韓国民俗への招待
別神祭の巫儀、焼肉と在日韓国人、反日感情の文化人類学等、フォークロアの眼で考察する民族文化。日韓相互理解のための基礎講座。
著者 | 崔 吉城 著 |
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ジャンル | 民俗・宗教・文学 |
シリーズ | アジア・グローバル文化双書 |
出版年月日 | 1996/09/01 |
ISBN | 9784938718169 |
判型・ページ数 | 4-6・302ページ |
定価 | 本体2,500円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
関係地図
●第一部●韓国民俗への招待
一 韓国のタテ社会とヨコ社会
はじめに
血族観念
身分制度
家族制度
婚姻制度
契
二 韓国の村祭り
はじめに
村のシンボル
村祭り
洞祭と巫祭
まとめ
三 東海岸の別神祭
はじめに
別神祭の芸能性
クッの節次
まとめ──東海岸地域の巫俗の特徴
四 東アジアの暦──その葛藤と調和
はじめに
韓国・日本・台湾の比較
陽暦への改革
旧正月への復帰
●第二部●韓国民俗のトポスとロゴス
一 波市考
はじめに
研究史
現地調査
まとめ──村落の二分構造
二 韓国の喫茶店「茶房」の文化人類学
はじめに
茶房の機能
茶房の現地調査
まとめ
三 韓国現代社会における「売春」
はじめに
性暴行と売春婦
茶房の売春
まとめ
四 韓国民間信仰における「不浄」の意味
はじめに
不浄の機能と種類
出産の不浄
死亡の不浄
まとめ──不浄の社会人類学的意味
●第三部●食文化のアイデンティティ
一 韓国の稲作文化における「餅」
はじめに
ウルチ米の餅とモチ米の餅
粘り気嗜好の起源
米粒信仰
まとめ
二 韓国社会における飲酒の意味
はじめに
韓国人と酒
肯定的な飲酒
否定的な飲酒
済州道の一島「禁酒村」の事例
まとめ
三 焼肉と在日韓国人
はじめに
牛を中心とした韓国の文化
在日韓国人と焼肉
在日韓国人における焼肉の意味
焼肉と狗肉
まとめ
●第四部●日韓関係と人類学
一 反日感情の文化人類学
はじめに
個人的な体験
村落レベルにおける植民地
国家レベルでの日韓関係
まとめ
二 韓国における日本文化研究の動向
はじめに
日本文化研究の現況
韓国の人類学の現況
日本研究の問題点
三 韓国における日本文化の受容と葛藤
はじめに
日本文化の流れと受容
葛藤
まとめ
あとがき
韓国近代民俗年表
索引
内容説明
別神祭の巫儀(クッ)、焼肉と在日韓国人、反日感情の文化人類学、韓国における日本文化の受容と葛藤、韓国現代社会における「売春」等、フォークロアの最前線で考察する民族文化の根源。日韓相互理解のための基礎講座。
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序にかえて──日韓の表現様式の相違について
崔 吉 城
……
日本人が「文語文化 written culture」であるのに比べると、韓国人は「口語文化 oral culture」かも知れない。私が日本に来て最初の新奇な印象は、電車の中で老人が老眼鏡をかけて一所懸命にノートを取る光景であった。田舎の小さな博物館や旧家を訪ねてみると古文書が多く残っているのも見かける。古くから日本人はよく書き残した。年賀状、結婚式や葬式のお礼、日記、日常生活上のさまざまな記録などがある。そして長い間観察しているうちに、それこそ日本文化であると思われるようになった。
韓国人は日本人に比べて手紙をあまり書かない。一般人はもちろん文章を教える国文学の先生たちでさえ、年に何回も書くことはない。何度手紙を書いても返事がないので、人間関係が切れたのかと思ったりしていてもそうではない。久々に会っても親しさはちっとも変っていないのである。教育の水準というよりは口語文化であるからだろう。また、本や資料などを送っても返事がないのが普通である。私は百人ほどに献本をしたことがあるが、受け取ったという返事が来たのはわずか二、三人しかなく、日本人はその逆であった覚えがある。最近の韓国で携帯電話が異常に普及したような感じがするのも、口語文化を示すものなのかもしれない。
日本では講演の時レジメを準備するのが習慣になっているが、聴衆がレジメに気をとられ講師を見ながら聞こうとしないので、講演の楽しさがなくなることがよくある。私は講演とか講義を一種のパフォーマンスだと考えている。そして、人の顔を見ながら自分の話にどう反応するか、そのフィードバックによって話を進めていきたいと思っている。したがって、聞いている人の表情が明るいときにはその雰囲気に自ら乗ってしまい、時には大げさな話もして後から後悔することもあるが、講義や講演は基本的にはスピーチによるコミュニケーションなのでパフォーマンスを重要視したいのである。ところが、日本人に講演する時には、準備した資料に基づいて話をすると一斉にページをめくったりして紙にさわる音が煩わしくなる。聴衆が多い場合には話を進めるのに大変邪魔になる。大学の授業ではごくあたり前のことであるが、それがそのまま一般化されていったわけであろう。しかし私にはこれが日本文化の構造を象徴的に表すことのように思われるのである。
日本の教会の礼拝は聖書に基づいて説教することが重要であり、儀礼の部分は非常に簡略化されている。説教者が聖書の聖句を言う時に、その箇所をさがすのが煩わしいほどである。いわばバイブルスタディが中心であり、神学の勉強のようなものである。それに比べて韓国人の在日教会では大分日本化されてはいても、聖書中心ではなく儀礼中心である。説教も神学よりは生活に基づいた訓戒式である。賛美歌や儀礼そしてパフォーマンスがやはり重要視される。これが韓国本国となると、もっと極端化されている教会が無数にある。特に最近マンモス化されたものに多い。それらの教会ではパフォーマンスが生命力を持っているのである。
