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馬淵東一と台湾原住民族研究

馬淵東一と台湾原住民族研究

幅広い業績の中から台湾原住民族研究に絞り、今日の視点から再検討・再評価。日本人類学が築いてきた骨太の学統に迫る。

著者 笠原 政治
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学集刊
出版年月日 2010/12/15
ISBN 9784894891449
判型・ページ数 A5・304ページ
定価 本体4,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

序――生誕一○○年を機に(笠原政治)

刊行によせて(馬渕 悟)

 凡例・地図

馬淵東一の流儀――台湾調査とその後の展開(松園万亀雄)

 はじめに
 一 一九六〇年代前半の東京都立大学社会人類学研究室と馬淵の沖縄研究
 二 馬淵の台湾原住民調査と学風の形成


「ズレ」の探求――エクステンシブな調査方法をめぐって(小川正恭)

 はじめに
 一 近年の文献にみられる調査方法の説明
 二 エクステンシブな調査方法の意義
 三 バリエーションと社会学主義
 おわりに

『台湾高砂族系統所属の研究』とその後(笠原政治)

 はじめに
 一 原住民族の調査に没頭した一九三〇年代
 二 『系統所属の研究』にどれだけ貢献したのか
 三 社会人類学へ
 四 「高砂族の移動および分布」について
 五 分類の問題
 おわりに

人類学者・馬淵東一と言語学(森口恒一)

 一 台湾原住民研究における人類学と言語学の接点
 二 馬淵論文と言語学の接点
 三 馬淵の研究・指摘が言語学にもたらした新しい発見
 四 ヤミの所謂「男の魚、女の魚」
 五 馬淵の研究による言語現象の解釈――「山ことば」と「言語的忌避関係」
 六 結論

研究のための博物館資料の収集調査
 ――馬淵東一が台湾原住民族の物質文化によせた社会人類学的関心と歴史人類学的関心の二つの側面(野林厚志)

 はじめに
 一 付属民族学博物館における馬淵東一の収集活動
 二 収集に伴う資料情報の調査
 三 人類学の調査に並行した資料収集
 四 付属博物館の展示と馬淵コレクション
 五 もう一つの収集活動――考古学資料の収集
 六 考察
 まとめ

オランダ民族学・宗教学と台湾原住民研究(山田仁史)

 はじめに
 一 オランダにおける民族学・宗教学・法学の初期の展開
 二 台湾旧慣調査とオランダ領東インドの慣習法研究
 三 馬淵東一とオランダ民族学
 おわりに

ブヌン研究史における馬淵東一の位置――特徴・問題点・可能性(石垣 直)

 はじめに
 一 ブヌン研究概史――三つのパラダイム
 二 馬淵東一のブヌン研究
 三 考察――ブヌン研究史における馬淵東一の位置
 おわりに

馬淵東一のツォウ研究素描(宮岡真央子)

 はじめに
 一 調査の年代と方法
 二 主要研究テーマとその成果
 三 ツォウ研究史における意義
 おわりに

パングツアハ族とアミ族――民族名称表記の変遷にみる馬淵東一の台湾原住民族研究への視点(原 英子)

 はじめに
 一 アミ族の自称と他称
 二 馬淵東一のアミ族研究
 三 馬淵東一の著作物中のタイトルからみる「パングツアハ族」と「アミ族」
 四 馬淵東一の著作物本文中にみるアミ族の表記
 五 馬淵東一の「パングツアハ族」使用への志向
 おわりに

馬淵東一主要著作・馬淵東一略年譜

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内容説明

人類学の巨人・馬淵東一の生誕百周年を記念し、二〇〇九年に台湾で開かれたフォーラムの成果。その幅広い業績の中から台湾原住民族研究に絞り、今日の視点から再検討・再評価を加えた論文集。日本人類学が築いてきた骨太の学統に迫る。


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序――生誕一〇〇年を機に 笠原政治


二〇〇九(平成二一)年八月二六日、二七日の二日間、「馬淵東一の学問と台湾原住民族研究」という共通テーマを掲げた学術フォーラムが台湾の台東にある国立台湾史前文化博物館で開かれた。日本を代表する人類学者の一人、馬淵東一(まぶち・とういち、一九〇九―一九八八年)の生誕一〇〇年を記念するイベントであり、開催地には馬淵とゆかりの深い台東が選ばれた。主催したのは台北の国立政治大学原住民族研究センター(主任は林修?教授)。同センターでは前年から日台原住民族研究フォーラムを発足させて日本の研究者との学術交流を進めており、その第二回目として馬淵の生誕一〇〇年記念を企画したのである。フォーラムの参加者は、両日ともに一〇〇名をはるかに越えた。原住民族の著名な研究者や知識人が数多く姿を見せたのも印象的であった。日本からは三〇名余りが集まり、数名が講演や研究発表をしたほかに、生前の馬淵を偲ぶ座談会なども行われた(写真1)。


