アジア市場(マーケット)の文化と社会
流通・交換をめぐる学際的まなざし
グローバル市場経済の原理主義を疑い、東南アジア・西アフリカ等の事例から固有の社会的脈絡で機能する様々な「市場」の原理を考究。
著者 | 宮沢 千尋 編 |
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ジャンル | 社会・経済・環境・政治 |
出版年月日 | 2005/11/25 |
ISBN | 9784894890404 |
判型・ページ数 | A5・264ページ |
定価 | 本体4,000円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
序論──アジア市場の社会と文化の理解にむけて 宮沢千尋
イランのバザールに見る国家・社会関係と政治文化 中西久枝
はじめに
一 イスラーム世界における市民社会とNGO
二 ウラマーとバザール
三 バザールとウラマーの接点
四 イラン外交にみるバザール商人的論理とその展開
おわりに
不況下のマレー人企業と華人企業 原 不二夫
はじめに
一 代表的大企業・企業集団
二 マレー系企業
三 華人系企業
四 むすび
「市場経済の過剰化」に対するタイ上座仏教徒農民の反応に関する一考察──東北タイの一事例の検討 森部 一
はじめに
一 「市場経済の過剰化」をめぐる原の議論
二 開発僧に関する既存の研究の回顧と検討
三 東北タイの村Ban Nong Tunを中心とする事例の整理
四 上座仏教における「富と繁栄と幸福」の一般理論と現実
むすび
バリ島ウブドの日本人店舗(1)──グローカルな観光地の一断面 吉田竹也
一 はじめに
二 観光地ウブドの概観
三 日本人の店舗とビジネス
四 ビジネスとウブドでの生
五 グローカルな観光地
六 おわりに
市場経済の衝撃と中国文学の変容 中 裕史
一 出版と作家をめぐるさまざまな現象
二 文学における流行
三 純文学の変容
四 結び
大興安嶺のトナカイ・エウェンキの交易(ボグショル)について クネヒト・ペトロ
一 中国東北部「三河地方」のエウェンキとロシア人の開拓農民とコサック
二 「三河地方」のエウェンキとロシア人の交易──社会的背景
三 「アンダク」という契約者
四 「ボグショル」という市
五 「ボグショル」という人間と物の交差点
六 「市場」──人間と物が活動する舞台
べトナム北部・紅河デルタ村落における文化と経済発展の関係 宮沢千尋
はじめに
一 紅河デルタの特徴
二 バクニン省の特徴
三 ヴィエムサーにおける生存維持の論理
四 合作社の補完機構としての保寿会(老人会)
五 ベトナムにおける「文化」概念
六 結論
西アフリカ内陸における宝貝の流通と交換 坂井信三
はじめに
一 宝貝通貨の流通圏
二 流通の実態
三 宝貝流通の複層的構造
四 考察
むすび
あとがき
索引
内容説明
均質化するグローバル市場経済の原理主義を疑い、東南アジア・イラン・モンゴル・西アフリカ等、多彩な地域事例をもとに、固有の文化・社会的脈絡で機能する様々な「市場」の原理を考究。〔南山大学人類学研究所叢書の7〕
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序論 宮沢千尋
本書は南山大学人類学研究所第七期長期研究プロジェクトの成果である。人類学研究所は、南山大学を運営するドイツの神言会神父であり、同時に高名な人類学者であったW・シュミット博士によって、日本における人類学研究の拠点として第二次大戦以前に構想されたが、大戦のため不可能になり、戦後を待って一九四九年に設立され、半世紀にわたってアジアの宗教に関する研究を中心に活動を行ってきた。長期プロジェクトは、その一環として三年周期で組織され、その成果は『南山大学人類学研究叢書』(?─?)として刊行されてきた。
第七期プロジェクトの成果として刊行される本書は、アジア経済の固有理論をテーマにしており、従来のテーマとはいささか趣を異にすると考える方もおありだろう。しかし、経済は宗教・文化と関係なく存在する領域ではないことが、本書をみていただければ瞭然となろう。
二〇世紀は、高度に発展した資本主義がグローバルな規模で、世界中に浸透した時代といえるであろう。特に資本主義体制と対立し、資本主義を乗り越えるものとして一つの大きな陣営を形成し、冷戦構造の一翼を担った社会主義陣営が一九八〇年代後半からあいついで崩壊し、または中国、ベトナムなどが社会主義体制を維持しながらも資本主義的市場論理の導入を余儀なくされたことにより、グローバリズムはいよいよ明白になり、資本主義の勝利は明らかになったとも見えた。
