ホーム > タイ山地一神教徒の民族誌

タイ山地一神教徒の民族誌

キリスト教徒ラフの国家・民族・文化

タイ山地一神教徒の民族誌

亡国、改宗、移住といった歴史的経験を通し、ラフの人々の得た救済観や民族・文化・国家観。民族とは何か、に鋭く迫る。

著者 片岡 樹
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2007/02/20
ISBN 9784894891111
判型・ページ数 A5・390ページ
定価 本体6,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき
本書の構成
凡例

第一章 「一神教徒の視点から」の文化理解
 一 非西洋キリスト教徒への人類学的アプローチ
 二 信仰の干満と地上の文化
 三 ラフについて

第二章 国家のはざまで──歴史的背景
 一 「ラフの国」と近代国家
 二 流浪の民族史
 三 タイ国に裏口から入る

第三章 ラフ宗教史にみる「信仰の干満」
 一 「一神教的アニミズム」
 二 三仏祖の後継者たち
 三 カリスマの伸縮

第四章 「亡国の民」の形成
 一 亡国と零落の神話
 二 多民族共同体としての「ラフの国」
 三 「我々ラフの国」の回復へ

第五章 「ラフであること」をめぐって
 一 慣習と血縁
 二 キリスト教は「ラフの慣習」か?
 三 キリスト教は民族境界か?

第六章 合理化と平信徒
 一 「宗教」と「非宗教」の競合
 二 多忙なる神
 三 遍在する悪魔

第七章 耐え難いこの世を生きる
 一 無知こそ力なり
 二 受難の民の一二月 
 三 理想秩序を求めて

第八章 現代タイ国とラフ
 一 「国民」の再定義と山地民
 二 「異教徒のカエサル」の国で
 三 孤児がジョモになる日まで

第九章 結論
 一 近代国家の成立と民族集団の再編
 二 合理性の周縁
 三 彼岸と此岸

あとがき
参考文献
索引

このページのトップへ

内容説明

清朝の雲南支配強化に伴う亡国、そしてキリスト教への改宗、タイ国への移住といったラフの人々の歴史的経験を通し、彼らが「彼岸」の救済あるいは「此岸」の民族・文化・国家をどのようにみているかに接近。民族とは何か、に鋭く迫る。

*********************************************

まえがき

タイの山地民は近ごろすっかり有名になった。旅行ガイドブックや紀行文、テレビの特集や開発NGOのパンフレット等に登場する機会が目立って多くなってきたからである。原色の刺繍やアップリケで飾った鮮やかな衣装を身にまとい、山の斜面の焼畑でおかぼを植え、餅や赤飯や納豆を作って食べ、昔懐かしい茅葺き家屋を建てて山奥にひっとりと暮らす人たち。このうちラフと呼ばれる民族の村が、本書の舞台である。


山地の村の光景は、どこかエキゾチックであり、どこか懐かしい既視感を与える。村によっては、こうした光景のなかで、村の中心にある建物の屋根に十字架が立てられている。日曜日なら、この教会から賛美歌の歌声が流れてくるに違いない。仏教国タイにあって、山地にはキリスト教徒が多いのである。特にラフは、二〇世紀初頭から大規模な改宗運動が進められ、山地民の中でも特にキリスト教徒が多いといわれる民族である。ではこの人たちにとって、民族意識や伝統文化はどのようにとらえられているのであろうか。この人たちの目に映る国家とはどういうものであろうか。それを人々の村落生活の中から描きだそうというのが、本書の行う試みである。


そもそもなぜタイ山地民キリスト教徒をフィールドに選んだのか? 素朴な疑問ではあるが説明しておかねばならない。私ははじめ、タイ国の国民統合問題を研究したいと考えていた。主流派タイ人との文化的共通性の乏しい人たちにとって、国民共同体に参加するということがどういう意味をもつかを考え、ゆくゆくは周縁者の視点から近代国家をとらえなおしてみたいと考えていたのである。では「タイ人」という言葉が喚起するイメージ(たとえば常夏の国の仏教徒)からいちばん遠い人たちとは誰だろうかと考えたあげく、最北端の国境部に住む山地民のキリスト教徒にたどり着いた。かくして、国民統合過程にあるタイ山地民の民族意識の動態に、キリスト教への改宗がいかなる作用を及ぼしているのかというのが、私の研究の主題となったわけである。ここで特に関心を覚えたのは、ラフに限らずキリスト教化した山地民においてはほぼ例外なく民族意識が活性化していると指摘されていたことである。素朴な印象としていえば、これは少々ねじれた現象である。西洋から伝わった外来宗教に改宗すれば、当然ながら伝統的祭祀はおおかた廃棄せざるを得なくなる。客観的には率先して父祖の伝統を捨てているように見える人たちのあいだで自民族への誇りが非常に強いというのは興味深い現象ではないだろうか。