本書は、そのフォーラムにおける講演と発表、およびそれに先立って八月六日に東京で開催された研究会(順益台湾原住民博物館助成第七回研究会)における発表に基づいて、各執筆者が馬淵の台湾原住民族研究に関する見解をまとめた論文集である。幅広い馬淵の研究業績を考えると、そのように論じる範囲を狭く限定することによって見落とされる側面が出てくるのも確かであるが、馬淵にとって台湾原住民族は学生時代から晩年に至るまでつねに学術的な関心を寄せ続けた人びとであり、その人類学研究において枢要の位置を占めていたことは間違いない。


フォーラムの翌日、参加者一同は台東の池上にある馬淵の墓を訪れ、墓前で記念の式典を実施した。一九八八(昭和六三)年の没後に遺骨の一部が台湾に移されて、アミ(阿美族)居住地の一画に墓碑が建てられたのである。そのような台湾原住民族に対する馬淵の深い愛着の念もまた心に留められるべきであろう(写真2)。


人類学者としての馬淵東一


馬淵は世界各地の民族誌に関して該博な知識を持っていたが、文献による研究ではなく、自身のフィールドワークに基づいて研究に取り組んだ地域となると、場所は全部で三ヵ所だけに限られた。最初は台湾、次いでインドネシア、そして第二次世界大戦後に関心を深めたのが日本の沖縄(琉球諸島)である。


そのうち台湾は、馬淵が学問の形成期を過ごした土地と言っていい。一九二八(昭和三)年に、創立されたばかりの台北帝国大学に入学してからおよそ七年間余り、日本統治下の台湾で暮らしながら繰り返し原住民族(当時の名称は「高砂族」)の居住地を訪れて行った調査活動は、人類学者としての道を歩んでいく上で貴重な経験になったと言えるだろう。後に天性のフィールドワーカーと評されたほどの馬淵であるが、生涯を通じてこれほど現地調査に情熱を傾けた時期は他には見当たらない。浩瀚なエスノヒストリーの研究書、『台湾高砂族系統所属の研究』[共著、一九三五]の大半を執筆したのはこの頃である。そうした一方で、馬淵は優れた語学能力を生かして、ヨーロッパ・アメリカ人類学の古典や最新成果を吸収することにも大いに力を注いだ。翻訳・紹介に努めたのではなく、水準の高い理論と分析手法を会得し、それらを台湾原住民族の調査資料と結びつけることによって独自の研究を展開していったのである。とくにイギリスの社会人類学を中心とした構造機能主義から強い影響を受けた馬淵は、さまざまな機会に自分の専門分野を社会人類学と呼ぶようになった。形質人類学はもとよりのこと、物質文化の研究や先史考古学、心理人類学などにまであえて手を広げようとしない研究上の姿勢は、すでにこの学問形成期から見られたものと考えられる。
(中略)


馬淵の人類学研究にとって台湾原住民族は間違いなくもっとも重要な人びとであったが、その居住地で密度の濃い調査が行われたのは主として一九三〇年代のことであり、調査資料に基づく著作が多く書かれたのも研究生活の前半だったと言える。本書の収録論文に第二次大戦前の研究に言及した記述が目立つのはそのような事情のためである。次に、戦前期を中心にしながら、各論文の内容を理解するのに必要な事項を簡単に解説しておきたい。


台湾原住民族とその初期の研究


台湾原住民族は台湾島および蘭嶼の古来の住人である。この「原住民族」という名称が定着したのは一九九〇年代以降のことであり、馬淵の世代はふつう日本語で「高砂族」という呼び方をしていた。彼らの言語はすべてオーストロネシア(南島)語族に属し、アワ作中心の焼畑農耕、精霊信仰、かつての首狩りなど、一部を除いて見出されたその古い文化には、東南アジア島嶼地域の諸民族と共通する特徴が多い。