個人的な経験で恐縮だが、一九八八年初めてベトナムの地を訪れ、その後留学、修士・博士論文のためのフィールド調査を経て、ベトナムと関り続けてきた筆者にとっても、経済発展に伴う変化には目を瞠るものがあった。私が調査をした村落は、首都ハノイと中国の南寧を結ぶ国道一号線に近い位置にあり、ビジネスチャンスに恵まれたむらであった。一九九六年頃にはカラーテレビが普及し、伝統的な衣装に身を包んだ老婆たちが、ベトナム国営テレビで放送される最新のパリコレクションのファッションショーを見るという光景には、いささか驚いた。当時、私が住んでいたのは省都とはいえ人口九万人足らずの小さな町だったが、ハノイから三〇キロメートルということもあり、日本の板ガラス工場が稼動していて、不況にあえぐ日本企業は、「最後の未開拓市場」としてのベトナムに活路を見出すべく「ベトナムブーム」に沸いており、市場調査のミッション途越も多かった。ベトナム語はもちろん解せず、海軍兵学校で習って以来という英語で市場調査をしていた方もいた。
そのような「ベトナムバブル」の中、一九九七年夏に帰国すると、タイバーツ暴落に端を発した「アジア経済危機」は、インドネシア、マレーシア、韓国にも打撃を与えた。特にインドネシアでは、三〇年以上「開発独裁体制」を敷き、人権や少数意見、エスニック・マイノリティーの権利を厳しく統制して、発展を遂げてきたスハルト体制が崩壊した。ベトナム経済自身への直接の影響はさほどではなかったと言われるが、投資国としてのタイ、韓国企業は撤退し、ハノイの街にも建設中止となったビルがそこここに見られた。
IMFは経済危機の原因を、開発独裁にありがちな「クローニー(取り巻き)資本主義」、側近や有力企業との癒着が原因であるとして、経済活動の透明化を求めるコンディショナリティの実行を迫った。韓国、インドネシア、タイではIMFの要求に応えることが国民運動となった。
ところがただひとり、これに異を唱えたのがマレーシアのマハティール首相である。マハテーィルは経済危機の原因を、クローニーの存在には求めず、むしろ投機を目的とした国際的な金融企業の短期的な通貨買い占めと売り抜けであるとして、IMFの要求を拒否し、自国通貨リンギとドルの変動相場制をやめ、固定相場にして、短期的な資本の海外への移動も禁じた。危機直後の一九九七年香港で開かれたIMF・世銀総会で、「国際的相場師」ジョージ・ソロスとの論争も当時話題になった[マハティール 二〇〇〇:一七〇]。
しかし、マレーシアもIMFのコンディショナリティは拒否したものの、当初は「バーチャル・コンディショナリティ」という政策で、実質的にはIMFと同様の政策を行っていたという。ところが、マレーシア経済は回復するどころかさらに悪化した。そのうえでの上述の独自政策の導入であった[西口 二〇〇四:九〇─九二、金子 二〇〇二:一七八」。
このようなマレーシアの「実験」によってマレーシア経済は、一九九八年の第三四半期を底に回復し、一九九九年の第四四半期には一〇・六%の経済成長を達成した[西口 二〇〇四:八五─八七、九七─一〇四]。このような結果を受けて、ソロスもグローバル資本主義の無制限な活動を批判する立場に変わった。
また、マレーシア経済の復興と軌を一にしているのが、イスラム銀行(BIMB)の拡充である。BIMBはもともと、一九七〇年代後半のイスラム復興運動(ダワワ運動)が、マハティール率いるUMNO主導によるものとして包摂されていく過程で、「経済開発とイスラームの融合」を目指すとされた。アジア通貨危機以前に、五〇機関、約二八億九三四〇万ドルにまで成長していたが、通貨危機以降、一USドル=三・八リンギの固定相場制下で、二〇〇一年末までは預貯金額、貸し出し金額ともに伸びている[鳥居 二〇〇三:九五]。さらに政治経済学の鳥居によれば、イスラーム経済制度の拡充が、マレーシアという複数のエスニック・グループからなる社会で実行された意味合いを高く評価している。BMIBの発表によれば、一九九五年時点での顧客の六〇%が、国民の四〇%を占める非ムスリムであり、このことは非ムスリム社会にもイスラーム社会への間接的な理解を求めることにつながる。そして二つの経済システムが、共存し、共栄できることを示すことの可能性を指摘する[鳥居 二〇〇三:九五─九六]。
一方、グローバル資本主義の「透明性」の危うさを露呈したのが、米国企業、エンロンなどの相次ぐ不正会計事件である(破綻発覚は二〇〇一年度)。アジア諸国に対して、「公正な経済パフォーマンス」を迫る根幹が崩れた。
