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文化のディスプレイ

東北アジア諸社会における博物館、観光、そして民族文化の再編

文化のディスプレイ

民族文化とそれらの「ディスプレイ」の間の相互作用は、文化の再編・再定義とも絡み「民族」「文化」研究の焦点ともなっている。

著者 瀬川 昌久
ジャンル 報告書・報告論集
シリーズ アジア研究報告シリーズ
出版年月日 2003/03/14
ISBN 9784894898035
判型・ページ数 A5・264ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次



博物館標本資料と基本的学術情報 (小谷凱宣)

 一 はじめに
 二 アイヌ資料調査の背景と必要性
 三 一九八〇年代から約二〇年間のアイヌ資料調査
 四 第一次世界大戦までの主要アイヌ・コレクション
 五 アイヌ資料の現地調査結果から
 六 今後の展望・残された課題

ロシア極東地方の先住民のエスニシティと文化表象 (佐々木史郎)

 一 はじめに
 二 先住民の民族帰属意識
 三 博物館展示に見られる「民族固有の文化」
 四 ソ連民族学による民族「固有の文化」の構築とその崩壊
 五 先住民の新たな文化表象の構築における人類学者・民族学者の役割──結論に代えて

民族文化と公共の記憶の布置 (高倉浩樹)

 一 序論
 二 社会主義の公共空間と民族文化
 三 サハ共和国と民族復興
 四 馬乳酒祭
 五 民族文化の表象様式
 六 結論

中国の少数民族と民族観光業 (馬建〈金+リットウ〉/日本語訳・布施ゆり)

 一 中国民族地区の観光資源
 二 民族観光業のいくつかの類型
 三 民族観光業の少数民族地域経済発展への促進作用
 四 民族観光業の持続可能な発展への考察

中国南部におけるエスニック観光と「伝統文化」の再定義 (瀬川昌久)

 一 はじめに
 二 海南省のエスニック観光開発とリー族・ミャオ族の対応
 三 貴州・広西のミャオ族における観光開発と「伝統文化」再編
 四 ヤオ族、チワン族、ペー族、タイ族等におけるエスニック観光
 五 おわりに──中華帝国の磁場と現代社会

中国南部のヤオ族と「盤王節」にみるその民族文化表象について (瀬川昌久)

 一 はじめに
 二 「ヤオ族」の複合性と民族識別
 三 連南瑶族自治県と排瑶
 四 盤王節──民族文化表象の新たな展開

香港観光協会版ガイド付き香港ツアー──観光イメージ構築の文脈 (岡野正純、王向華)

 一 はじめに
 二 香港観光協会のイメージ生成
 三 香港観光協会のガイド付きツアー
 四 香港観光協会のガイドたち
 五 中間地帯ツアー
 六 家族体験ツアー
 七 伝統ツアー
 八 伝統の仮構性
 九 結論

あとがき
索引

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内容説明

「伝統文化」が観光開発され、様々に展示・紹介される今日、民族文化とそれらの「ディスプレイ」の間の相互作用は、文化の再編・再定義とも絡み「民族」「文化」研究の焦点ともなっている。(東北大学東北アジア研究センター叢書の市販版)


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序  瀬川昌久


今日、世界各地において「民族文化」や「伝統文化」をターゲットとした観光開発が顕著に見られ、特に「少数民族」「先住民族」の立場にある人々や「古来の伝統」を守っているとされる人々の芸能、工芸、建築、儀礼その他が、自国内の多数者や他地域からの旅行者に対して組織的にディスプレイされるようになった。また、時にこうした観光産業と結びつきながら、学術的・半学術的な意図から民族文化・伝統文化の保存と展示に力を注ぐ博物館も、各地に多く存在している。二〇世紀後半の交通情報網の発達と市場経済の浸透のもとで、各々の民族社会それ自体は急速な変化の途上にある場合がほとんどであるが、こうした中で、「民族文化」「伝統文化」の存立にとって、各地の観光産業や博物館の存在が無視できない役割を果たすようになっている。


しかし、それらは単純に旧来のものを旧来のかたちのままで保存するのではなく、むしろ「民族文化」「伝統文化」として表象されることを通じて、新たな意味づけがそれらに与えられている場合が少なくない。そうした意味づけの具体的プロセスと、個々の社会の間におけるそれらの微妙な相違を解明することは、近現代社会にみられるある種の普遍的プロセスと、個別社会のもつ固有の文化認識とを同時に理解してゆくための極めて有効な手がかりである。


