河辺の詩(うた)
バングラデシュ農村の女性と暮らし
農村に住み込んだ女性研究者が、出産や結婚、出稼ぎ、イスラムと民間信仰、男尊女卑と妻の実権など、女性の暮らしを描いた好著。
著者 | K・ガードナー 著 田中 典子 訳 |
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ジャンル | 人類学 |
シリーズ | アジア・グローバル文化双書 |
出版年月日 | 2002/04/18 |
ISBN | 9784894891012 |
判型・ページ数 | 4-6・286ページ |
定価 | 本体2,500円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
一 九月……到着
二 アッラーが与える命
三 ホスナの結婚
四 女の居場所
五 アッラーが奪う命
六 ルキア新しいサリーを買う
七 霊の物語
八 嵐
九 アブドゥッラー治療を求める
一〇 アリム・ウッラ、サウジへ行く
一一 アンビアの物語
一二 十一月……出発
訳注・参考文献
訳者あとがき
著者による現地語集
主な登場人物
内容説明
飢餓・災害や経済援助などでしか語られないバングラデシュ。本書は、平凡な農村に住み込んだ女性研究者が、出産や結婚、出稼ぎ、イスラムと民間信仰、男尊女卑と妻の実権など、様々な事象を通して女性の暮らしを描いた好編である。
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まえがき K・ガードナー
十年近く前のこと、私は旅に出た。それは、私の人生を変えることになるものだった。初めに飛行機で何千マイルもの距離を移動したのだが、私に最も影響を及ぼしたのは、なじみのない文化環境において自分自身が行った活動だった。あまり動き回らずにじっと留まり、その過程で、ともに暮らした人々や自分自身について非常に多くのことを学んだ。中でも最も重要なのは、「彼ら」と私自身との境界は克服可能なのだ、ということだろう。それは最初どうにも崩しようがないように思われたが、時がたつに連れてどんどん消えていったのだった。
この旅の目的は、ロンドン大学経済政治学院で学び始めた社会人類学の博士号をとるため、フィールドワークを行うことだった。バングラデシュで調査しようと決定したのは、どうしようもなくロマンチックな想い──それより数年前に、カトマンズへと至るヒッピー街道上の南アジアに惚れ込んでいた──と、ごく実際的なこと──インドでの調査ヴィザを取り損ない、バングラデシュはその代わりとして手頃に思えた──が絡み合った結果だった。結果的には、これは後悔することにならなかった。果てしない緑の田んぼと、際限なく広大な空をもつバングラデシュが、今まで訪れた国々の中で最も美しかったというだけでなく、(私が住むことになった)シレットの多くの家族がイギリスに親戚を持っていたため、絶えず飛行機に乗り込まなくても、この地方と関係を持ち続けることができたからである。
ロンドンにいるうちに、調査するにはシレットが最も興味深い場所だという結論に達していた。イギリスに住むベンガル人の大多数はシレット出身だった。今世紀初めから、最初はカルカッタを出港する船で働く「ラスカル(インド系の船乗り)」として、また後にはイギリスや湾岸諸国へ、さらに最近では極東への移民労働者として、イギリスのみならず世界中に男たちを送り出している村が多数あるのだが、私はその中の一つに住みたいと思っていた。地元の文化についてできる限り多くのことを学ぶだけでなく、海外への移民によって村がどのように影響を受けてきたかについて研究したいと思っていたのだ。
さまざまな出会いを通じて、シレットのNGOの事務所に行きつき、彼らの援助によってシレットから三時間ほど離れた小さな村に連れて行かれ、最終的に私の受け入れ家族となった人々に紹介されて、私が移り住む日が決められた。その村は、本書では仮にタルクプルと呼ぶことにする。同様に、プライヴァシーを保護するためにすべての人々の名を変えた。村人たちは、私が彼らについて書こうとしていることを知っており、彼らが本当は誰なのかわからないようにするという条件なら、たいていの人はいやがらなかった。
タルクプルには、人類学に伝統的な「参与観察」──研究者は地域社会に住み、可能な限り地元の人々にとけ込むように努力するとともに、「観察」し、最終的には彼らについて執筆するために十分な距離も保たねばならない──という方法に従って、十五ヶ月間住んだ。調査の最初は村の「概要調査」で、各世帯を訪問して、その構成についていくつかの質問をした。それから、緩やかに組み立てられたインタヴューを行い、それを録音した──後でのべる物語のいくつかはこれに基づいている。また、考えつく限りあらゆることについて、果てしない質問を行った。そのため、私と話してみたいという気持ちと時間のある者はみな、私につきまとわれることになった。正しい人類学のやり方どおり、私は実際には何かを「する」のではなく、ただ傍観していたり、うわさ話をしたり、人々と同じように生活してるときに、ほとんどのことを学んだのだろう。