このように二〇世紀は終わり、二一世紀は「世紀末のような新世紀」として始まったと言える。二〇〇一年九月一一日の米国同時テロは、飛行機を乗っ取り、ニューヨーク世界貿易センタービルへの自爆攻撃という特異な手段とともに、欧米流資本主義の象徴への攻撃という点、実行者がイスラム教を名乗る団体であることが衝撃的であった。被害国米国はもちろん日本でも、基本的に「好戦的」であり、「異教徒の存在を許さず」、ゆえに「理解不能」であるという「イスラム異質論」が噴出した。ブッシュ大統領の「悪の枢軸」論がその典型であると言えよう。しかし、こうした過激なイスラム組織にリクルートされる若者たちがしばしばイスラム社会の中でも、経済発展の恩恵を受けることができない貧困層であり、一方ビン・ラディンは豊富な資金を持つという、「宗教問題」には単純に還元できない複雑な側面を持つことも明らかになった。こうして、この事件は単に「イスラム教」の「資本主義体制」への異議申し立てでなく、イスラム社会内部の貧富の差という点をも明かにした。
ここで明らかにされる問題群は、資本主義のグローバル化、貧富の差の拡大、それを宗教や文明の違いに還元する短絡的な見方などであって、それらは新古典派経済学や欧米流の市民社会論では説明できない今日的な課題ということができる。人類学研究所のプロジェクトととして、アジアの経済を取り上げたのはこのような理由によるものだった。
そもそも人類学には経済人類学という領域がある。その基礎を確立したのはポランニー[一九九八(一九七七 )]の「埋め込み理論」である。経済と社会・文化は、新古典派経済学者が考えるように相互に独立したものではなく、それぞれの社会・文化に経済が「埋め込まれ」ており、その影響ないし制約を受けるというものである。ポランニーは主に「未開」とされたアフリカなどでの事例を扱ったが、彼にとっての大きな関心は「資本主義」のあり方であった。
経済のあり方が地域ごとに、歴史や文化に制約されるということは経済学を専門としない者にとって、さほど疑問を生まない、あたりまえのことのように見えるかもしれない。しかし原洋之介[一九九九:二〇、四三、二四六]によれば、新古典派を主流とする経済学の分野では、このような見方は依然として「少数派」であるという。新古典派主流経済学では、ホモ・エコノミクスという文化や歴史的背景を「外部に括りだした」架空の経済人が、(西欧的)合理性に基づいて、常に最大の利益をあげるために行動すると考えられてきたのである。これは、地域や文化の固有性を重視してきた文化人類学とは相容れないものである。一方、ポランニーの論に対しては、経済学者から批判が浴びせられた。
しかしポランニーの「埋め込み」理論は、形と論者を変えて、現在まで引き継がれている。クリフォード・ギアツのインヴォリューション論や、ジェームス・スコットのモラル・エコノミー論──スコットは人類学者ではないが、彼の議論は人類学に大きな影響を与えた──は、「貧困の共有」や共同体の互酬性や弱者救済の規範が、合理的な経済的利益の追求よりも優先されるという議論を提出し、ポランニーの議論を深めたといえる。ギアツに対してはシュルツ[一九六九]が、ちょうど一九六〇年代の「緑の革命」で飛躍的に収量が伸び、パイが大きくなったことにより、「貧困の共有」が成立しなくなった状況下で、経済理論はどんな社会にも適応可能だと論じた。
スコットのモラル・エコノミー論[Scott 1976]は、植民地化以前の東南アジア社会には、一貧者救済の規範、二共同体相互扶助を尊ぶとする道徳的観念があったが、植民地体制によってこれらの規範が失われると、農民はその復活を求めて反乱を起こすとして、南北ベトナム、下ビルマの事例を挙げて説明している。このスコットの議論に対しては、ベトナム戦争中にベトナムで調査し、ベトナム語資料を駆使したサミュエル・ポプキンが『合理的な農民』[Popkin 1979]で、東南アジアの農民も、経済的利益の増大を願う合理的な農民であり、自己の利益に合致しない共同体事業には協力を拒みながら、フリー・ライダーとして利益だけは確保しようとすることを実証した。このように論争は続いてきたのであるが、しかし、東南アジア農民の理想的規範として、スコットら「実体派」の提出した論点が依然として解決していないことに変わりは無い。スコットーポプキン論争に触発された『ジャーナル・オブ・エイジアン・スタディーズ』の特集では、スコットかポプキンかという二者択一の問題ではないことが示されたほか、タイ研究者からは「農民」ではなく、「仏教徒」というアイデンティティの存在が指摘された。
また、人類学者パリーとブロックは、共同体や宇宙秩序の再生産に資する長期的な取引と、利潤追求を目的とした短期的取引が必ずしも対立せず、後者が前者に貢献する形での調和が図られるとした[Parry, J and M Bloch eds: 1989]。パリーとブロックの論点は、スコットらの議論を出発点にしてはいないが、「実体」・「形式」論争に新たな視点を導入したと言える。ただし、関本[二〇〇四: 一七四]の言うように、古典的な機能主義人類学の予定調和論を想起させるという問題をはらんでいる。