ここであえて自分の恥を白状するが、フィールドに赴くにあたりいくつか仮説を用意したものの、実をいうとそれらは全く使いものにならなかった。せっかくこしらえた仮説は、ラフの村に住み始めた途端にあっけなく瓦解してしまったのである。


使いものにならなかった仮説とは次のようなものである。まず第一に、伝統の放棄と民族意識の活性化とが両立しうるのは、キリスト教が平地タイ人仏教徒との差異化機能を果たしているからではないだろうかと考えてみた。山地民キリスト教徒は、改宗によって伝統文化の多くを失うが、しかしそれによって多数派民族に呑み込まれずになおかつ近代国家に参加することが可能になっているのではないだろうか。伝統を放棄することで、かえって自らの独自性を維持することができるという仮説を考えてみたわけである。


第二の仮説は、キリスト教が今や人々の伝統文化とみなされているのではないかというものである。改宗は客観的には伝統の断絶であるが、当事者の主観レベルでそう考えられているとは限らない。これまでの人類学者は、伝統文化の客観的な古さや純粋性にあまりにこだわりすぎていたのではないか。当事者自身の意味づけを重視した場合、すでにキリスト教が根付いている社会においては、それがたとえあからさまに外来のものであったとしても「人々の土着の伝統だ」とみなしうるのではないだろうか。


この二つの仮説は、どちらもが(良くも悪くも)時流に乗ったものであったと思う。その仮説に私が託していたのは、「東洋と西洋の別を固定的にとらえるのはやめよう」「民族範疇や伝統文化を固定的にとらえるのはやめよう」という立場表明宣言であった。しかしこれらは、フィールドの村人たちからはまったく相手にされなかった。簡単に言えば、人々が教会に通いキリスト教の神に祈りを捧げるのは、「仏教徒タイ人との差異を明示するため」でもなければ、「キリスト教がラフの伝統文化であるから」でもなかったのである。そんなことを口にする村人は皆無であるし、こちらからそのように水を向けてもその都度一蹴された。教会に行くのは単に日曜日の義務だからであり、本来世界の全民族がそうしなければならないことは「創世記」にきちんと明示されている、キリスト教の神が唯一にして普遍である以上は従わねばならない、それ以上の理由などないと言われた。すべての民族はキリスト教徒になるべきだと公言する人たちにとって、キリスト教信仰と「ラフであること」とはもちろん矛盾しない。しかしそれはキリスト教が、ラフに固有の伝統や民族境界なのではなくすべての民族が帰依すべき唯一の普遍的真理だとされるからである。


こうした前提は、私を含め多くの平均的日本人にとって理解に苦しむ思考である。もっとはっきり言おう。我々は普段、こういう発想は唾棄すべき独善だと考えているはずである。神が一人である必要はないし、世界の諸民族には固有の宗教があっていい。それぞれの宗教が奉じる神々に優劣などないというのが、我々のごく普通の神仏への接し方ではないだろうか(少なくとも私はそうだった)。しかし村人は逆に、こういう発想こそが唾棄すべき独善だという。これには驚いた。人間を創造したのが神であるならば、創造主(キリスト教の神)を崇めないのは親に産んでもらったくせに親の恩を忘れるのと同じだというのである。神様と仏様と両方拝めば御利益は倍になるではないかと反論したが相手にされなかった。そもそも人間が神を選んでよいという考え方自体が傲慢な思い上がりだ、という再反論がすぐに返ってくるのである。


何ともつきあいにくい人たちである。調査を始めた初期には、正直にそう思った。しかしこの論理構造とつきあわないことには、この人たちの文化が理解できないのである。つきあっていくうちにわかってきたことがある。人々にとっての民族意識とか伝統文化とかいうものは、どうやらこの一神教徒特有の論理構造という大枠を前提に、その一環を構成しているらしいのである。一方に神や彼岸に関わる「唯一の真理」が存在し、それとの対比の中で見出されるのがもう一方の世界、つまり此岸における被造物の多様な現実である。民族なり伝統なり国家なりというのは、この多様性を分類するイディオムである。