人口は、馬淵が現地調査に励んでいた一九三〇年代には約一四万人。現在では五〇万人に達するまで増加したが、漢族が大多数を占める台湾の総人口において二パーセント程度という比率はほぼ一定している。ただし、漢化が著しく進んだ西部・北部平地などの住民は一括して平埔族と呼ばれ、原住民族とは扱いが別である。その点は一九三〇年代も現在も事情が変わっていない。原住民族の居住地は、地形の険しい中央山脈の一帯、東部平地、そして南東海上の蘭嶼とされてきたのである(別掲の地図1を参照)。


台湾原住民族と言っても、その言語、文化、社会組織などは集団や地域ごとに驚くほどヴァリエーションが大きい。そのため日本統治期(一八九五―一九四五年)には何度か集団構成に関する分類の作業が試みられた。そして、最終的に馬淵をはじめとする研究者たちが一九三〇年代に学術上の九民族(種族)分類を提唱し、それが第二次大戦後に行政上でも採用されたのである。ところが、二〇〇一年以降になると、今度は新たに五つの集団が政府から原住民族としての認定を受けることになった。現在は、一四民族(族または族群)分類が公式に採用されてからまだ間もない段階なのである(別掲の地図2を参照)。


時間を一九世紀の終盤まで遡ってみよう。一八九五(明治二八)年に日本が台湾統治を開始したとき、当時の日本人がこの地の原住民族について持っている知識はわずかなものだった。集団の分類に関しては、清国統治期における「熟番」(後の平埔族)と「生番」の区別を認識していたという程度である。実地調査に基づく原住民族の研究が、まずは手探りの状態から始められたと言っていい。


日本統治期における台湾原住民族の研究は、大きく三つの時期に分けて考えることができる。
その第一は、日本の統治が緒についたばかりの頃から、ごく少数の先駆者が探検に近い広域的調査を行った時期である。台湾総督府の下級官吏という立場で、原住民族の研究のみならず歴史家としても後に大著『台湾文化志』[全三巻、一九二八]を書いた伊能嘉矩、東京帝国大学から派遣されて、ヤミ(雅美族)の民族誌、各種の調査報告、ガラス乾板式の撮影機による膨大な写真資料などを学界に齎した人類学者の鳥居龍蔵、そして、二〇年間近くほぼ単身で原住民族居住地の全域を踏破し、著述、写真撮影、博物館資料の収集などに尽力した森丑之助の三名が、その中でもとくに傑出した存在だったと言える。伊能と森は、日本よりむしろ台湾での知名度が高い。
(中略)


馬淵東一の台湾原住民族研究


台北帝国大学に入学してから約一年後、一九二九(昭和四)年の四―五月に馬淵は土俗学人種学研究室の移川、宮本に同行してヤミ(雅美族)の住む紅頭嶼(現蘭嶼)に渡った。はじめての調査体験である。馬淵が晩年まで「ヤミの島へ行って調査が病みつきになった」という駄洒落をよく飛ばしていたのはそのときのことを指す。そして、一ヵ月間にわたったこの調査には、偶然のことながらもう一人重要な人物が加わった。当時東京帝国大学に在学中だった鹿野忠雄である。鹿野は昆虫採集を通して台湾原住民族に魅せられ、台湾の民族考古学や東南アジアの文化史研究に多大な業績を挙げたことで知られる。馬淵より三歳だけ年長で、たがいに年齢も近い。一九二九年晩春の紅頭嶼は、一九三〇年代の台湾で原住民族の調査にもっとも目覚しく活躍した二人の青年学徒にとって、予期せぬ出会いの場にもなったと言えるだろう。


間もなく馬淵の原住民族調査を後押しするような動きが現れた。第一一代台湾総督を務めた上山満之進が、台北帝国大学に原住民族研究のための調査資金を寄贈したのである。その資金の配分を受けて、土俗学人種学研究室では口頭伝承に基づく原住民族のエスノヒストリー(民族史)調査に着手した。実際に行うのは、現地での聞取りを中心にした資料収集である。ところが、教授の移川は日々の公務に縛られていたうえ、もともとフィールドワークの経験が乏しかったらしい。また、助手の宮本も図書や標本資料の整備など、研究室の運営に多忙であった。そのため、交通の不便な原住民族居住地を徒歩で訪ね回る調査は、大学を卒業して一九三一(昭和六)年から研究室の嘱託に採用された馬淵の努力に大きく依存するほかない。馬淵は二年間近くフィールドワークに没頭することになった。後に教え子の野口武徳が用いた表現を借りると、まさに「水を得た一匹の闘魚と化した」[野口 一九八〇:一四一]のである。そのようにして、大著『台湾高砂族系統所属の研究』[一九三五]が完成した。馬淵は研究生活の初期に、文字を持たない人びとの歴史研究に正面から取り組んだことになる。