本著は、東・北アジア各地の事例をもとに、こうした文化のディスプレイと文化の再編・再定義の過程の実態を、具体的かつ理論的に分析して行くことを目的として行われた、東北大学東北アジア研究センターの共同研究「文化のディスプレイと伝統の再編──東北アジア地域における民族観光産業・博物館等の文化的影響力についての研究」(平成一一年度─一三年度)の成果である。ここに収められた七篇の論文は、同共同研究における研究発表をベースとしつつ、外部から若干の関連研究論文の寄稿を加えたものである。以下、各論文の内容を紹介しよう。


小谷論文
同論文は、著者が中心となって過去二〇年間にわたり行ってきた、欧米の博物館所蔵のアイヌ関係資料の網羅的調査の結果を踏まえ、欧米と日本国内のアイヌ関係資料の収集のされ方の違いや、日本のアイヌ資料収集の問題点について考察と指摘を行っている。アメリカ、ドイツ、ロシアなど欧米の博物館では、アイヌ民族に関する常設展示や特別展がなされるなど、アイヌ民族に対する関心が非常に高い。その背景として、一九世紀以来唱えられてきた「アイヌ・コーカソイド仮説」の存在があると著者は指摘する。また、それと並んで、欧米社会では採集狩猟民が「高貴なる野蛮人」として理想化され、とりわけ地理学的な詳細が最も遅くまで不明であった北西太平洋地域の採集狩猟民の一つとしてのアイヌ民族への高い関心が維持されたのだとしている。戦前の日本では北方先住民族に対する認識は「滅び行く弱小民族」としての認識が主であり、こうした欧米人のもつポジティブな採集狩猟民像とはある程度異質なものであったとも考えられる。ただし、いずれにしてもそこに近代文明の対極の姿を仮託しているという点では、同じような認識論的基盤に立つものであったとも言えよう。


欧米におけるこうした関心の高さもあって、明治期から昭和初期にかけて、多くのアイヌ文化資料が欧米人やその日本人協力者により収集され、海を渡った。日本国内所蔵のアイヌ文化資料は、多くが採集地点、時期等の基礎データが欠落しているが、海外所蔵の資料にはこうした基礎データの残されているものがかなりあることが、著者らの調査により判明したという。著者はここから、こうした海外所蔵資料に基づいて、アイヌ文化の地域的、時代的な変異を解明する研究が可能であるとしている。従来の日本のアイヌ資料は、アイヌ文化を内部的変異のない一枚岩的なものとして扱う傾向があった。そしてその背景には、常民文化の匿名性と等質性を前提とする日本の民俗研究の方法論の影響があった可能性をも著者は指摘している。


また、今日ではこうした博物館展示されたアイヌ文化に対するアイヌ民族自身による評価や批判が重要になりつつあり、さらに現代のアイヌ民族の文化・社会を解明してゆく必要からも、アイヌ民族出身の若手研究者の育成が不可欠であると著者は述べている。こうした「先住民文化」や「伝統文化」が自己表象を確立するに至る過程と、それに対して研究者がどう向き合うべきかという問題は、後述の他の諸論文にも繰り返し表れるテーマの一つである。


佐々木論文
次の佐々木論文と高倉論文は、ロシア極東ならびに東シベリアの先住民を題材として、ソ連時代からその崩壊後の今日におけるロシアの先住民族文化の表象のされ方を分析したものである。


佐々木論文は、アムール川下流域のナーナイ、ウリチ、ニヴヒ(ニヴフ)等の先住民族を題材に、彼らがソ連の民族学者によって長らく「未開な採集漁撈民」として描かれてきたことを示した上で、同地域に関する中国、日本側の歴史資料等から、必ずしもそのような描かれ方が彼らの文化や社会生活を正確に反映したものではないことを明らかにする。ソ連におけるマルクス主義的な発展段階説による民族文化の把握の中では、こうした採集漁撈民は最も原始的な段階にある人々の典型とされた。そうした見方の中では、アムール流域の先住民たちが、清朝の国家行政機構に組み入れられていたことや、日本などとの交易で高度な経済的、文化的な生活を手にしていたことは、ほとんど無視されてきた。ここでは、「滅び行く未開民族」や「高貴な野蛮人」を求めた日本や欧米人の先住民族観とはいささか異質な、マルクス主義的文脈における「原始民族」観が存在しているものの、近代化された文化・社会の対極にあるものとして彼らを位置づける点においては、似通った認識論的な基盤に立っていると言えるであろう。