なるほど。もしそうだとすれば、フィールドでの民族意識や伝統文化の変遷あるいはそこから見た国家像を内側から理解するために必要になるのは、それらを「唯一の真理」との緊張関係のなかでとらえていくということになるはずである。このことに気づいたおかげで、もうひとつ意外な事実にも気がつくことになった。大航海時代以降、ヨーロッパ外の世界に急速に拡散したキリスト教については、近年人類学者のあいだでも関心が高まっており、すでに多くの論文集や学術誌の特集が刊行されている。キリスト教伝道と植民地主義との関連、キリスト教と土着宗教との習合形態、キリスト教と結びついた宗教ナショナリズムの展開、これらについては着実に論考が深まっているのだが、しかし私がフィールドでいちばん知りたいと思った点についてはほとんどふれられていないのである。それは今述べたように、外来キリスト教が土着の伝統や民族主義といかに結びつくかという問題は、あくまで「一神教徒の論理をどう理解するか」という問いの延長線上にあるのではないかという点である。


おそらく欧米の人類学者にとってはあまりに当たり前すぎる設問だったのであろう。しかしこの当たり前の問いの前で一歩立ち止まって考えてみると、そこには人類学者にとってはむずかしい問題があることに気づくのである。人類学者が世界の文化を語るときには、文化の個別性を前提とする。この原則には宗教も含まれる。しかるに村の一神教徒たちは、宗教は唯一にして絶対であり、個別文化というのはつきつめてみれば地上の些事に過ぎないと平気で言うのである。もうおわかりだろう。人類学者の話法と一神教徒の話法とのあいだには、実は大きな溝がある。しかもこの溝に橋を架ける作業はどうやら放置されてきている。ならば、文化の内側からの理解を掲げる人類学のやり方で、どこまで一神教徒の文化観を対象化し、かつ共感的に理解できるかやってみようという気になった。


以上が、ナショナリズム研究の事例分析として始まったはずの私の探求が、ひとつの到達点としてその成果を「一神教徒の民族誌」というかたちで提示するに至った理由である。人々が民族や伝統あるいは国家といったものを、一神教という独特のレンズを通して見ているのであれば、私の作業もまず、このレンズをのぞき込んでみることからはじめなければならない。このレンズを通して何がどのように見えてくるかについては、本書の各章でおいおい論じていくつもりである。そしてこの作業の最後には、当初はつきあいにくかった一神教徒たちが、実はまことに共感しやすい人たちであったことが読者に伝わるように描いていきたいと思っている。これは私のフィールドでの試行錯誤の過程そのものであるが、この試行錯誤を通じて、すぐ近くの国に住む「我々とは似て非なる人たち(違うようで似ている人たち)」への理解を読者と共有できればと願う。


本書の構成


本書の構成は次の通りである。まず第一章では、右に述べた論点を先行研究とのかかわりから整理する。第二章から第八章までは本論部分である。第二章ではラフの人々の歴史的背景を記述し、近代国家形成過程が宗教運動の展開にいかなる影響を与えてきたのかを考察する。第三章ではラフの宗教的多様性とその動態をモデル化し、その上でキリスト教徒の位置づけを考察する。第四章ではキリスト教徒ラフの民族主義的な歴史観をとりあげ、それがどのような史実を素材とし、それにどのような解釈を加えることで成立しているのかを考察する。第五章ではラフの民族境界について考察した上で、キリスト教徒における「ラフであること」と宗教とのかかわりについて検討する。第六章では、キリスト教徒ラフにおける「宗教」の定義づけが、平信徒の民間信仰のレベルでいかなる動態をもたらしているかを考察する。第七章では、一神教的世界観が提供する救済や理想秩序のありかたについて、ラフのキリスト教徒の論理を土着千年王国主義との比較を通じて考察する。第八章では、現代タイ国の国民統合をめぐる論争のなかでラフを含む山地民がどのような位置づけにあり、またキリスト教徒ラフ自身はタイ国家をどのようにまなざし、地上での自分たちの共同体をどのように描きだしているかを考察する。第九章は結論であり、前章までの考察を整理し、そこから理論面で今後いかなる課題が生ずるかを検討する。


*********************************************


著者紹介
片岡 樹(かたおか たつき)
1967年東京都出身。
筑波大学第三学群国際関係学類卒業。筑波大学大学院地域研究研究科,九州大学大学院比較社会文化研究科修了。
現在,目白大学,神田外語大学,芝浦工業大学非常勤講師。修士(地域研究・筑波大学,比較社会文化・九州大学),博士(比較社会文化・九州大学)。
専門は文化人類学および東南アジア地域研究。個別のフィールドにあくまでこだわりながらも,しかし他地域,他分野に関心をもつ人にもメッセージを発信できる学問をつくることを目標とする。現在はタイ山地での追跡調査のほか,周縁社会の視点からタイ国家をとらえ直す研究に取り組んでいる。
著書・論文に「領域国家形成の表と裏:冷戦期タイにおける中国国民党軍と山地民」(『東南アジア研究』42巻2号,2004年),『講座世界の先住民族第10巻 失われる文化,失われるアイデンティティ』(共著,明石書店,2007年)ほか。

このページのトップへ