目次
序論
第一章 現代中央アジア社会研究の視座
第一節 イントロダクション
第二節 ポスト・ソヴィエト・中央アジア研究の概観
1 政治経済移行に関する研究動向
2 民族誌的研究の動向
第三節 中央アジア遊牧民の社会集団研究の概観
1 中央アジア遊牧地帯の社会変容 ―― 史的唯物論的アプローチ
2 中央アジア遊牧民の社会組織 ―― 構造機能主義的アプローチ
3 ポスト・ソヴィエト・中央アジアの社会ネットワーク―― ネットワーク・アプローチ
第四節 本書の視座
1 三アプローチの研究射程
2 本書の中心視角
3 本書の目的と構成
第二章 調査地概要
第一節 クルグズスタンの概要
1 現在のクルグズスタン
2 歴史的背景
3 クルグズスタンの経済移行
第二節 カラタル村の概要
1 周囲の概況
2 カラタル村とカムバルアタ・ソフホーズ
●第1部 民営化諸段階を支える社会的枠組の検討
第三章 ソフホーズ解散
第一節 分析の起点としての民営化
1 ソフホーズ解散をめぐる状況
2 民営化諸段階の検討
第二節 集団化と分節化
第四章 民営化の歴史的社会的背景
第一節 集団化以前の社会環境 ―― およそ一九二〇~三〇年代まで
1 ソ連成立前後のカラタル地域
2 カラタル地域の社会経済状況
第二節 集団化と地理的経済的分節化 ―― 一九三〇~五〇年代
1 初期コルホーズ群の創設
2 初期コルホーズ群合併と定住村落の創設
第三節 「カリーニン」の生成 ―― 一九五〇~九〇年代
1 カリーニン集団経営体
2 社会的分節としての「カリーニン」
3 アィル
4 カリーニンの四アィル
第四節 カリーニンからカラタルへ ―― 一九九五年以降
第五章 割当集団の編成の検討
第一節 カラタル村の割当集団
1 民営化の次の段階
2 三住区の割当集団編成 ―― 民営化の(?)─(b)段階
3 ジェティコルゴン住区の例から―― 民営化の(?)─(c)段階
第二節 葬式の分担金
1 ラジャス
2 分担金
3 「ラジャスのなかである」人びと
第六章 相互扶助の親族ネットワーク
第一節 サヤックの分担金
1 祝
2 葬式
第二節 相互扶助のネットワーク
1 ウルックとネットワーク
2 親族と姻戚のカテゴリー
3 ソフホーズ解散と親族ネットワーク
●第2部 親族ネットワークの生成過程
第七章 「カリーニンのサヤック」の生成
第一節 集団化と父系出自分節の再分節化
1 集団化以前のカラタル地域とトロック─サヤックの背景
2 ジェティコルゴン・コルホーズの創設
3 「ジェティコルゴン」の社会的分節化
第二節 相互扶助と父系出自親族の再分節化
1 カリーニン・コルホーズの創設
2 「カリーニンのサヤック」の出現
第三節 父系出自親族になる過程
1 グルバイ(△f1)
2 ウブライ(△g1)
3 実践による父系出自親族関係の生成
4 父系出自親族への変換メカニズム
第八章 慶弔事の往来の分析
第一節 慶弔事の分類
1 ソーロンバイ夫婦の生活の背景
2 カラタル村の慶弔事
3 ソーロンバイ夫婦の慶弔事
第二節 慶弔事に行き来する人びと
1 ソーロンバイ夫婦の往来の事例から
2 慶弔事を共にする人びと
第三節 饗応の場
1 饗応型式
2 同席者たち
第四節 生と死のあとで ―― 「カリーニンのサヤック」の慶弔事
1 新生児のお披露目のお茶
2 死者供養
3 サヤックの弁証法
第九章 慶弔事を支える意味の枠組の考察
第一節 慶弔事をめぐる説明回路の検討
1 「みんな」への食事とスイ
2 慶弔事の供犠
3 コーラン暗唱の説明回路
4 バタ
第二節 家畜の屠殺をめぐる問題
1 「屠殺」と「供犠」
2 供犠の解釈
第三節 スイと生活理念
1 「クダイのくれたコノック」
2 世界の受容と安定 ―― スイが表象する生活理念
第四節 ソヴィエト的脈絡における生活理念の検討
1 現代中央アジアのイスラームに対する研究射程