また、これらの論点とは別に、近年のアジア諸国の経済的発展を市場と文化の視点で捉えようとする研究がある。しかし、研究が儒教圏である中国、韓国、台湾、香港に偏ったり、東南アジアの経済発展を家族経営の華人資本によるものとしてのみ捉え、マレー・インドネシアの核家族が企業経営の資源として依存できないとか、華人間に特有な水平的、互酬的な紐帯guanxi(「関係」)によるネットワークで担保無しにローンが保障されるなどにより、華人企業がマレー・インドネシア系企業よりも強固であるという結論を導き出す傾向がある[Hefner 1998: 13; Li 1998: 157]のは、ことの本質を捉えているとは言えない。経済学者による指摘を待つまでも無く[原不二夫 一九九八: 一八]、このような結論は見直されるべきである。本書はその点で、一九九七年アジア経済危機に対する華人資本とマレー資本の対応を分析した原不二夫論文を始め、ベトナム、イランなど非華人社会での経済倫理と発展の問題を扱った点で、新たな論点を提示したものといえるだろう。
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編著者紹介
宮沢千尋(みやざわ ちひろ)
1962年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。学術博士(文化人類学)。
現在、南山大学外国語学部(人類学研究所)助教授。
論文に「農業行政制度と農村合作社」白石昌也編著『ベトナムの国家機構』(明石書店、2000年)「ベトナム北部・紅河デルタ村落における村落運営とリーダー選出」2002年など。
中西久枝(なかにし ひさえ)
1958年生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院歴史学研究科修了(Ph.D)。
現在、名古屋大学大学院国際開発研究科教授。
著書に『イスラームとモダニティ』(風媒社、2002年)、共著に『はじめて出会う平和学』(有斐閣アルマ、2004年)など。
原不二夫(はら ふじお)
1943年生まれ。東京大学経済学部卒業。学術博士(東京大学総合文化研究科)。
現在、南山大学外国語学部教授。
著書に『英領マラヤの日本人』(アジア経済研究所、1986年)、『Malayan Chinese and China: Convension in Identity Consciousness 1945-1957』(Institute of Developing Economies, Singapore University Press、2003年)、『マラヤ華僑と中国:帰属意識転換過程の研究』(龍渓書舎、2001年)、『文豪を添削する:正確な日本語を求めて』(私家版、1991年)など。
森部 一(もりべ はじめ)
1947年生まれ。南山大学大学院文学研究科文化人類学専攻博士課程単位取得満期退学。博士(文学、南山大学)。
現在、南山大学人文学部教授。
著書に『タイの上座仏教と社会:文化人類学的考察』(山喜房佛書林、1998年)、編著に『文化人類学を再考する』(青弓社、2001年)など。
吉田竹也(よしだ たけや)
1963年生まれ。南山大学大学院文学研究科文化人類学専攻博士課程単位取得退学。
現在、南山大学人文学部助教授。
著書に『バリ宗教と人類学──解釈的認識の冒険』(風媒社、2005年)など。
中 裕史(なか ひろし)
1959年生まれ。京都大学大学院中国語学中国文学専攻博士課程中退。
現在、南山大学外国語学部助教授。
共著に『現代中国への道案内』(白帝社、2002年)、論文に「近代中国の出版事業管窺:成都を例として」(南山大学図書館紀要第8号)など。
Knecht, Peter(クネヒト・ペトロ)
1937年生まれ。東京大学大学院社会学研究科文化人類学専攻博士課程修了。
現在、南山大学人文学部(人類学研究所)教授。
論文に「Mountains are not just mountains」『Shaman』10, 2002、「東北地方でのフィールドワーク:回顧の試み」『世界の中の日本研究』(東北大学大学院国際文化研究科、2003年)、「Kuchiyose: Enacting the encounter of this world with the other world」『Practicing the Afterlife: Perspectives from Japan』(Wien 2004)など。
坂井信三(さかい しんぞう)
1951年生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、南山大学人文学部教授(人類学研究所長)。
著書に『イスラームと商業の歴史人類学』(世界思想社、2003年)など。