フィールドワークは、簡単には進まなかった。少なくとも最初の三、四ヶ月はベンガル語がよくわからなかったなどというのは些細なことで、それとは別に主に困ったのは、何もかもがひどく図々しく思われたということだった。人々の家に上がり込み──バングラデシュの田舎では、ドアはいつも開いている──あらゆる個人的な質問をするのである。多くの人々が最初私のことをスパイだと考えたために、居心地はさらに悪くなった。一九七〇年代以来、イギリスに基盤を置くシレット出身者の多くは、家族たちとイギリスで再び一緒になろうとしていた。これは、イギリスに入国するバングラデシュ人の数を、政治的な理由から制限しようとするイギリス出入国管理当局との「訴訟」になって長引くことも多く、申請書は却下されがちだった。一九八〇年代の後半には、イギリス高等弁務事務所は抜き打ちで「村を訪問」することになっていて、人々の申請書の細かい点がチェックされていた。私は「お父さんに最近あったのはいつですか?」などといった質問をしていたので、イギリス高等弁務事務所のために仕事をしているにちがいないと思われたというのも、きわめて納得のいくことだった。何ヶ月もタルクプルに住んでやっと、人々の疑いは晴れてきた。今だに、「研究のため本を書く」などというのは私のでまかせで、実はスパイなのだと信じている人々も何人かはいるだろう。
これらはまさしく現実的で実際的な困難だったが、みんなは私が何をしていると思っているのだろうか、ということについての私の被害妄想は、もっと広いこだわりに関係していた。それは、より力の弱い「南」の社会出身の人々を対象に研究する「北」の人類学者のほとんどが必ずつきまとわれる問題である。「我々」が「彼ら」を研究し成果を発表できるのは、明らかにひどい不平等の直接的な結果なのである││しかし、これを強調しすぎてもいけない。タルクプルのいくつかの世帯は、バングラデシュとともにイギリスでも事業を行い資産を持ち、私よりもはるかに裕福だった。
この問題の解決策の一つは、「自分自身」の社会を研究することだ。そうすればある程度は──全くではないが──私の場合のような調査の中に暗に含まれている力関係から自由になることができる。「地元で」調査することは、重要な修正方法ではあるが、人類学的な努力はどんどん内向的になり、異文化間の比較は行われなくなってくるという危険がある。不均衡を是正するのを助けるために必要なのは、バングラデシュのような地域出身の研究者がイギリスのような地域の社会を研究するということではないだろうか。これはまれなことではあるが、次第にそうではなくなっていくことを願おう。
気がとがめながらも、私はフィールドワークを辛抱してやり遂げ、うれしく思っている。互いに理解し合うためには人類学的な調査が不可欠だと確信しているからだ。しかしこれは非常に主観的な技法でもある。なぜなら、知識は個人的な体験を通じて生じ正当化されるのであり、そこで生み出される語りは、自分が表現しているつもりの集団についてと同様に、筆者についても語るだろうからだ。このことは、人類学の著者が自分の特権的な地位と主観性を認めるなら、すなわち、自分自身の物語が自分が描写する人々の物語と織り交ぜられていくやり方を認めるならば、必ずしも問題ではない。
著者を本文の中に置き、民族誌の主観的な性質をある程度示そうという試みは、最近の人類学者の多くがよくやることである。後に続くのは、アカデミックな人類学の本文ではなく一連の物語であり、そのうちのいくつかを私はタルクプルで夕べをすごしている間に書き、その他はイギリスに帰ってから完成させた。私が語った出来事はすべて実際に起こったことだという意味で「事実」であるが、それらの出来事は私の想像力のフィルターを通して加工されており、私が語る方法に合わせられざるをえなかった。タルクプルの人々ならばきっと、全く違ったふうに語るに違いない。
一九八八年の冬にタルクプルを去って以来、私は何度もシレットに戻った。多くの変化が起こっていた。私が一緒に暮らした家族の大部分は、近くの町に移ってきており、隣に住んでいた未亡人のオバは息子たちとともにアメリカへ移住し、彼らのバリにはもっと貧しい親戚が住んでいた。
