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ロロ・キドゥルの箱

ジャワの性・神話・政治

ロロ・キドゥルの箱

「南海の女王」ロロ・キドゥルに捧げられたワヤン劇、9・30事件等から、インドネシアの王権・儀礼、神話的世界観を描く。

著者 中島 成久
ジャンル 人類学
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 1993/11/25
ISBN 9784938718138
判型・ページ数 4-6・294ページ
定価 本体2,800円+税
在庫 在庫あり
 

目次



1 南海の女王にささげられたワヤン劇──ヨクヤカルタ九・三〇事件伝承

2 ルワタン、ジャワの言葉の宇宙

3 始原の彼方から──クカヨンの図像学

4 日・月食の記号論

5 スケルトを読む


インドネシア略年表

あとがき

参考文献
索引

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内容説明

悪魔祓いの儀式「ルワタン」や「南海の女王」ロロ・キドゥルに捧げられたワヤン劇、戦後最大の政変劇「9・30事件」等から、歴史を動かすモメントとしての王権・儀礼、インドネシア民衆の神話的世界観やインセスト像を描く。

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(前略)

 

本書第一章は、スルタン・ハメンクブウォノ九世が何故、パラントリティスというジャワの王権にとってゆかりの深い場所でワヤンを行ったのか、そしてそのワヤン劇が、九・三〇事件とその後の反動による虐殺、スハルト「新体制」の成立といったインドネシアの激動の中で、特にヨクヤカルタという土地においてどのような言説化をなしていったのか、そしてその背景は何かを巡る問題の分析である。

このワヤン劇と、ルワタンの問題を徹底的に考えていくうちに、ワヤンとは、上演の機会は儀礼であり、その際のラコン(演目)は神話である、という「確信」が私の中で強く芽生えてきた。こうした意識は、神話、儀礼、社会構造という三者の相互関係をすぐ考えてしまう文化人類学者の″性″なのであるが、良きにつけ悪しきにつけ本書の特徴をなしていることだろう。

第二章は、先に述べたルワタンを巡る問題を、ラコン「ムルウォコロ」の構造分析、供物の意味論的分析、それにワヤンの起源としてのルワタンといった問題を扱った。

特に、呪師としてのダラン、ダランと祭司王といった問題設定の背景に、キ・ティンプル・ハディプライットノとスルタン・ハメンクブウォノ九世の姿があった。この二人は直接対面したこともなかったし、時代が時代であってもティンプル氏がヨクヤ王宮のおかかえダランとなることもなかったであろう。というのはティンブルのダラン術はやや「カッサール」(粗野)という評価が多く、「ハルース」(洗練)なものを志向する王宮の中にあっては好まれなかったであろう。ティンブル氏がパラントリティスでのワヤンのダランとして選ばれたのは、ダランはバントル地区(県)から選ぶべしというスルタンの要請があったからであって、ティンブル氏が王家に好まれるダランであったからではない。それであってもティンブル氏は、一九八一年のヨクヤカルタ特別区の中で最も人気の高いダランに選ばれ、一般庶民には圧倒的な人気を得ている。

ルワタンをワヤンの起源として位置付けても、ルワタンの問題は依然として私の心の中に残っていた。その理由は、ルワタンの最大の謎である、ブトロ・コロという悪魔に狙われる六十種類を越えるスケルトのカテゴリーの謎(第四章4節参照)がどうしても解けなかったからである。

その謎を解く際に、驚くべきひらめきを私に与えてくれたのが、第四章で述べたジャワでの日食(蝕)であった。一九八三年六月十一日、ジャワで見られた今世紀最大級の日食は、私の研究に大きな前進をもたらしてくれた。第三章、四章、五章は、ルワタンから、日・月食の民俗科学的な問題の追及の過程で生み出されたものである。

第四章は、日食の起きた日のジャワの様子を徹底的に記述することから始まった。そこで特徴的であったのは、日食を起こすとされるコロ・ラーフがあまりにもルワタンの悪魔、ブトロ・コロに似ていることであった(一二七頁のイラスト参照)。それに、日食を恐れて家を閉ざし、家の中に閉じこもる人々と、逆にクントンガン(一二二頁参照)やクラクションを激しくならして、熱狂的に日食に″挑んで″いった人々の姿も印象深いものであった。「科学万能」といわれるこの時代にあって、インドネシア政府も必死に、日食の「科学」的な説明を繰り返していたのに、それでも静と寂、音の禁忌と過剰な音、といった対応をしたジャワ人の姿が見られたことに、正直いって驚き、かつ「嬉しく」なった。多くの人は自宅でテレビの中継を見て、(二次的に)日食体験をしたとはいえ、日食をアッラーの恩寵の顕われとして、何の特別な反応も示さなかった敬虔なイスラム信者の態度も特筆すべきものがあった。

第四章で最も苦心した点は、日・月食に関わる問題から、どのようにルワタンの問題へと移行することが出来るかということであった。私は、スケルトが時間と関わるカテゴリーではないかという予感を持っていたのだが、時間の問題という接点で、ルワタンとこの時の日食を結び付ける第四章4節は生まれた。だがスケルトの謎を徹底解明するには、独立した章を立てて論じる必要があったので、第五章をそのための章に当てた。

第五章をまとめる際、「インセスト」、「我々/他者」を巡る、ニーダム、シュナイダー、ブーン、フーコー、といった理論に頼らざるを得なかった。ルワタンの謎を究めようとする私の問いが、日・月の対立と接近というインドネシア神話学での論議を媒介することにより、インセスト、性を巡る現在の知的営みの最先端に至る問いであったことに、今大きな充実感を感じている。第三章は、第四章3節を書く前提とした、インドネシアの神話・民話の構造分析から派生してきた問題である。それはワヤン人形の中で最も異彩を放っているクカヨン(グヌンガン)の、図像解読の章である。クカヨンの原型は、インドネシアで広く見られる天と地を繋ぐ「宇宙樹」としてのバンヤン樹(ブリンギン)信仰であるというのがその結論である。(後略)

 

 

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〈著者略歴〉

中島成久(なかしま なりひさ)

1949年 屋久島生まれ

1978年 九州大学大学院博士課程中退

1978年 九州大学比較教育文化研究施設助手(~82年)

1982年 法政大学第一教養部助教授

1992年 同教授

専門は文化人類学。ジャワ研究以外に、1991年よりスマトラのミナンカバウの性・家族の言説の研究に従事。また故郷屋久島の環境問題にも取り組み、「屋久島の環境イメージ」を「生命の島」に連載中。

 

 

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