目次
第一章 調査地の概況
一 集落と宗族の歴史
二 集落の形態と変化
三 生業形態
四 まとめ
第二章 宗族と政治と経済
一 問題の所在
二 解放前の宗族と政治と経済
三 土地改革期の貧農協会と宗族
四 集団化期の村幹部と宗族
五 人民公社解体後の村幹部と宗族
六 まとめ
第三章 家族の変化過程
一 先行研究と問題意識
二 解放前の家族形態
三 土地改革期の家族
四 集団化期の家族
五 人民公社解体後の家族
六 まとめ
第四章 婚姻形態
一 伝統的婚姻習俗と儀礼
二 解放後の婚姻変化
三 「親戚」関係
四 まとめ
第五章 招婿婚
一 先行研究と問題点
二 李姓、張姓及び少数の雑姓
三 「過継子」より好まれる「上門女婿」
四 「上門女婿」の改姓と招婿婚
五 「上門女婿」の復姓と帰宗
六 岳父と婿の父系理念
七 まとめ
第六章 イトコ婚
一 イトコ婚の諸相
二 父方交叉イトコ婚をめぐる諸議論
三 父系血縁原理の視点
四 まとめ
第七章 宗族内婚
一 はじめに
二 宗族内婚の事例
三 過去の恋愛物語
四 まとめ
第八章 生の儀礼と計画出産
一 生の儀礼
二 計画出産政策の実施過程
三 政府の圧力と村人の受け入れ
四 村人の考え方
五 性別の問題
六 計画通り実施できない計画出産政策
七 まとめ
第九章 死の儀礼と火葬
一 伝統的葬式儀礼
二 人民公社期の葬儀
三 人民公社解体後の火葬
四 まとめ
終章 村人の生活──明日への展望
あとがき
参考文献
付録 李姓の「族規」
索引
内容説明
出身地での長期調査により、解放・文革・改革開放という政治的文脈の中で農村社会がどのように変容してきたかを克明に記述した民族誌。華南偏重の欠を埋める「中原モデル」であり、今後の農村の変化予測にも貴重な基礎資料である。
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序
本書は、中国湖北省のある農村地域を対象に長期的に行なったフィールド調査から得た資料に基づいて、主に当該社会の伝統的な親族制度、即ち家族や宗族、婚姻関係及び人々の死生観の実態、解放後社会主義近代化の過程で起きた諸変化を具体的に記述、考察する民族誌である。また、この事例研究から従来の漢人社会の研究に新しい民族誌の資料と視点を加えることを意図するものである。
漢人社会において、伝統的な家族、宗族、婚姻制度及び人々の死生観は、相互に深く関連し影響し合っている。儒教はこのような伝統文化を体系的に作りあげ、歴史的に維持、強化してきた。また、伝統的な農村社会では家父長と郷紳が、儒教の道徳規範に従って家族や宗族及び婚姻制度を通して村人の日常生活と通過儀礼を管理し、社会秩序を維持してきたと言える。
ところが、二〇世紀の初頭になると、知識人や国民党及び共産党は、これらの伝統的な道徳規範や親族制度、人々の死生観などを国家の近代化の障碍と見なすようになった。そして、近代化を推進するために、これらの伝統文化を全て否定し、破壊すべきであると強く主張したのである。例えば、一九一九年に起きた五四運動に見られるように、魯迅を初めとする多くの知識人は激しい儒教批判に加わった。国民党を率いる孫文は一九二四年に「三民主義」と題する講演の中で、中国人がバラバラの砂だと言われる原因は、中国人は家族主義と宗族主義を最も崇拝しており、民族主義と国家主義が欠落しているからだと指摘した上で、家族、宗族主義を民族、国家主義へ変革する必要性を強調した[孫 一九八六:一八五]。また、共産党を率いる毛沢東は一九二七年に発表した「湖南農民運動考察報告」の中で、政権、族権、神権及び父権・夫権という四種類の権力は、封建的宗族支配体系の思想と制度を代表しており、中国人、特に農民を呪縛している太い四本の綱であると指摘し、その全てを破壊するための革命を呼びかけた[毛 一九九一:三一]。
孫文は革命の成功を目にすることなく世を去り、それを引きついだ国民党政府も長期の内戦と抗日戦争などの事情により、伝統的な家族と宗族及び婚姻制度を変革し、儒教を否定する政策は実施しなかった。これに対して、毛沢東の率いる共産党は、国民党政権を打倒し、一九四九年に政権を握ると、そのような政策を強制的に実施した。例えば、共産党政府は一九五〇年に「婚姻法」の公布と土地改革の実施により、伝統的な婚姻形態を改革し、宗族組織を破壊しようとした。また、新しく互助組と合作社を経て人民公社を組織することにより、家族ごとの土地私有を否定した。人民公社期に起きた文化大革命では広範囲にわたる儒教否定キャンペーンが徹底的に行なわれ、人民公社後には計画出産や火葬政策などが次々打ち出された。即ち、共産党政府は、伝統的な家族、宗族及び婚姻制度とそれらを支える経済基盤やイデオロギーなどを改革し、農民の忠誠心の対象を伝統的な家族、宗族から毛沢東・共産党政府へ転換させることにより、社会主義国家を建設しようとしたのである。