村もまた変わっている。比較的裕福な家はもう、ほとんどが煉瓦で作られていて、タールと砕石の混合物で舗装された道路が田畑を横切って川の渡場まで通っており、ここ数年の間に電気が来ていた。バングラデシュから届いた一番最近の手紙によれば、私が世話になった家族の兄弟の一人が最近電話のビジネスを始めたそうで、彼の携帯電話のナンバーも書かれてあって、それによってタルクプルにいる彼に連絡が取れるのだ。たいていの人がそうであるように、タルクプルに住んでいる人々も成功して生活を向上させるために奮闘し続けていた。孤立した「伝統的な」田舎の慣習にしがみつくのではなく、世界の他の部分を形成する、絶えず変化し常に流動的な力と結びついているのだ。以下に続く物語は、しばらくの間生活をともにさせてくれ、決してお返しできないほど多くを与えてくれた人々に、捧げられるものである。
ブライトンにて、一九九七年 ケティ・ガードナー
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訳者あとがき 田中典子
本書はイギリス人の社会人類学者ケティ・ガードナー(Katy Gardner)による Songs at the Riverユs Edge: Stories from a Bangladeshi Villageの全訳である。初版は一九九一年にVirago Pressから出版されており、一九九七年には Pluto Pressから新しい前書きと共に再版されている。本書は、初版を原本とし再版への前書きを付けたものである。
著者ケティ・ガードナーは一九六四年生まれ。ロンドン大学で社会人類学の博士号を取得し、現在イギリスのサセックス大学で、社会人類学科の上級講師を勤めている。他に『地球規模の移民労働者と地元の生活││バングラデシュの農村地帯における移動と変質』 Global Migrants, Local Lives: Travel and Transformation in Rural Bangladesh(Clarendon Press, Oxford, 1995)、デイヴィッド・ルイスDavid Lewisとの共著『人類学・開発・ポストモダンの課題』Anthropology, Development and the Post-modern Challenge(Pluto Press, London, Chicago, Illinois, 1996)などの著書がある。
原書を一読して印象的に感じられたのは、村の暮らしを人々の思いとともに浮かび上がらせていく著者の語り口だった。バングラデシュを語るにあたり、貧困や家父長制下での女性の地位の低さなどを、外部世界の価値に基づいて変革すべき対象として示すのではなく(著者によれば、こういう書き方は、開発に関わる人々による著作に多い)、できる限り村人たちの捉え方や感じ方にそって表現しようとするのは、他の著書にも通じるケティ・ガードナーに一貫した姿勢であるが、彼女による他の学術書に比べ、本書にはそれがいっそうはっきりと効果的に現れている。村の暮らしを、そこに入り込んだ著者自身をも観察しながら描くことで、読者に複数の視点を持たせることに成功している。村人の生活様式やふるまい方・考え方に接したときに著者が感じた違和感、西洋風フェミニズムの視点を受け入れられなかった時の意外さ、完全には理解し合えなくとも互いに思いやることはできると感じられる村人との交わり、さらに、現地で生活する中で自分自身にも変化が生じてきたことを認めてとまどう著者自身の姿、こういったことを通じて、読者は細やかな気持ちを共有しつつ、村の暮らしを見ることができるのだ。
まえがきにあるように、こういったスタイルは著者が意図的に選択したものである。本書が、女性人類学者によるフィールドワーク論として、高い評価を得ているというのもうなずけよう。
私が原書を手にしたのは、一九九二年のことだった。この本を紹介してくださったのは、著者ケティ・ガードナーの指導教官だった、ロンドン大学経済政治学院(LSE)のジョナサン・パリー教授である。当時私は、一九八三年から約一年半の間住んでいたスリランカの漁村での体験をまとめようとしており、来日中のパリー教授にたまたま本のプランを話したところ、参考になるのではと本書を送って下さったのだった。(私自身の体験は『消されたポットゥ スリランカ少数民族の女たち』として一九九三年に農山漁村文化協会から出版された。)
