ホーム > 中国北方農村の口承文化

中国北方農村の口承文化

語り物の書・テキスト・パフォーマンス

中国北方農村の口承文化

河北省農村に伝わる「樂亭大鼓」の優れた口頭創作性を民族音楽学の観点から分析、「無文字文化」としての中国文化に焦点をあてる。

著者 井口 淳子
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 1999/03/03
ISBN 9784938718398
判型・ページ数 A5・254ページ
定価 本体4,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

えがき 

序 章 対象と方法 

 一 中国農村口承文化として 
 二 民間文学として 
 三 語り物として 
 四 研究方法 

      ●第一部 口承文化の成立

第一章 地域文化としての樂亭大鼓 

 一 樂亭地方 
 二 農村の生活 
 三 語り物藝人 

第二章 ジャンルの形成 

 一 ジャンル形成の歴史──樂亭大鼓はいつ、どのように成立したのか 
 二 形成史上の五つの問題 
 三 名藝人伝記 
 四 まとめ──一九世紀の樂亭大鼓 

第三章 樂亭大鼓の位相 

 一 曲藝史のなかの樂亭大鼓 
 二 樂亭大鼓をめぐる芸能ジャンルの相互関係 
 三 まとめ 

      ●第二部 口承文化の生成

第四章 樂亭大鼓の書──文字テキストの創作 

 一 書詞と鼓詞 
 二 語り物作家──その創作の手法 
 三 まとめ 

第五章 テキストの伝承から演唱へ 

 一 小段と大書の習得法 
 二 淌水と死詞 
 三 上演のなかで生成されるテキスト 
 四 まとめ 

第六章 音楽パフォーマンスとテキスト 

 一 うた 
 二 語り 
 三 発声・身ぶり・伴奏 
 四 パフォーマンスが構成する物語 

終 章 結語 

あとがき 

参考文献 資料 譜例 
索引

このページのトップへ

内容説明

河北省の農村に伝わる「樂亭大鼓」は、「曲藝」「説唱」と呼ばれる演唱音楽の一つで、「文盲」の演者によって口承されてきた。その優れた口頭創作性を、民族音楽学の観点から分析し、「無文字文化」としての中国文化に焦点をあてる。


*********************************************


まえがき 井口淳子

樂亭(現地の発音でLaoting)の村の夏の夕暮れどき、一日の畑仕事を終えた農夫が牛の尻をうちながら村に戻ってくる。やがて陽がとっぷりくれると、どこからか太鼓の軽快な音がきこえてくる。「書来了!(語り物がやってきた!)」と、村のあちこちから老若男女が集まってくる。すでに、語り手と大三弦を抱えた伴奏者をかこんで数百人の村人が、かたずをのんで語り物の始まりをまちかまえている。突然、鼓の音が止む。一呼吸をおいて、語りの藝人が小段をうたいだす。小段は典雅な韻文をつらねた「うた」である。半時間くらいの小段が終わると、いよいよお待ちかねの長篇もの「大書」にうつる。大書のだしものは伝統的な勧善懲悪の歴史物語だ。人々が親しんできた物語世界が語り手の「声」一つで現実の出来事に成り変わる。天下無敵の英雄や、比類なき佳人が人々の眼前に鮮やかにその姿を現わす。夢見心地のひとびとを満天の星が照らしている……。


北京から河北省東部に至る汽車の窓からは、小麦畑が地平線まで続く華北平原の景色が切れ目なくみえる。この一〇年の間にこの景色はすでに私にとってなつかしいものとなっている。華北平原、このような大地に小さな村落が数キロおきに在り、一つ一つの村にはその固有の歴史があり、豊かな口頭伝承や芸能が伝わっているということが一見信じられないような単調な風景である。数百キロにわたって延々と同じ風景が続く華北の農村地域のそのただ中にいて、この農村地域を茫漠な不毛世界と捉えるのではなく、細密にひとりひとりの老百姓(民衆)と同じ目の高さでかれらが伝えてきたものを見てみたい、そのように感じた初心がおそらく今日に至るまでの研究を支えている。


しかし、一九八八年、対外開放後間もない樂亭県を初めて訪れたときは、その県城の土煙舞う街の風情や、県城から村むらにつながる公路沿いの風景の単調さに、本当に自分のもとめるものがここにあるのだろうか、と半信半疑であった。そして、個々の村に入ってからも、村に伝わる豊かな口承文化がその姿をあらわすまでのしばらくの間は、「村には何もないのではないか」と不安にとりつかれるような雰囲気に満ちていた。人々の無表情さや、方言という以上に耳慣れない土語(土地のことば)や、最後までどうしてもなれることができなかった地方独特の習慣など……。しかし、河北の村の人々は、私の期待を裏切らなかったばかりでなく、こちらが浅はかに予想していた以上の充実した体験と、大きな課題を与えてくれた。


本書は中国河北省樂亭県、?南県に伝わる「樂亭大鼓」という一つの語り物ジャンルを対象としている。しかし、研究の目的はこのジャンルそのもの、あるいはそのなかにあるのではない。このひとつのジャンルを通して語り物のみならず、ひろく中国農村の口承文化全体に通じる問題を解明することこそが本書の最終目的である。その問題を解くために、もし適当なものがあれば他の語り物ジャンルでもよかったのである。いくつかの偶然が筆者を樂亭大鼓に引き合わせただけのことである。こういった姿勢は、従来の、中国を守備範囲とする民族音楽学者にとっては不可解に映るかもしれない。たしかに、多くの民族音楽学者にとって、ジャンルとは研究目的、研究方法など全てを決定する要因であり、最終的に解明すべき問題もそのジャンル内にあったはずである。そういった研究の傾向として、ジャンルを地域文化という脈絡とは関わりなく扱うことや、特定のジャンルの歴史的研究、また、音楽構造の分析から当該ジャンルの音楽特性を導き出すなどといった研究方法がみいだせる。