韓国には世界で一番大きい教会がある。私は何回もその教会の礼拝に参加したことがあるが、圧倒されるような聖歌隊の規模や聖堂の大きさ、聖職者たちのユニフォーム、説教、祈り、賛美歌、そして挨拶などパフォーマンスが多い。ある学者は楽しいお祭りに参加した気持ちだと書いていた。それよりも極端なのは祈祷院という施設である。祈祷によって病気を治療したり集中的に祈ったりするので、その集いは身振りの総合ともいえる。私は一九九五年の末に日本人学者たちと一緒にソウルの北方のある祈祷院に行ったことがある。末期患者を治療するということで有名になったキリスト教系の施設である。拍手、泣き声、踊り、身振り、奇声、高音、笑い声、照明などの混在であり、白いドレスを来た女性によって患部が露出されたまま舞台の上で神秘的な奇跡を起こして病気を治療するのである。集団催眠であろうか演劇であろうか、私は緊張したまま何時間もその神秘性に溺れた。混沌としたパフォーマンスの極端な現場であった。しかし考えてみるとそれは、韓国人が日常的によくパフォーマンスをこなすことが極端化されたのに過ぎないのである。まさに日本とは対照的な韓国文化の表れであると思われる。
韓国では基本的には言行一致が強調されている。日本人は謙遜というのを、謙遜の心よりも謙遜な表現に焦点を当てているような気がする。これは韓国では嫌われることである。もちろんある程度は人間は我慢することも必要であるが、それが礼儀にかなうことは必要であろう。日本人は自己の表現を小さくすることが謙遜な礼儀であると考えるが、それは心も謙遜であるとは限らないようである。これに反して韓国人は積極的に自己を表現する。これは逆に日本人が韓国人を誤解しやすい点であろう。
韓国には身言書判という言葉がある。この言葉は中国で唐の時代の官吏を選ぶときの四条件、すなわち容貌、言葉での表現能力、文章力、判断力であり、特に男が自己表現することを勧めた言葉である。韓国では男性は子供の時から声が大きい程よいといわれ、雄鶏を食べてその鳴き声の大きさにあやかる風習がある。それに比べると、日本人は小さい声で慎重にしゃべるよう、遠慮を強調する。それは時に言語障害のように思われるほどである。韓国人から見ると日本人は自信がないように思われて日本人には負けないという自信を持ちやすいのである。一方日本人から見ると韓国人は大風呂敷か嘘つきであり、口ほどの実力がないように思われるのかもしれない。
また、韓国人はいくら小さな集いでも自己表現をしようとする。日本人は自己紹介において最小限の名前だけを言い、そして名刺を交換する。言語表現よりは文書表現の方を選ぶのである。韓国人は口で自己の特長を言いたがるし、前の人が表現したやり方は繰り返したがらない。他の表現をとろうと考え、面白く自己表現することを工夫する。それは初対面の人への自己宣伝にもなるということである。こうした表現様式の違いは日韓両国の人が出会う場合、最も誤解を生みやすい文化の行き違いとなる。
表現の豊かさは感情をよく露出することを意味するかも知れない。泣き方も日韓ではかなり異なっている。金日成の死去の際、北朝鮮の人々の痛哭する場面を見て、多くの日本人はショックをうけたという。もちろん今の時代に政治支配者が亡くなったという事で国民が痛哭することは変に思われるかもしれないが、韓国人の文化的背景からそれは理解されなければならない。韓国人は基本的には親が死んだ場合は泣き放題である。喪主は泣いて声が嗄れハスキーになるのが普通である。それは孝行の表現であり、心理的欝憤の捌け口にもなるからであろう。またそれは自分の親の死だけではない。親族や親しい人の死に対しても泣くのは人情として当然のことなのである。
ただ、泣くことの抑制は時に男性にはありうるし、逆に場合によっては泣くことが人間味のあることとして評価されたりもする。兵庫県の震災は悲惨な出来事であったが、私は一韓国人として、そのような非常時に人々がそれほど泣いたりわめいたりすることなく、社会秩序を守りながら行動をしたことには驚かされたし、また素晴らしいと思った。しかし一方では人情が薄いのかとも感じられたのである。(またそれは、関東大震災における日本人のイメージからも大きくはずれていた。歴史はただ流れるのではなく、成長していくということが強く言えるのである。)
このように、日韓の文化は似て異なるところが多い。本書は両文化に長く身を置いてきた私の体験と研究の中から、韓国の社会と文化の特徴を探ってみたものである。両国の相互理解の一助になれば大変幸いである。
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著者紹介
崔吉城(チェ・キルソン)
1940年、京畿道楊州出身。ソウル大学校師範大学国文科卒業、高麗大学校大学院碩士課程国文科修了、成城大学大学院博士課程(民俗学)修了、東京大学東洋文化研究所にて社会人類学を研究。筑波大学歴史・人類学系にて文学博士取得。
韓国では、陸軍士官学校、徳成女子大、中央大、慶北大、嶺南大、安東大等を経て慶南大専任講師、啓明大教授。
日本では、中部大学国際学部教授を経て、現在、広島大学総合科学部教授。
主な著書に、『朝鮮の祭りと巫俗』(第一書房、1980年)、『韓国のシャーマニズム』(弘文堂、1984年)、『韓国の祖先崇拝』(御茶の水書房、1992年)、『日本植民地と文化変容』(御茶の水書房、1994年)、『恨の人類学』(平河出版社、1994年)等がある。