一九八〇年代のペレストロイカと、それに続くソ連の崩壊は、先住民族の間にも「民族文化復興運動」の高まりを生じさせ、地方の博物館などでは、先住民自身の視点からの民族文化の表象が行われるようになってきた。この結果、サンクト・ペテルブルクにあるロシア民族学博物館のような旧来的なソ連の民族学の見方を反映した博物館の先住民族展示と、ハバロフスクやより小さな地方都市の博物館における先住民族文化の展示とでは、明らかな相違が生じていることを指摘している。そこでは、「未開な採集狩猟民」のイメージからは逸脱した中国や日本から入った文化要素も彼らの文化の一部として展示されており、また最近のものでは現代の民族芸術家の作品なども展示されている。


ただし、今のところこうした民族文化の自己表象の単位となる「民族」は、ソ連時代の民族政策の中で公認された「官製」の民族単位が採用されており、人々のアイデンティティーもそうした単位に基づいて主張されている。著者は、こうした民族文化復興運動が今後、「官製」の民族単位の枠を根本的に組み替える方向へと発展する可能性を示唆している。さらに著者は、こうした民族文化復興運動に対する民族学者・人類学者のかかわり方についても言及しており、必ずしも前者の忠実な代弁者となることばかりではなく、運動の当事者には欠落している視点や知識を補完的に提示してゆくことの重要性を指摘している。


高倉論文
高倉論文は、同じロシア連邦でも東シベリアのサハ共和国を舞台とした民族文化復興運動を扱う。著者はまず、観光や博物館という場で生成される文化表象に対し、真正/非真正といった観点からの分析ではなく文化表象の政治性の分析、すなわち表象主体のあり方の分析が必要であると述べる。そして、文化の担い手当事者が発する本質主義的な文化表象に対して、人類学者がいかに向き合うべきかという問題意識の重要性を指摘する。こうした「内省」的観点に立ちつつ、著者は文化の担い手自身による文化表象に対して、我々がどのように民族誌記述を実践すべきであるのかを考察・提起している。とは言っても、著者はこの問題を観察者や記述者の倫理上の一般論に帰するのではなく、文化の表象が行われる個別的な「場」の特性を読み解く努力こそが重要なのだとしている。


文化の表象が行われる「場」として、著者は「公共空間」に着目する。それは具体的には博物館であったり劇場や美術館などの文化施設であったり、民族文化の祭典が行われるステージであったりする。それらはそれぞれの社会における固有の歴史的・政治社会的な文脈の中で、固有の意味づけをされており、ソ連においては、それは社会主義的な文化政策に基づく民族文化とプロレタリア文化の相互補完的な発展の場だった。ソ連では、国家によりあらかじめ本源化された民族の存在が設定され、その枠組みに適合する範囲での社会主義化以前の民族文化の状況(「民族誌的過去」)と民族起源の研究のみが許容された。そして、社会主義国家建設の一環として、その理念に叶った民族文化の発展が、その「公共空間」において演出されてきた。


著者が具体事例分析として扱っているサハ共和国の場合、一九八〇年代のペレストロイカの中でサハなどの民族文化復興運動が高まりを見せ、また政治的にも自治共和国からロシア連邦内のサハ共和国へと主体性の確立として結実してゆく。サハの民族の祝祭とされる馬乳酒祭は、シャーマンが重要な役割を果たす豊穣儀礼で、ソ連時代には抑圧されたが、一九九〇年代に入ると民族文化復興の象徴的なイベントとして大がかりに行われるようになった。しかし、著者はこの民族的祝祭を支えているのが、依然としてソ連時代に培われた「文化の家」などの文化教育機関であることを指摘している。そこにはサハ共和国の文化省を頂点とする文化教育行政の垂直的な階層構造があり、国家の援助なくしては文化の発展はあり得ないとする文化観が定着している。このように、社会主義の崩壊により民族文化が復興したという表面的な理解のみでは説明できない、ソ連時代以来の文化認識と文化表象の場の連続性が存在していることを著者は明らかにしている。