スリランカの村で生活した時の体験や感じ方を再発見することがずいぶんあったという点で、私自身にとって本書は非常に興味深かった。たとえば、村で暮らし始めるとすぐに、観察する側だったはずの自分が、実は絶えず観察され批評され続けるはめになっていることに気づかされる。ケティも「あなたはまるで赤ちゃんね」と笑われたように、洗濯でも料理でも、彼らと同じやり方でできなければ、「変だ。へただ」と言われる。家族や親戚一同について、年齢、結婚しているかどうかや、職業なども詳しく聞かれる。持ち物、着ているものも、品質から値段まですっかり話さずには解放してもらえない。うっとうしいと思いながら、そういえばそれはまさに自分が村人に対して行っていることだったと気づくのだ。
タルクプルが農村でありマジョリティがイスラム教徒だったのに対し、私が住んだ村はヒンドゥー教徒の漁村だったので、相違点がずいぶんあることはもちろんだが、同時に、多くの共通点もあった。
女性には、村のことを決める会議で発言することも出席することすらも許されていなかったし、財産は男性を通じて相続されていくのが普通だった。ただし、公の場における女性の地位は低くとも、タルクプル同様、家の中のことを実質的に取り仕切り皆に敬意を払われている女性もいれば、夫を尻に敷く妻もいた。「本当に賢い女性は、表舞台に立つことはできなくても、声高に権利を主張したりせずに、知恵を巡らして上手に男性を操縦する」などという意見に賛成するつもりはない。しかし、現実に生活している人々を、被抑圧者・弱者とひとくくりにとらえるのは、あまりに単純すぎるだろう。
九月一一月の同時多発テロ事件以来、イスラム教は日本のマスメディアでよく取り上げられるようになっているが、その好戦性、狂信性、女性に対する強い抑圧性ばかりが強調されすぎてはいないだろうか。テレビや新聞で繰り返し見せられた、ブルカを着て全身を黒や白の単色で覆われた女性の姿は、いかにも抑圧されているという強いを印象与える。しかし、自分の姿を家族以外に見せることも、学校で教育を受けることさえも許されない、という面ばかり強調してイスラム教徒の女性たちを紹介することには、違和感を感じざるを得ない。そこには、理性も知性も意志も感情も持つ存在としての彼女たちに対する敬意が感じられない。
本書を通じて、生活の中に宗教的なものが深く入り込んではいるが、狂信的なイメージとはまた違うイスラム教徒たちの暮らしの様子を知っていただければと思う。また、イスラム教徒である村人たちが、ごく普通の人間的な強さ・弱さ・実直さ・だらしなさ・賢さ・ずるさなどを見せながら日々の生活を生きている姿を読みとっていただければとてもうれしい。著者の思いも、また同じ所にあると信じている。
現地語や人名・地名の読みに関しては、奈良県立商科大学の中谷哲弥先生にチェックをお願いした。また、現地の習慣などについても教えていただいた。お忙しい中、細かい質問にも丁寧にお答え下さったことに、心からお礼を申し上げたい。原書の表記にはシレット地方の方言も混じっているようで、標準ベンガル語とのずれを指摘していただいたが、臨場感を出すために、会話の中では方言を生かすことにした。アラビア語やサンスクリット語起源の語については、地の文では原則的に標準ベンガル語読みを採用し、アラビア語・サンスクリット語の発音のほうが読者になじみがありそうなものは丸括弧に入れて示した。誤りは、もちろん訳者の責任である。
また、本書のために貴重な写真を提供して下さった、広島修道大学の高田峰夫先生、高田先生を紹介して下さった、京都大学人文科学研究所研修員の中谷純江さんにも、お礼を申し上げたい。
最初から最後まで、励ましと助言をくれた田中雅一氏に感謝する。
最後になったが、どちらかと言えば地味な本書の翻訳を出版するチャンスを下さり、細かいところまで一緒に考えて下さった風響社の石井雅氏に、心から感謝したい。
二〇〇二年 初春
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著者紹介
ケティ・ガードナー(Katy Gardner)
1964年生まれ。
現在、サセックス大学社会人類学科上級講師。
編著書に、Global Migrants, Local Lives: Travel and Transformation in Rural Bangladesh(Clarendon Press Oxford 1995)、Anthropology, Development and the Post-modern Challenge(David Lewisとの共編、Pluto Press 1996)など。
訳者紹介
田中典子(たなか のりこ)
1955年生まれ。
1980年、東北大学大学院教育学研究科博士課程前期修了。
現在、龍谷大学他非常勤講師。
著書に、『消されたポットゥ──スリランカ少数民族の女たち』(農山漁村文化協会、1993年)、『アジア読本 スリランカ』(共著、河出書房新社、1998年)など。