2 ソ連時代の禁止事項
3 基本資源の競合
4 親族ネットワークの生活理念
●第3部 ポスト・ソヴィエト時代の親族ネットワーク
第一〇章 サヤックの農業経営体編成
第一節 中央アジア諸国における独立自営農化政策の概観
第二節 カラタル村の独立自営農
1 カラタル村の農業経営体の構成
2 農業経営体の規模と傾向
第三節 実現しなかった「サヤック農業経営体」
1 サヤックのソフホーズ解散
2 サヤックたちの農業経営体
3 トクトグル農業経営体
4 独立自営農の収支計算
第一一章 祖先儀礼の復興と内実
第一節 ノールズと祖先儀礼の復興の脈絡
1 ノールズ
2 祖先儀礼
3 ノールズと祖先儀礼の連結
第二節 サヤックのノールズ
1 祝日から祖先儀礼へ
2 ノールズの集合範囲
3 「サヤック」の「アタ─ババ」 ―― 祖先儀礼の社会的脈絡
第一二章 独立自営農の時代の親族ネットワーク
第一節 サヤックの親族ネットワークの考察
1 岐路に立つ親族ネットワーク
2 社会ネットワーク論から見たサヤックの親族ネットワーク
第二節 中央アジアにおける社会ネットワークの比較考察
1 中央アジアにおける社会ネットワークの民族誌的事例の概観
2 中央アジアの社会ネットワーク
結語
あとがき
初出一覧
参照文献
写真・図表一覧
索引
用語解説
内容説明
ソ連崩壊により社会主義生産システムの安定を奪われた中央アジア・クルグズスタン(キルギス)庶民。直面した急激な生活・文化変動の仲で、伝統的な親族ネットワークが果たした役割。歴史と庶民生活の交錯を、文献と調査から詳細に描く。
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はじめに
フィールドワークとポスト・ソヴィエト時代、あるいはポスト・ソヴィエト時代のフィールドワーク
一九九〇年代以降の中央アジアは、ソ連時代の社会主義計画経済からポスト・ソヴィエト時代の資本主義市場経済への移行に大きく特徴づけられている。この「経済移行」という歴史的大変動は、中央アジアに暮らす人びとの日常生活を根底から揺さぶってきた。たとえて言えばそれは、ソ連時代のこれまでの生活を司ってきたリズムに一大変調が起こり、様々なきしみや雑音が絶え間なく耳を打ち続けるようなものであった。
だが旧ソ連領にもたらされた市場経済という新しいリズムは、今日でも完全には調節されていない上に人びとがそれになじむのも容易ではない。本書の対象である中央アジア一農村の村人にとっても新経済体制下での生活は、軌道に乗ったとはいえない状況が続いている。それはとりもなおさず、ソ連時代に作り上げられてきた社会を律するリズム──社会主義計画経済体制が、村人のあいだに深く根を下ろしていたことの証である。
一九九一年のソ連崩壊とともに独立した中央アジア諸国は、国による政策の違いが大きいとはいえ、資本主義市場経済化を目指して改革を行ってきた。だが各国の経済移行は、当初考えられていたような平坦で直線的な道筋ではなく、言わば山を上り谷を下って先の見えないカーブをいくつも曲がってゆくような、起伏の大きいジグザグのラインをたどってきた。そのラインの描く起伏や曲がり具合は、各国が採用する経済諸政策、そしてそれを実際に経験する人びとの社会状況によって大きく左右されてきたと考えられる。というのも人びとはそれまで自分たちが暮らしてきた生活、すなわち約七〇年にも及ぶソ連時代に形成された社会環境において、新たな変化と向き合っているからである。
本書はクルグズスタン(日本では一般に「キルギス」と呼ばれているが、本書では「クルグズスタン」と表記、詳細は後述)の一村落を対象にして、ローカルに経験される経済移行とそれがもたらす社会変化について、明らかにすることを目的としている。クルグズスタン政府の取った経済政策がどのような制度変化をもたらし、村人たちはその変化にどのように対処していったのかを、彼らの置かれている社会環境と照らし合わせながら検討してゆく。そのため本書では、ソ連時代、更にはソ連成立前後の時代にまで遡り、現在の社会環境が形成される歴史的過程をも考察する。