馬論文
以上は、アイヌ民族やサハリン、アムール地域、そして東シベリアなど北アジアの先住民族の文化表象に関する論考であったが、以下の諸論文は、中国の周辺地域、それも主に南方地域に関わる論考である。馬論文は、現代中国において観光産業が急速に重要性を増しつつあることを明らかにするとともに、そのような近年の観光ブームを成り立たせるに至った背景について分析している。まず、中国の観光地を成立させている自然ならびに人文的な観光資源について分類し、それを具体的に紹介する。そしてその中でも、民族文化を観光資源とする民族観光に焦点を当て、それをいくつかの類型に分けて紹介している。中国では、一九九五年に国家旅游局が「民族風情観光年」を企画して以来、民族観光が全国的に隆盛をみるようになった。著者によれば、民族観光開発には以下のような類型が含まれるという。第一は都市に民族文化園などのテーマパークを作って行うもの、第二には少数民族地区内部に民族村を設けて民族文化を見せるもの、第三は自然景観と民族文化を組み合わせて観光コースを作るもの、第四は代表的な民族の祭典を観光資源として客を誘致するもの、第五は民族文化を展示する博物館を中心とするもの、第六は民族工芸品などの物品を観光客に売るもの、である。


著者はまた、こうした近年の民族観光開発が、少数民族地区の経済発展に少なからぬ促進作用を及ぼしていることを強調し、その数々の実例を挙げている。しかしながら、著者は同時に、民族観光の発達が生み出しつつあるいくつかの懸念すべき点、例えば民族文化の商品化や安易な改変などにも言及しており、そうした弊害を克服しつつ民族観光が「持続可能な発展」を成し遂げるために必要であると思われる点についての提言をも行っている。著者は中国の民族学研究と民族行政の第一線に携わっている立場から、民族観光についての極めて具体的な事例を提供しているとともに、分析者あるいは批判者としての立場を越えて、社会発展への実践的な関与をも怠らない。これはまさに、中国の社会科学、さらには民族学というもののもつ性格を、自ら体現しているものとも言えよう。この点は、著者の論考を本書の他の著者たちのそれとはいささか性格の異なるものとしているが、このことは民族観光というものが単なる理論上の分析対象であるに止まらず、当該社会の人々の利害に直結した問題であることをあらためて我々に想起させるものでもある。


瀬川論文(1)
続く瀬川論文(1)も、中国の民族観光を題材としている。同論文は、中国最南端の海南島のリー族、ミャオ族および貴州省や広西壮族自治区のミャオ族を中心として、そこで一九八〇年代後半以降展開しつつある民族観光の実態と、その問題点を指摘している。中国の場合も、佐々木論文や高倉論文が扱っているロシアと同様、社会主義的な文化政策を経験した社会であり、さらにロシアの場合とは異なって、市場経済への移行を選択した後も、国家体制の枠組み自体は社会主義の看板を堅持している。中国では、中華人民共和国成立後に行われた「民族識別工作」により、五五の少数民族が国家の構成要素として公認され、制度の上ではその政治的権利が保証されたが、特に六〇年代の文化大革命時代には、旧秩序的な遺風の排除の名の下に、各民族の伝統文化の多くが抑圧を受けたとされている。七〇年代末以降の改革開放政策は、こうした伝統文化の否定からその再評価への方向転換を意味し、各地の少数民族の間でも民族の伝統文化の復興の動きが生じた。


こうした動きは、海南島や貴州省などでは、いち早く民族観光開発へと結びついていった。これは、経済的に後進地域である少数民族地域に、少ない資本で経済発展のための足がかりを築こうとする国家レベルの政策にも合致するものであり、省や県などの地方政府も率先してこれに力を注いでいった。そこには、伝統対近代という単純な二元論や、単線的な発展史観とも異なる、一種の屈折した歴史認識がある。すなわち、封建領主や資本家の搾取から解放された後も、急進主義による民族の伝統文化への不当な弾圧の時代があり、今ようやく民族文化の正しい評価が可能な時代が到来したという認識である。