では、このような社会主義的な近代化政策の過程において、広大な農村地域では、伝統的な親族制度及び村人の死生観はどのような影響を受け、いかに変化してきているのか、これは社会・文化人類学者にとって、極めて重要な意味をもつ問題であり、現在まで既に多くの研究や活発な議論が行われてきた。
しかし、広大な中国大陸では地域差があり、未調査地域も多いなどの事情により、漢人社会の伝統文化及びその変容などに関する資料の収集や理論的な展開はまだ十分ではなく、未解決の問題も多く残っている。
筆者は中国湖北省出身で一九八二年から日本に留学し、文化人類学を専攻してきた。日本文化に接し、また、文化人類学の研究史、特に中国農村に関する先行研究を学んでいくうちに、自文化を見直し、さらに深く理解したいという意識が生まれるようになった。そこで、従来文化人類学的なフィールド調査が行なわれなかった湖北省の農村を研究対象として選定したのである。
フィールド調査は一九八九年二月から一二月まで、一九九一年七月から一〇月まで、一九九三年六月から九月まで、一九九八年四月、二〇〇二年三月下旬から四月上旬まで、そして二〇〇四年八月と断続的に行なわれた。延べ約二一カ月間にわたって、筆者は当該地域に滞在し、村人と一緒に暮らしながら、この五〇年余りの村人の暮らしに起きた変化を政治、経済、家族、宗族、婚姻及び人生儀礼などの諸側面から調べてきた。
このように長期に及ぶ追跡調査を重ねるにつれ、筆者は漢人社会の家族や宗族及び婚姻制度などに関して、従来の研究成果を確認しつつ、その一部を補足し、修正しうることができるような豊富な資料を収集し、いくつかの新しい視点を提出することが可能になった。本書はこのような補足、修正作業による研究報告である。
本書で筆者は、漢人社会においては父系の出自と血縁原理が極めて重要であり、それは家族、宗族及び婚姻制度などを特徴付けるものであるが、同時に個人の選択行為も重要であると強調している。日常生活の中で父系出自と血縁の原理は、個々人の行為、家族、宗族及び婚姻関係などを自律的に規定し組織していくものではなく、特定の状況の中で限定的に作用するものである。親族制度や組織及びそれらの変化を歴史的に考察する際に、個人の視点は不可欠である。従って、本書は、伝統的な親族制度とそれにまつわる生死の儀礼及びそれらの変化形態を分析するに当って、従来の社会組織に関する機能と構造理論だけではなく、個人の行動原理からも考察していく。
また、解放後、人民公社までの時期よりも、むしろ人民公社解体後の文化変容の大きさを指摘している。従来の研究において解放後、伝統的な家族、宗族や、婚姻制度及び人々の死生観に起きた変化を論じる際に、伝統文化は土地改革と合作社と人民公社の時期にはかなり破壊されたが、人民公社解体以後は徐々に復活しつつあるという見方が多い。しかし、筆者は、土地改革から人民公社期までに見られた合同家族の存続、家長の強い権限、「上門女婿(入り婿)」の復姓と帰宗現象や、人民公社解体後に起きた合同家族と直系家族の解体、老人扶養の深刻さ及び宗族内婚の出現などを取りあげ、そのような見方は不十分であり、再考する必要があると考えている。
以上のような問題意識をもって、以下順を追って、各章で資料の提出と分析を行っていく。
第一章は、調査地の概況である。即ち、集落の形態と生業経済、家族、宗族の歴史的な変遷について、記述し、考察する。
第二章は、伝統的な宗族形態と政治及び経済の変化過程について歴史的に記述し、考察する。従来の宗族研究は、それぞれの見解の相違があるものの、フリードマンの提出した宗族(lineage)の機能モデルをベースにしたものである。フリードマンは村落レベルの宗族内部が社会的、経済的、政治的に非対称的に分化されている構造を明らかにし、とりわけ土地を主とする共有財産があるか否かが一番重要な条件であると指摘した[Freedman 1958; 1966]。これに対し陳は、父に対して個々の息子及び彼らの家族が互いに平等、対称関係にあるように、純粋な系譜観念上、分節としての房は何ら非対称なものではない。これは漢民族の親族関係の特色の本質であると指摘した[陳 一九八五:一六八]。