直接的には本文では、北クルグズスタンに位置するカラタル村(仮称、後述)と、その近隣諸村を主に扱う。だがこれらの村々が置かれた時代状況、そして変化に揺れる「ポスト・ソヴィエト農村」について、まずは具体的なイメージを与えておきたい。なぜなら私のフィールドワークはポスト・ソヴィエト時代に行われてきたが、現地の人びとは、「ソヴィエト連邦時代」を彼ら自身の生活のうちに内在化させてきたからだ。カラタル村の経済移行と社会変化を考察する上で、「ソ連時代」を知り、その上で村人の「ポスト・ソヴィエト時代」を理解しようとすることが大変重要と考える。
初めて私がカラタル村へ足を踏み入れたのは、一九九四年六月のことである。同村はクルグズスタン北部にある農村で、村人の圧倒的多数はテュルク系のクルグズ人である。その時は約二カ月間の滞在だったが、その後九五年六月から、長期滞在してフィールドワークを開始した。独立後のクルグズスタン政府は社会主義計画経済と別れを告げ、急進的な市場経済化政策を導入していたが、当時の人びとにとって資本主義体制はまだまだ未知の制度だった。しかし、市場経済の波は確実に村人の生活にも押し寄せており、すでに八〇年代末から変化は一部現実化し始めていた。その変化は、一九一七年のロシア革命・ソ連成立後に始まった、コルホーズ(集団農場)・ソフホーズ(国営農場)制度の終焉へと至るものだった。
コルホーズ・ソフホーズ制度とは、社会主義諸国で広く行われてきた農業生産のためのシステム(以下、「社会主義生産システム」)であり、土地や生産手段の集団的所有を第一の特徴としている。しかしそれは単なる経済制度ではなく、広大なソ連農村部に暮らす人びとの日常生活を大きく規定してきた。どこに家を建て、どのような職種につき、月給をいくらもらい、どのぐらい家畜や農地を持ち、どこで子どもを学校に通わせ、どこの病院へ行き、買物をどこでするのか──こうした生活の細部全てに関与する制度だったのである。
普通のソ連農村住民は、結婚すると村役場から屋敷地を配分してもらい、コルホーズやソフホーズに就職し、決められた頭数の家畜を所有して、コルホーズ・ソフホーズが村に建てた学校へ通い公衆浴場を利用し、病院では無料の診療を受け、公営商店で生活必需品を購入してきた[cf. Urmanov 1987:109-110]。コルホーズ・ソフホーズは、単に農業の生産方式を決定していただけなのではない。農村の空間プランから水道・電力・道路網の整備、住宅・学校・公衆浴場といった公共施設の建設まで、ソ連農村における日常生活全体の青写真を作ってきたのである[e.g. 山村 一九九七:一五九─一六〇]。
本書が対象とするカラタル村も、上述のようなソ連農村の一つである。ソ連時代の村人たちは、コルホーズ・ソフホーズで管理職・耕作職や家畜飼育職について月給をもらい、銀行口座に貯金してきた。食品や衣服や家具は公営商店で買い、給水栓から水を汲み電熱器やプロパンガスで料理して、白黒テレビでモスクワから放送されるニュースや映画を見てきた。子どもは全員学校へ通わせ、公衆浴場で汗を流し、病気になれば村や町や首都の病院で診てもらってきたのである。上下水道・ガス供給や電話といった設備では都市に劣るものの、生活・教育・医療・福祉に関してはそこそこのサービスを享受してきた。アジア・アフリカ等の発展途上諸国と比較するならば、生活水準は相当高いレベルに達していたといえよう[cf. Din 1987:92, Sharma 1987:132]。こうしたサービス網を作り上げ生活水準の底上げを実現してきたのが、ソ連体制とその社会主義生産システムだった。