この認識の中では、正当な評価を与えられるべき伝統文化は、決して「現代化」や社会の発展と矛盾を来すものであってはならないのであり、例えば民族観光の場においてポジティブに表象される民族文化は、それだけ選別され洗練されたものでなければならない。これは国家主導のもとでの文化発展という発想に連なるものであり、ロシアについても指摘されたように、社会主義国家に特徴的な文化観の一部であるとも思われるが、中華人民共和国の成立以前にも、民国期の中国人人類学者や民族学者の意識の中にはきわめて実践的な社会改善の意図が見て取れることからすると、必ずしも社会主義的文化認識のみには帰し得ない、後発的近代化というものに起因する現象なのかもしれない。
いずれにせよ、現代の中国においてその民族観光の場で生産される民族文化の表象は、かなりの程度まで国家が認める公式の民族単位の枠組みに合致する内容のものとなっており、しかもかなりステレオタイプ化されたものである。この結果、民族観光の発展の陰で、民族文化の表象を率先して演出し得る人々と見せるべき民族文化の文化的資本を喪失してしまった人々との二極分化、ステレオタイプ的民族文化の枠に収まらないよりローカルな文化的バリエーションの無視と画一化、そして民族観光を契機とする漢族の資本や文物の急激な流入などが生じていることを、同論文は明らかにしている。


瀬川論文(2)
瀬川論文(1)が主として民族観光に注目してその負の側面に焦点を当てるものであったのに対し、瀬川論文(2)は、ヤオ族の民族文化祭典「盤王節」を題材として、民族文化を表象する主体の問題に目を向け、そこに見いだされる少数民族の人々の新たな自文化表象の動きの中のよりポジティブな側面を取り上げたものである。


中国南部に暮らすヤオ族も、内部には多様な方言と地方文化集団があることが知られており、多数民族である漢族の側から、漠然と「ヤオ族」として総称されてきた多様な人々が、一九五〇年代の「民族識別工作」の中で一つの民族集団として括られたものである。その意味では、各地の「ヤオ族」の間の文化的共通性と共通の民族意識は希薄であった。しかし、改革開放政策が実効を表し始めた一九八〇年代半ばからは、このようにして国家により括られた行政的な民族単位に過ぎなかった「ヤオ族」に、共通の民族文化という内実を与えようとする動きが起こってきた。その一つの表れが、「盤王節」と呼ばれる民族文化祭典である。サハの民族文化祭典である「馬乳酒祭」が、シャーマンなどの伝統文化に随所で言及しつつも、かなりの部分で新たな文化的創造をともなっていたように、この「盤王節」も、新たな民族文化の創出という側面を有していた。祭典は宗教行事の中から「迷信的」な部分をそぎ落とし、各地の代表の民族衣装行列と現代的な創作舞踊が、その美を競い合うものである。


祭典を企画・準備するのは各地のヤオ族の民族幹部と各省や県などの地方政府であり、この意味では全くの官製の民族文化である。しかし、パレード参加者として、あるいは観客としてこの祭典に参加する人々は、決して国家により押しつけられた民族表象を他者の眼前で受動的に演じさせられているだけではない。むしろ政策的に創出された民族単位を所与のものとして受け入れ、それに見合う「伝統文化」の内実を再構築することに、積極的に参加している側面が大きい。ただし、そのような新たな文脈における民族文化の創出の動きの中でも、官製のヤオ族という民族単位全体に巧みにだぶらせる形で、実際に伝統文化の表象主体となっているものは、実は地理的な近接性と以前からの文化的な近縁性を共有する範囲であることをも著者は見いだしている。すなわち、個人が文化的・社会的に無理なく自分をアイデンティファイできる地域的な文化単位というものは、未だに存在し続け効力を失っていないが、民族文化祭典の中では、そうした地域的な文化単位と官製の「ヤオ族」とが、巧みなレトリックによって重ね合わされ、同一視されているのが現状である。


岡野・王論文
最後の岡野・王論文は、香港を舞台にその観光を生産する側の文化認識の問題を扱う。それは間接的には中国文化というものの表象に関わるが、直接的にはイギリス植民地下に西洋的な近代化と中国の伝統文化の共存する特別な場所として形成されてきた香港が、自らの観光戦略の中で、そうした特色をいかに表象し、また異なる地域からの観光客に対してその表象をいかに使い分けているかを分析したものである。