馬淵は一九三五(昭和一〇)年の原住民族調査を最後に台湾暮らしにピリオドを打ったが、それ以後も一九三八(昭和一三)年から三年間、毎年短期間ずつ台湾を訪問し、原住民族の居住地において追加調査を行った。ただし、時間や経費には制約があって、対象とする地域や集団、研究のテーマを狭く絞らざるをえなくなっていたようである。また、それらの訪問調査に際しては、現地の人びとから聞取りをするのと同時に、一部の地域では博物館展示のための資料収集にも携わった。物質文化にあまり興味を示さなかった馬淵にしては意外なことであるが、当時は東京に日本民族学会の附属博物館を創設する計画が進んでおり、台湾原住民族研究の専門家としてその一翼を担ったものと考えられる。
(中略)


没後二〇余年が経って


馬淵は一九八八(昭和六三)年に満七九歳で世を去った。ちょうど第二次大戦後の台湾が時代の曲がり角を迎えていた頃である。逝去の前年に当たる一九八七(昭和六二)年には戦後三八年間にわたって施行され続けていた戒厳令が解除されて、それ以後の台湾では急速に民主化の流れが進んだ。原住民族の間からも、民族意識の覚醒を表すさまざまな動きが現れてきた。馬淵はそのような新しい時代状況をとうとう知ることがなかったのである。


それから二〇年余りを経て、台湾の現地における原住民族研究は馬淵が健在だった時期とはかなり異なる方向に発展した。以前は人類学・民族学を中心にしていたこの研究に他分野からの相次ぐ参入があり、扱われるテーマも多彩になった。また、研究者の世代交代も着実に進んでいった。そして、各地の大学や研究機関において、漢族や外国人の研究者に混じって原住民族の専門家や大学院生が原住民族研究に取り組んでいるというのも近年の著しい変化である。


第二次大戦後の台湾学界で、馬淵は長らく原住民族研究の権威者と見なされてきた。日本語を解する研究者が何人もいて、しかも原住民族の旧慣に対する関心が強かった時期には、馬淵の論文が優れた先行研究としてよく活用されていたように思われる。しかし、最近では研究者の世代交代とともに、漢語(中国語)で書かれた本や論文の中に馬淵という名前を目にすることが少なくなった。その主たる理由は言葉の壁であるが、それだけではなく、馬淵の論じたような原住民族の旧慣世界が、おそらく若い研究者の目には縁遠いものに映るのであろう。それに対して日本人研究者の間では、馬淵の没後に研究を始めた世代を含めて、その著作が部分的にせよ相変わらず読み継がれている。台湾原住民族研究の古典的業績という認識が多くの研究者に共有されているのである。


冒頭で紹介した生誕一〇〇年記念の学術フォーラムは、そのように馬淵の研究に対してそれぞれスタンスの異なる台湾と日本の研究者が一堂に会して、この碩学の業績についてあらためて考え直すのに格好の場であった。台湾側からの研究発表は全部で六件を数え、このフォーラムを機会に馬淵の研究に関心を持ち始めたという若手の研究者も見受けられた。馬淵の台湾原住民族研究を論じていくための、まずは第一歩を踏み出したことになるであろう。


この論文集の執筆者は全部で九名である。そのうち、台東のフォーラムでは、松園が講演、そして笠原、野林、石垣、原が研究発表を行い、また、それに先立って東京で開かれた研究会では、小川、森口、山田、および(フォーラムと重複して)笠原、野林が研究発表を行った。それらの講演・発表に基づいてそれぞれが執筆した論文に、もう一つ宮岡の論文を加えて編集したのが本書である。おおむね述べられている事項の範囲が広い論文から順に配列したが、もとよりそのような区分は厳密なものではない。


執筆者九名の中で、生前の馬淵から研究上の指導を受けるなど直接の面識があったのは、松園、小川、森口、笠原の四名であり、野林、原、宮岡、山田、石垣の五名は、馬淵とは著作を通した関係ということになる。アフリカ研究を専門とする松園を別にして、他の八名はこれまで台湾原住民族の研究に従事し、それぞれ多くの実績を挙げてきた。本書の各論文は、そうした実績に基づいて馬淵の研究を読み解く試みである。