ところが一九九〇年代のクルグズスタンにおける市場経済化は、農村部ではコルホーズ・ソフホーズの民営化を促してきた。それはすなわち、上述のようなソ連農村の生活基盤を整備してきた、社会主義生産システムとの訣別を意味している。
一九九四年六月当時、カラタル村の村人は、すでに現金での月給をもらってはおらず、銀行預金は前年五月に実施された通貨改革のため凍結され、停電が頻繁に起きるようになり、村のなかにあった公営商店は民営化、病院での診療は有料化され、すさまじいインフレーションを経験していた。更に翌九五年五月にはカラタル村が所属していたソフホーズが解散し、村人たちは独立自営農への道を踏み出した。彼らは自身の肌でもって市場経済化の洗礼を受けることになったのである。本書が基礎とする私のカラタル村でのフィールドワーク期間は、村人の生活を激変させた、社会主義体制から資本主義体制への移行の年月と重なっている。
しかしながらカラタル村の村人たちが経験してきた体制移行は、これが初めてというわけではない。カラタル村の位置するクルグズスタン北部は、二〇世紀にソ連体制下に入るまで、主にテュルク系遊牧民の暮らす地であった。現在の村人や上位世代にあたる人びともその一員であり、二〇世紀初頭には、遊牧を営む「自然経済」 [Abramzon 1990(1971):121] 下にあった。だが一九一七年のロシア革命後、新興社会主義国ソ連ではコルホーズ・ソフホーズでの集団的な農業生産を目的とする「集団化」が、徐々に行われてきた。二〇年代末~三〇年代になると、当時の共産党書記長スターリンの主導により、ソ連全域で集団化が断行された(全面的集団化)。中央アジアのなかでも古くからオアシス農村の集中する定住地帯では、綿花栽培中心のコルホーズ・ソフホーズが多数創設された[cf. 石田 一九九四:一三四]。遊牧地帯では遊牧民の定住が進行し、畜産中心のコルホーズ・ソフホーズで定職につくようになったのである。
このように、二〇世紀前半のソ連成立と社会主義体制への移行は、人びとの生活を一変させた。ソ連時代の中央アジアでは、モスクワ中央政府の方針で産業の近代化・工業化が図られ、都市や農村の生活基盤が整備されてきた[cf. Gidadhubli 1987, Mehta 1987]。一九五〇年代になるとかつての遊牧地帯では、現在見られるタイプの農村が次々と建設された。カラタル村も、五〇年代に創設されたのである[cf. 吉田 二〇〇三a]。
だが多くの研究者が述べるように、中央アジアの遊牧地帯のなかでも集団化・定住化が極度の飢餓をもたらし、多数の死者を出した例があることは事実である[Schoeberlein 2000:58-59, 小松 一九九九:二一五、奥田 一九八二:二六七─二六九、宇山 二〇〇〇:三〇]。近年では綿花栽培に特化した地域で、農薬による水資源の汚染や農地での塩害といった環境破壊が進んでいることが、大きな関心を呼んできた[e.g. 高野 一九九四]。中央アジアにおけるソ連体制化=社会主義生産システムの確立には、負の側面が確かに存在している。
上述した例の他にもソ連領中央アジア研究においては、特に言語や宗教に関するモスクワ中央の諸政策について、負の側面が強調されている。ソ連時代には現地の諸言語の採用する文字がキリル文字化され、学校教育や行政では、現地諸語ではなくロシア語が重視されてきた[cf. Schoeberlein ibid:50, Shahrani 1994:64]。また科学的無神論をイデオロギーの中心に掲げて世俗化の徹底を目指すソヴィエト政権は[小松 一九九四:六四]、イスラーム信仰やその価値観を破壊するべく激しい攻撃を加えたという[Shahrani ibid:63]。とはいえソ連政府の対イスラーム政策は、その時々の対外情勢をも反映して、時に緩やかに時に厳格にと変化を見せていた[小松 ibid:六四─六六]。