著者たちはまず、これまでの西洋の価値観の中で、「旅」のロマンティックな側面が称揚される反面、観光の場で生産され商品化された文化が、その「真正性」の議論との関連において不当に低い扱いを受けてきたとする。そして、観光の生産過程にもっと注目を注ぎ、そこに介在している各々固有の文化的文脈を読み解いて行く必要があるとしている。その上で著者たちは、香港における観光の生産を取り仕切ってきた中心的な団体である香港観光協会の企画するガイド付きツアーに着目する。同協会は、一九五〇年代のその設立以来、香港観光の企画・宣伝・統轄を行ってきたが、その中で、一貫して香港イメージの創出に努めてきた。そのイメージとは、欧米人観光客に対しては、香港が中国の伝統文化を維持した社会であることを強調し、近代化され都市化された生活とそうした伝統文化が共存している場所としての香港イメージを全面に押し立てている。それに対し、日本人や東南アジア人などのアジア人観光客に対しては、香港の近代的で世界都市的な側面を強調する。そしてその根底にある論理は、伝統対近代という単純な二元論であると著者らは指摘する。この二元論は、西洋近代に普遍的に立ち現れるテーマであり、香港観光協会は、このテーマに依拠しながら、外国の観光客に対して提示しようとする香港の表象を組み立てている。しかも、協会が観光客の二つのカテゴリーとして措定している欧米人とアジア人の性格付けについても、同様の二元論が用いられており、それらに対して提示される香港イメージも、戦略的に使い分けられているのである。


これら七つの諸論文は、いずれも東・北アジア地域の事例に関わり、博物館や観光、そして民族文化復興運動などにおける伝統文化の表象というものに関わる考察である点では共通しているが、直接の分析対象としている事象はさまざまであり、またそれぞれの著者の主たる関心や分析の手法も一様ではない。しかし、これら一連の論文から明らかになってくるのは、伝統文化というものに対する認識のあり方、あるいは表象のあり方というものが、社会ごとにそのコンテクストによって微妙に異なっているということである。近代における博物館展示や観光の場において伝統文化が新たに意味づけられ、あるいは創造されてゆく過程は、国家レベルならびに個人のレベルにおける近代イメージの確立の過程とも表裏一体をなし、それゆえに近代社会にとって普遍的な過程であるともみなされがちである。しかしながら、それぞれの社会の近代の歩みが固有であるように、それぞれの社会における伝統文化の表象のされ方、そしてその意義づけられ方は微妙に異なっている。とりわけ社会主義的な文化・社会の発展理念の影響の有無は、伝統文化というものの意義付けを左右する大きな要因の一つとなっているようにも思われる。それはまた逆に、伝統対近代という二元論的図式に支配された西欧流の文化認識の特殊性をも浮き彫りにしてくれる。この意味で、本著がロシアという旧社会主義国ならびに中国という現社会主義国を含む東・北アジア諸社会において民族文化の表象と意義付けの問題を検討したことは、一定の意味があることと考えるものである。

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著者・訳者紹介
小谷凱宣言(こたに・よしのぶ)
1939年松江市生まれ。南山大学人文学部人類文化学科教授。専攻:文化人類学。主著に『在外アイヌ資料にもとづくアイヌ文化の再構築』(2001・編著、南山大学人類学研究所)など。

佐々木史郎(ささき・しろう)
1957年東京都生まれ。国立民族学博物館助教授。専攻:文化人類学。主著に『北方から来た交易民―絹と毛皮とサンタン人』(1996、NHKブックス)など。

高倉浩樹(たかくら・ひろき)
1968年東京都生まれ。東北大学東北アジア研究センター助教授。専攻:社会人類学。主著に『社会主義の民族誌──トナカイ飼育の風景』(2000、東京都立大学出版会)など。

馬建〈金+リットウ〉(マー・チエンチャオ)
1954年中国海南島生まれ。広東省民族研究所所長、同宗教研究所所長。専攻:民族学。主著に『排瑶歴史文化』(1992・共著、広東人民出版社)など。

布施ゆり(ふせ・ゆり)
1972年米国ウィスコンシン州生まれ。東北大学大学院国際文化研究科博士前期課程在学。専攻:中国文化。

瀬川昌久(せがわ・まさひさ)
1957年花巻市生まれ。東北大学東北アジア研究センター教授。専攻:文化人類学。主著に『族譜―華南漢族の宗族、風水、移住』(1996、風響社)など。

王向華(おう・こうか) 
1963年香港生まれ。香港大学日本研究学系副教授。専攻:社会人類学。主要著書に Japanese Bosses, Chinese Workers:Power and Control in a Hong Kong Megastore (1999,Curzon Press)など。

岡野正純(おかの・まさずみ)
1960年横浜市生まれ。香港大学日本研究学科名誉講師・財団法人国際仏教交流センター常任理事。専攻:社会学(宗教・観光)・仏教学。主要論文に「戦後日本宗教復興:社会変化與新宗教的興起」(2000、李玉編『伝統文化與中日両国社会経済発展』所収、北京大学出版社)など。

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