しかし、宗族及び分節の実態は宗族の機能や父系原理だけでは説明できない。宗族の分裂と再統合の契機やメカニズムは必ずしも父系的親族原理及び宗族意識と矛盾はしないものの、個人の野心や指導力などの個人的要因も重要な役割を果たしている事例がしばしば見られる。このような個人の行為という視点は、従来の宗族研究では比較的等閑視されてきたが、伝統的な宗族の全体像を把握するに当たり、また解放後の政治権力と宗族の相互関係を明らかにする上でも、重要であると考えられる。本章は、このようなフリードマンと陳の宗族理論モデルに見落とされていた個人の行為の重要性に着目し、解放前の宗族の実態と、解放後の宗族と政治的権力及び経済的利害の相互作用過程について分析する。
第三章は、家族の基本構造とその変化形態及びメカニズムをいくつかの側面から歴史的に記述する。調査地域でも合同家族が理想とされてきたが、その割合は比較的少なかった。合同家族の成立条件や存続条件は必ずしもフリードマンらの主張した経済的な要因だけではなく、むしろ伝統的な宗族組織と儒教の倫理道徳、家長の統率力などとも深く関連していたと考えられる。
解放前は父親の権力と権威は家長として絶対的であり、他の成員はその支配に従っていたとされている。しかし、そのような時期は限られたものであった。家族の発展周期から動態的に見ると、母親は子供、特に息子を大人まで育てる過程に伴って、家族の一員としての管理権と発言権を次第に手に入れるようになり、また、息子にも結婚後同様の地位変化が見られる。また父親が健康上に問題があり、労働能力を失い、或いは老年期に入り、一人で家族問題を解決できなくなる時には、合同家族は「分家」してしまうことを指摘できよう。
また、解放後、土地私有制度の廃止により、父権が弱まり、子女及び女性の地位が向上し、合同家族及び直系から核家族へ変化したことも確かである。この傾向について、多くの研究者は、常に同じパターンに基づき、一定の方向性をもって変化していると論じてきた。しかし、解放後の家族の変化を語る場合、土地改革、合作社、人民公社及び改革開放の各時期における家族の実態を区別しながら把握する必要があると筆者は考える。従って、第三章では、解放前、土地改革期、農業集団化期、人民公社解体後の経済改革期に焦点を当て、家族構造及びその変化過程を具体的に再検討する。特に、人民公社期までに家長の強い権限、経済単位としての家族の機能、合同家族の実例が貧農の間に認められ、人民公社解体後に初めて大きな変化がもたらされた、という点を指摘する。
第四章は、主に婚姻儀礼、習俗及び「親戚」関係という諸側面から正統的な婚姻形態と「親戚」関係及びその変化を具体的に記述、考察する。解放前の婚姻儀礼の過程は基本的に歴史上漢人社会全体で見られた「六礼」の内容と同じで、そこには社会的承認、経済的贈与、宗教的要素と象徴的意味などが含まれる。また、結婚相手を決める基準は「門当戸対(家格が釣り合っている)」が第一で、「郎才女貌(男性は才能、女性は容貌)」がその次であったが、早婚の傾向があり、妾と「童養」などの習俗が存在し、当事者の両親は結婚相手だけではなく、一連の婚姻儀礼の手続きに関わったのである。
解放後、このような伝統的な婚姻習俗に見られた「童養」と妾の習慣がなくなり、早婚から晩婚へ、親の取り決めから自由恋愛へ、「門当戸対」よりもむしろ「郎才女貌」が恋愛、結婚相手を選択する第一条件になった。また、「戸口制度」が都市民と農民の通婚障碍となり、伝統的な通婚関係に大きな影響を与えている。但し、伝統的な婚姻儀礼のプロセスは基本的に大きく変わらず、「門当戸対」の観念は依然として機能し、そこには政治的要素も付け加えられるようになった。
また、「親戚」は基本的に個人を中心とする姻戚関係であり、村人にとって家族に次ぐ重要な経済的、社会的、政治的な資源と安全装置である。その範囲と深度は同時に社会的、経済的、政治的、個人的な諸要因によって異なり、柔軟に伸縮されていることを指摘できる。