以上のことから西欧人ソヴィエト学者が批判するように、中央アジアのソ連体制化が、現地の人びとに対して抑圧的な側面を持っていたことは否定できない。だが前にも指摘したように、都市や農村の教育を含めた生活水準の引き上げは、ソ連体制によって実現された[cf. Mehta 1987:225]。カラタル村の多くの村人にとってソ連時代とは、文字や新聞や映画、トラクターやコンバインや電力、オペラやバレエ、そして知識や科学をもたらしてくれた、圧倒的に「良い時代」だったのである。現在の村人の目線から見るならば、二〇世紀における最初の体制移行=社会主義化は明らかに肯定的に受けとめられてきた。それはポスト・ソヴィエト農村に暮らす村人の、日々の生活実感から生まれた率直な感情である。
カラタル村の村人にとってソ連体制=社会主義生産システムは、一九三〇年代の最初のコルホーズ創設から一九九五年の最後のソフホーズ解散に至るまで、約六五年の長きにわたり彼らの生活に深く根を下ろしていったといえる。だからこそ九〇年代に起きた二度目の体制移行に際して、圧倒的多数の村人たち、そして他の多くの人びとは、「これからどうしたらいいのかわからない」と、深刻な方向感覚の喪失に見舞われることになったのである。現地の社会に生きる人びとにとって、ソ連体制成立・社会主義生産システムの確立がどのような意味を持っていたのか、また資本主義体制への移行がどのような変化を引き起こしているのかを理解するためには、何よりもまず彼らの言葉に耳を傾けることが大切である。
クルグズスタンは一九九一年八月三一日に独立したが、その急進的な市場経済化のため、翌九二年には年率一二五七%[Izvorski and Grgen 1999:10]という激烈なインフレーションを経験した。九三年には七六六・九%、九四年は九五・七%、そして九五─九六年は三二~三四%前後、九七─九八年には一四~一八%前後と、その後のインフレの度合いは落ち着きつつあるといえる[ibid]。だがすさまじい勢いで上昇してゆく物価は、ソ連時代の安価な商品供給に慣れた人びとの家計を直撃した。国全体が経済苦境にあるクルグズスタンでは、家庭のなかで、隣家で、道端で、時には乗合バスのなかで、現金をめぐるトラブルが日常の風景となりつつあった。
また農村では、コルホーズ・ソフホーズの民営化政策が住民の月給収入を途絶えさせ、現金収入獲得の手段を狭めていった。すでに述べたように私がカラタル村でフィールドワークを行ってきた期間は、村人たちが資本主義化を経験する年月と重なっている。カラタル村でも確実に現金を火種にした確執が増え、借金や物の貸し借りが原因の口喧嘩や罵り合いを、私は多数目撃することになった。
しかしその一方で私は村でもてなしの座に着くたびに、無数の乾杯スピーチや神への祈りを数多く聞いてきた。「みんな健康でありますように」「平穏無事な生活が送れますように」「みな幸福でありますように」と、日常のお茶や食事のあとで、また慶弔事の饗応のあとで、村人たちは日々の平安と幸福を互いに祈り合っていた。日常の経済的困窮に苦しみながらも慶弔事で神への祈りを唱え合う村人の姿は、体制移行を現実にどのように生きてゆくのか、その具体的なあり方に私の目を向けさせる大きな契機となっている。また村人たちが神に祈りを捧げる姿は、イスラームのからむ紛争が注目を集める現代において、北部クルグズ人の日常のイスラーム信仰にも目を向けさせるきっかけとなった。社会主義体制から資本主義体制への移行という二〇世紀で二度目の歴史的大変動は、村人の生活を激変させてきた。それと同時に、この時代状況すなわちポスト・ソヴィエト時代は、私のフィールドワークの出発点ともなっていったのである。