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執筆者紹介
馬渕 悟(まぶち さとる)
1948年、長崎県生まれ。東京都立大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。
現在、東海大学国際文化学部教授。
著書に「うぬぼれ鏡としての台湾原住民の日本人観」『民族誌の現在』(弘文堂、1995年)、「台湾海岸アミの親族組織の変遷」『アジア社会:その構造と原義を求めて』(下)(胡欽一編、八千代出版、大1998年)、「蘇る祖霊」『民俗宗教の地平』(春秋社、1998年)など。

松園万亀雄(まつぞの まきお)
1939年 長崎県生まれ。東京都立大学大学院博士課程修了。博士(社会人類学)。
東京都立大学/国立民族学博物館名誉教授。
著書に『人類学と国際保健医療協力』(共編著、明石書店、2008年)、『アフリカの人間開発』(共編著、明石書店、2008年)など。

小川正恭(おがわ まさやす)
1942年、東京都生まれ。東京都立大学大学院博
士課程単位取得修了。
現在、武蔵大学社会学部教授。
論文に「ツォウ族の伝統家屋の空間構成」『武蔵
大学人文学会雑誌』24-1号(武蔵大学人文学会、1992年)、「首長国としてのラウ:フィジー東部諸島における首長制の伝統と変化」『オセアニアの現在:持続と変容の民族誌』(河合利光編、人文書院、2002年)など。

森口恒一(もりぐち つねかず)
1948年、和歌山県生まれ。京都大学大学院博士課程単位修得。
現在、静岡大学人文学部教授。
著書に『伊能嘉矩:蕃語調査ノート』(台北:南天書局、1998年)、論文に「北ブヌン族(Takitudu)に見られることばのヴァリエイションと生業・儀礼・社会組織との関係」『台湾原住民研究』12号(2008年)など。

野林厚志(のばやし あつし)
1967年生、大阪府出身。東京大学大学院理学系研究科中退。博士(学術)。
現在、国立民族学博物館准教授。
著書に『イノシシ狩猟の民族考古学:台湾原住民の生業文化』(御著の水書房、2008年)、主編著に『百年來的認識』(順益台湾原住民博物館、2009年)、共編著に『「先住民」とは誰か』(世界思想社、2009年)など。

山田仁史(やまだ ひとし)
1972年、宮城県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程満期退学。ミュンヘン大学ドクター・デア・フィロゾフィー(Dr. phil.)。
現在、東北大学大学院文学研究科准教授。
論文に「焼畑のサイクルと周期的祭儀:サイシヤット族パスタアイ(矮靈祭)の一側面」『台湾原住民研究』12号(2008年)、「台湾原住民における首狩」『アジア民族文化研究』7号(2008年)、「金の枝を手折りて:フレイザーが遺したもの」『印度学宗教学会 論集』34号(2007年)など。

石垣 直(いしがき なおき)
1975年、沖縄県生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会人類学)
現在、沖縄国際大学専任講師。
論文に、「土地所有をめぐる現実:台湾・ブヌン社会における保留地継承・分配制度の現代的諸相」『アジア・アフリカ言語文化研究』77号(2009年)、「現代台湾の多文化主義と先住権の行方:〈原住民族〉による土地をめぐる権利回復運動の事例から」『日本台湾学会報』9号(2007年)、「『部落地圖』調査之省思:以布農族之内本鹿調査爲例」『東台灣研究』10号(台湾・中国語、2005年)など。

宮岡真央子(みやおか まおこ)
1971年生、神奈川県出身。東京外国語大学大学院地域文化研究科単位取得満期退学。
現在、福岡大学人文学部准教授。
共著書に『「先住民」とはだれか』(世界思想社、2009年)、論文に「日常を生きる困難と伝統文化の語り:台湾原住民族ツォウの伝統的首長をめぐる〈蜂蜜事件〉の事例から」『社会人類学年報 vol.33』(東京都立大学社会人類学会、弘文堂、2007年)など。

原 英子(はら えいこ)
1960年、佐賀県出身。九州大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、岩手県立大学盛岡短期大学部准教授。
著書論文に『台湾アミ族の宗教世界』(九州大学出版会、2000年)、「アミ:拡張する市街地とアミ集落」『講座世界の先住民族』(綾部恒雄監修、明石書店、2005年)、「創造される伝説:名護屋城周辺地域の秀吉伝説」『伝説が生まれるとき』(波平恵美子編、福武書店、1991年、小松和彦編『怪異の民俗学6 幽霊』河出書房2001年)など。

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