第五章では、非正統的な招婿婚の実態、特に「上門女婿」と呼ばれる入り婿の改姓と復姓及び帰宗の現象を考察する。調査地域では、普通「上門女婿」は貧しい家の息子であり、結婚と生計などの目的を達成するために、岳父の彼に対する改姓及び出身家族との関係切断などの要求を甘んじて受け入れる。他方、岳父はそのような厳しい条件を受け入れた婿に対して、将来自分の老後の生活保障と死後の葬儀祭祀及び娘を通じた子孫の再生産などの諸問題を解決してくれることを期待し、契約を結んだ上で、彼を息子と同じように迎え入れる。しかし、こうした岳父と婿の思惑は相反する二つの父系理念の矛盾を含んでいる。従って、社会状況が変化し、岳父と婿の力関係が婿にとって有利に変わると、婿はしばしば復姓や帰宗の行動をとる。解放後、復姓と帰宗の行動を取った婿もいれば、契約を守り、復姓と帰宗を行なっていない者もいる。このような異なる行動様式から、宗族の規範と個人の選択を詳しく検討し、従来の宗族研究に新しい視点を与える。
第六章では、イトコ婚に関する先行研究を再検討しながら、新たな理論的展開を試みる。父方平行イトコ婚は近親相姦と見なされ、その実行は不可能である。父方交叉イトコ婚は可能ではあるが、普通忌避される。他方、母方イトコ婚はいずれも自由である。しかし、母方交叉イトコ婚は好まれるのに、母方平行イトコ婚は「他人」同士の結婚と見なされている。このようなイトコ婚に見られる相違を形成する要因について、レヴィ=ストロースの一般交換理論は不十分であり、むしろ宗族制度と関わる父系血縁関係原理の視点によって、よりよく説明できると筆者は考えている。
第七章では、最近起きた宗族内婚の状況及びそれまでの発展過程を具体的に記述し、分析している。村人の間には「五服」の範囲を超えた男女の結婚は許してもよいという考えがあるにも拘わらず、一九九〇年代の前半までは「五服」の範囲を超えていても、宗族内婚は許されなかった。ところが、一九九〇年代末、その伝統的なタブーを破った結婚が遂に現れてきた。その要因について、宗族機能及び族内のリーダー達の重要性、村人の宗族内婚に対する意識変化及び行動様式などの視点から分析する。
第八章は、生の儀礼とそれに関わる計画出産政策の実態について述べる。人生儀礼は基本的に変わっていないが、計画出産政策は村人の生活に大きな影響を与えている。但し、計画出産政策に対する村人の考えと受け入れ方にはバリエーションがあり、その多様さに注目する必要がある。また、多産主義は人々の間に存在しているが、若者及びエリート層では次第に消失しつつあると指摘できる。産児制限は農民の意識の中に矛盾を引き起こしながらも徐々に受け入れられるようになったが、それでも人口動態は政府の思惑通りには減少しないのである。
第九章は、死の儀礼とそれに関わる火葬政策の実施について述べる。解放後、伝統的な葬式儀礼の過程は人民公社解体直後までは基本的に変わっていない。しかし、一九八三年頃から政府の厳しい指導により土葬に代わって火葬が強制的に実施されるようになった。この政策は、伝統的な葬式儀礼の過程だけではなく、村人の伝統的な死生観にも大きな影響を与えた。葬式儀礼における簡素化や火葬の強制化による手順の一部変更が見られる。また、計画出産政策と同様、村人は最初はその改革に強く反対し、出来る限り抵抗していたが、政府の強い圧力により徐々に受け入れるようになり、村人の受け止め方にも経済的、社会的、政治的及び年齢的な違いなどよりバリエーションがあり、その多様性に注目する必要がある。
終章は、主に村人が解放前と解放後から経験してきた日常生活およびその変貌を考察し、近い将来に起こる発展または変化の方向を探る。
なお、フィールドから得た資料を記述する際に、プライバシーを保護するため、調査地域の県及びそれ以下の地名と人名の大部分を仮名としている。
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著者紹介
秦 兆 雄(Qin, Zhaoxiong しん ちょうゆう)
1962年、中国湖北省に生まれる
1982年3月中国政府第三期派遣留学生として来日
金沢大学文学部卒、東京大学大学院博士課程修了(学術博士)
現在、神戸市外国語大学助教授 専攻:文化人類学
主要論文: Rethinking Cousin Marriage in Rural China (Ethnology, University of Pittsburgh. Vol.40. No.4. 2001), Changes in Chinese Lineage and Politics: A Case Study in Rural Hubeiモ (Japanese Review of Cultural Anthropology. Vol.3. 2002), 「宗族の規範と個人の選択:中国湖北省農村の招贅婚の事例から」(『民族学研究』68巻4号、2004年)