ところで現在のクルグズスタンにおいて体制移行がもたらしているのは、単なる政治経済体制の変化だけではない。農村においてはコルホーズ・ソフホーズの雇用労働者から、農業企業や協同組合のメンバー、更には独立自営農家などへの転換を促進してきた[cf. Giovarelli 2001:93]。このことは、単なる職業の変化のみならず生活様式の変化、更には親族や隣人との関係、彼らのあいだで行われる相互扶助慣行、また現金や商業に関する価値観といった分野に至るまでの、社会的文化的大変動をも引き起こしつつある[cf. 吉田 二〇〇〇e]。
最初に挙げたように本書の最大の目標は、一九九〇年代の経済移行がカラタル村の村人の社会にどのような変化をもたらしているのかを、具体的に明らかにすることである。そのためには、まずは村人たちにとっての市場経済化すなわち彼らのソフホーズが解散した際に、どのような関係をよりどころとして対処していったのかを考察の出発点としたい。だがこれまで述べてきたように、村人の生活においてソ連体制=社会主義生産システムはソ連時代を通じて内在化されていた。従って考察の対象には、最初の体制移行すなわち社会主義化の歴史が含まれている。そのため本書では、議論の対象となる時代や地域、人びとの範囲が、いく度か切り換わる構成を取っている。
まず時代に関していえば、一九二〇年代末~三〇年代に始まった集団化・定住化、五〇年代のカラタル村創設および村落集住化、そして九〇年代のソフホーズ解散=独立自営農化の、三つの歴史的出来事を指標に区分してゆく。舞台は現在のカラタル村と、五〇年代以前に現カラタル村住民が暮らしていた地域である。そして主人公は、私がフィールドワークを行ってきたカラタル村の村人、またそのなかでも最も身近で生活を共にしてきたソーロンバイ夫婦(第六・八章で詳述)、ならびに彼ら夫婦の父系の親族で「サヤック」と呼ばれる人びとである。それでは最後に、私のフィールドワークの方法について、そして記述上の注意について触れておきたい。
本書の内容は全て、社会人類学的現地調査によって私が収集した資料に基づいている。その調査は、一九九四年六月~八月、九五年六月~九七年九月、九九年八月~九月、二〇〇一年一月、そして二〇〇二年八月の、五度の訪問による合計約三一カ月間の滞在期間中に実施した。カラタル村では一家族のもとでホームステイし、長期滞在の際には一~数カ月に一度の割合で同村と首都ビシケク市を往復していた。主な調査方法は日常の参与観察であり、世間話や農作業・慶弔事への参加、統計資料の収集などを含んでいる。その他に特定のトピックに関して、約六〇名余の村人に集中的なインタビューを行った。
それでは本書における記述上の注意に関して述べる。まず「クルグズスタン」(正式国称は「クルグズ共和国」)、「クルグズ人」という呼称についてである。日本のメディアは通常「キルギス」「キルギスタン」と呼んでいるが、本書では現地の発音や慣例に従い、国名を「クルグズスタン」、民族名を「クルグズ」と表記する(「クルグズスタン」も憲法で用いられている公式国称)。本書での「中央アジア」は、ウズベキスタン、カザクスタン、クルグズスタン、タジキスタン、テュルクメニスタンの五カ国から成る、「旧ソ連領中央アジア」を指している[cf.間野 一九九九:一一]。また日本では通常「カザフスタン」・「カザフ」、「トルクメニスタン」・「トルクメン」と呼ばれているが、現地での発音に従い国名を「カザクスタン」「テュルクメニスタン」、民族名を「カザック」「テュルクメン」と表記する。なお、外国語文献からの引用文での国名や民族名は、本文をそのまま翻訳して「キルギジア」(クルグズスタン)、「キルギズ」または「キルギス」(クルグズ)、「カザフ」(カザック)と表記している。
次に地名についてだが、村落名およびコルホーズ・ソフホーズ名は全て仮称である。ところで本書の対象であるコルホーズ・ソフホーズ・村落は、一九九九年の拙稿で記述したものと全て同一である[吉田 一九九九]。しかし本書ではより詳細な民族誌的資料を用いることを考慮して、場所の特定にかかわる名称は全て仮称に変更した(このことに関しては、二〇〇〇年の拙稿註2で詳述しているので参照されたい[吉田 二〇〇〇d:一八二])。本書中で頻出する地図(図1~3)ならびに系譜(図4)は、目次のあとにまとめておいた。
