣たちに止まらず、かれらに繋がりのあるものたちも芋づる式に捕縛され、その数は厖大なものとなった。謀反の首謀者とされた涼国公藍玉に関して言えば、このとき逮捕されたのは、一族係累のみならず、その火者や佃戸などの使用人から知友まで広範囲に及んでいる。
このことは、洪武帝が、本事件に関して、その罪人取り調べの記録書、すなわち爰書をもとに編纂させ、洪武二六年(一三九三)五月に刊刻頒布させた『逆臣録』によって知ることができる。藍玉の獄で殺された人数は、普通一万五千人(『皇明詔令』巻三、宥胡藍党人詔、『明史』藍玉伝、『二十二史箚記』巻三二、胡藍之獄など)というのが一般的であるが、この他に、二万人(『明史紀事本末』巻一三、胡藍之獄)とか、胡藍二獄合わせて三万人(『国�』巻一〇、太祖洪武二六年〔一三九三〕八月の条に引く朱国禎の文言)とか伝えるものがあって、必ずしも一定していない。しかし、いずれにせよ、上に見たように、藍玉党(藍党)とみなされた曹震・張翼・朱寿・何栄・??・傅友文・張温・陳桓・曹興など明朝の重臣たちは、その一族係累から使用人にいたるまで逮捕されたのであり、しかもそれら逮捕された人々に連座して族誅されたものをも含めると、その総数は、当然万を数えるものとなったものと思われる。
藍玉と曹震・張翼・朱寿・何栄・??・傅友文等の高官が大量に誅殺されたのは、二月一〇日のことである。それから、ほぼ一ケ月を経た三月一七日には、会寧侯張温と中軍都督府都督僉事の蕭用が誅殺された。さらに、四月八日には瀋陽侯察罕が、六月一八日には、左軍都督府都督の馬俊が誅殺された。このように、錦衣衛指揮の??の告発によって、藍玉らの処刑から始まった本事件の処理は、およそ四ケ月にしてようやくけりがついたのであった。この事件は、通常、藍玉の獄、もしくは藍玉党案と呼ばれているが、これは、洪武一三年(一三八〇)に起きた胡惟庸の獄とともに「胡・藍の獄」と併称されている。
周知のように、洪武帝の時代には、藍玉の獄も含めて、捏造・でっち上げともいうべき大小様々な疑獄事件が起きた。その中で五大疑獄事件というべきものは、洪武九年(一三七六)の空印の案、一三年(一三八〇)の胡惟庸の獄、一八年(一三八五)の郭桓の案、二三年(一三九〇)李善長の獄、そして二六年(一三九三)の藍玉の獄である。その中で、藍玉の獄が、胡惟庸の獄とともに、「胡・藍の獄」と併称されるのは、その規模が大きく、ともに洪武時代の他の疑獄事件を遥に凌駕する惨絶を極めたものであったからである。
上に列挙したように、藍玉の獄は、洪武時代の五大疑獄事件の最後に位置するものであったが、それでは、空印の案から藍玉の獄まで、なぜこうした疑獄事件が、つぎつぎに洪武中に起きたのか、換言すれば、洪武帝は、なぜこのような疑獄事件をつぎつぎに発動しなければならなかったのか、ということになるが、こうした五つの疑獄事件を統一的に捉えようとしたのは、檀上寛氏である。氏は言う。
五事件は相互連関的な意義を持ってはいるが、大きく分ければ胡惟庸の獄までの前二者と、残りの後三者とに二分できよう。胡惟庸の獄直後の官僚機構内部と郷村での改革は、一方が中書省の廃止と六部の昇格、他方が里甲制の設置に結実したことはよく知られている。ともに王朝支配確立の指標となる改革で、単に洪武朝のみならず、明代史上での画期的意義を持つ。その意味では、後三者の事件は補足的なものといえなくもない。胡惟庸の獄を境に二グループに分けた所以である。
そして、かかる疑獄事件の結果、空印の案では「行省」、胡惟庸の獄では「中書省」、郭桓の案では「六部」の革新的な機構改革・刷新が行われ、李善長の獄においては、「富民」の移徙政策が行われたという。
それでは、五大疑獄事件の最後に位置する二六年(一三九三)の藍玉の獄においては、結果として何が齎されたのであろうか。檀上氏は、
(中略)
かような積極的な情報開示は、見方を変えれば、洪武帝による世論操作、情報操作という意味合いも持つ訳ではあるけれども、しかしながら、連座して誅殺された人々の姓名や籍貫・身分・職業等の点まで、架空にでっち上げを行ったのではないのである。とすれば、ここに見える多様な人々の姓名・身分・職業等を分析することは、藍玉の獄に連座した人々の様態を解明することに通じる。
本書においては、藍玉の獄に連座した多様な人々の存在形態を解明することを基軸にしながら、本書の最終的な目的である、洪武帝が藍玉の獄において真に意図したものは何か、その何かを探求することにしたいと思う。
このような視座から藍玉の獄を構造的に解明しようとすることは、藍玉の獄研究においては、初めての試みとなる。藍玉の獄は、明代初期に起きた政治的疑獄事件として、名称だけは甚だ著名であるけれども、研究の蓄積は極めて乏しいのである。ある歴史的対象や歴史的用語が、当該時代にとってすこぶる重要であることは、ほとんど自明でありながらも、それが必ずしも豊富な研究史をもち、しかもその概念・実態・性格などの究明が深化されているとは限らない事例は少なくないが、ここで取り上げようとしている藍玉の獄もまた、その例に漏れないのである。本書の上梓が、藍玉の獄に関する研究深化の鑿井となる切っ掛けになれば、幸いこれにすぐるものはない。
なお、本書で頻用する「連座」という用語は、律令用語としてのそれではなく、「一人の犯罪のために他人まで罪にあうこと」、すなわち連累の意味で使用している。
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著者紹介
川越泰博(かわごえ やすひろ)
1946年、宮崎県日南市に生まれる。
1976年、中央大学大学院文学研究科博士課程単位取得。
現在、中央大学文学部教授(大学院併任)、博士(史学)。
著書に、『中国典籍研究』(国書刊行会、1978年)、『北京小史』(国書刊行会、1982年)、『明代建文朝史の研究』(汲古書院、1997年)、『明代異国情報の研究』(汲古書院、1999年)、『明代中国の軍制と政治』(国書刊行会、2001年)など。