また本書では多数のクルグズ語や現地の民俗概念を翻訳して用いているが、本文中では初出箇所を「 」で、続く( )内でその意味を示す。そのとき( : )ではクルグズ語とその訳語を、( ; )ではクルグズ語とその直訳の語義や説明を示す。「 」中および引用文中の〈 〉は、筆者の補足や注を示している。民俗語彙や歴史的出来事に関しては巻末に用語解説を付しているので、本文に入る前に参照されたい。
文中のクルグズ語は斜字体で表記し、ラテン文字転写はAllworthに従った[Allworth 1971:338]。クルグズ語の動詞形は、末尾にハイフン(-)をつけて表記した。文中でいくつか用いたカザック語も、ラテン文字転写はAllworthに従った[ibid:332]。またロシア語のラテン文字転写は、『ロシア・ソ連を知る事典』[川端ほか監修 一九九七]に従った。村人たちのあいだで日常的に使用されるロシア語語彙は、把握できる限り下線付きの斜字体で表記した。なお、文献から引用したロシア語は主格で示した。
最後に本書を構成する各章について触れる。まず第一に本書は、二〇〇一年度に東京都立大学大学院に提出し博士(社会人類学)を授与された、学位論文を基に書き上げられた[吉田 二〇〇二a]。その基礎となっているのは、主に一九九九~二〇〇一年にかけて公表された、雑誌論文や学会・研究会での口頭発表である。個々の論文や発表の内容はそれぞれ完結しているが、全て本書の重要な一部を成しており、論旨を一貫させるために大幅な加筆・修正を行った。またいくつかの点では本書中で訂正を行っているが、そのつど訂正箇所について言及した。各章の初出については初出一覧にまとめておいた。
一九九一年に中央アジア諸国が独立して以来、これらの国々を対象とした研究や出版物は、ソ連時代とは比較にならないほど増加した。中央アジアに関する学術雑誌がいくつも創刊され、インターネットでは情報提供サイトが数多く存在している。ソ連時代とは大きく異なり現地へのアクセスが容易になった現在では、フィールドワークを用いた研究も可能となっている。
だが、中央アジアを対象とした社会文化人類学(以下、「人類学」)的な研究は端緒についたばかりであり、ローカルな社会に関する研究はいまだ数少ない。ポスト・ソヴィエト時代にあって、ソ連時代のローカルな歴史をも視野に収めた研究は更に少数である。本書は体制移行という激動の時代を生きる人びとの普通の生活を、至近距離からつぶさに参与観察して得た成果に基づいている。本書が現代中央アジア社会を理解する上での一助となり、今後の中央アジア研究の発展に資することができれば望外の喜びである。
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著者紹介
吉田世津子(よしだ せつこ)
1964年 広島県生まれ。
1988年 南山大学文学部人類学科卒業。
1999年 東京都立大学大学院社会科学研究科(博士課程)単位取得満期退学。
現在 四国学院大学社会学部専任講師。博士(社会人類学)。
専攻 社会文化人類学(中央アジア)。
主な著書に『中央アジアを知るための60章』(共著、2003年、明石書店)、主な論文に「経済移行期の親族ネットワーク分析 ―― 北クルグズスタン・一ソフホーズの解散課程から」(『民族学研究』64(2)、1999年)、メA Field Report on Economic Transition: Lifestyle Changes in a Village of Northern Kyrgyzstan,モ (Central Asia Monitor No.4, 1999)など。