では筆者にとって、ジャンルにかわってそのような決定要因となるものは何であるのだろうか。それは、樂亭大鼓を特定のジャンルとしてではなく、「口承文化(oral tradition)」として対象化すること、ということになる。口承文化とはその字のごとく、文字文化をその対極に置きつつ、口頭で伝承され、口頭でテキストを創作する、そういった伝承と創作の営為のなかにみとめられる「口頭性」を最大の特徴とする文化である。樂亭大鼓は農村地域にある無数の口承文化の一事例としてとりあげられることになる。


しかしながら、たとえ偶然であるにしても、筆者が樂亭大鼓という河北省農村の語り物ジャンルに出会わなければ、このような研究方向は見いだされなかったことも事実である。樂亭大鼓と出会ったとき、すなわち、樂亭大鼓の藝人にはじめて出会ったとき、かれらの多くが非識字者であり、それにも関わらず、(というべきか、それゆえにというべきか)語りきるのに数週間、数ヶ月かかる長篇物語をレパートリーとしていることを大きな驚きをもって知った。もし、他のジャンルと出会っていて、そのような衝撃がなかったとしたら、こういった研究方向にはならなかったはずである。そういう意味では、やはり事例となるジャンルに強く拘束されているわけである。樂亭大鼓はその特徴として、短篇ものより長篇ものに重点を置き、その長篇においては、唱(うた)の部分の唱腔(ふし)や板式(速さと拍子とリズムの程式)はごく単純なものである。本書が語り物を扱いつつも、その音楽的側面についてはあまり紙数を割かず、「テキスト」──その伝承と創作のプロセスに主眼を置いているのも、対象事例の性格に依っている。そして、樂亭大鼓をとりまく地域がもつ特徴として、樂亭地方の方言的境界が比較的明確であること、すなわち口承文化を共有する地域としてのまとまりをもちやすい地域であり、大鼓以外にも評劇、樂亭影戯という口承文化が同一地域内で伝承されていることがあげられる。(他の語り物すべてにこのような条件が当てはまるわけではない。)このように、具体的な事例が定められた以上、その対象文化がいかなる地域の文化であるか、という「地域文化としての樂亭大鼓」という捉え方がもうひとつの研究の枠組みとなる。口承文化とそれを生み育てた地域の関係は、具体的な一ジャンルを精査することを通してのみ明らかになる。


本書が樂亭大鼓を通して明らかにしたいと考える問題は、大きく二つに分けられる。ひとつは、口承文化の伝承と創作のプロセスである。とくに「口頭創作」とよばれる、演唱者が文字を用いずに語り物テキストを創作するそのプロセスを、語り物という格好の事例を通じて明らかにすることである。その際に、口承といっても文字と無関係にあるのではなく、両者の関係は複雑な関わりをみせており、その様相には中国の口承文化全体に共通する普遍的な特性が見いだせると考えている。もうひとつは、樂亭大鼓という比較的閉鎖的な空間内で伝承、演唱されるジャンルを精密に調査することを通して、中国の多くの地方文化に共通する伝播や伝承の特性を描き出したいということである。


冒頭で研究方法についてこのような前置きをおこなうのは、筆者がこれから行なおうとする考察に先立つモデルとなるような研究が、従来中国、国内外にあらわれていないからである。とくに、中国国内には方法論上の参考とするべき研究は存在しなかった。樂亭大鼓のような県レベルでしか流布せず、歴史的にも音楽的にも他のジャンルを圧倒するような特徴をもたないジャンルを対象に選ぶこと自体、伝統的手法を守る中国人研究者にとっては驚きであろう。かれらにはまず対象それ自体が研究に値すべき芸術性、あるいはその他の価値をもつかどうかということが出発点にあるからである。したがって、外国人がこのテーマを選ぶことには通常いわれるようなハンディは生じなかったのかもしれない。ハンディどころか中国人であれば、まず、選びようもないテーマといえよう。筆者がとろうとする方法論は、欧米のフォークロア研究の新たな潮流(七〇年代から始まったテキストをとりまくコンテクストや語りのパフォーマンス的側面を重視する方法論)と民族音楽学、文化人類学、社会史研究などから少なからず影響を受けている。とくに、筆者の専攻分野が民族音楽学であることから、語り物テキストを扱いながらも、つねにテキストを口頭パフォーマンスとの関わりの中におく、という基本姿勢は本書を貫いている。とくに文化人類学とその隣接諸学においてはliteracyとoralityをめぐる研究[R. Finnegan 1981、W. J. Ong 1982、J. Goody 1977ほか]、社会史研究においては民衆文化としての読書や読書行為に関する研究[R・シャルチエ 一九九四、J・ルゴフ 一九九二ほか]によって刺激をうけた。中国がすぐれて文字文化圏であることは否定できないが、実は、その大部分が非識字かそれにちかい状態の農民によって占められていることは、無文字文化やヨーロッパの中世民衆文化を対象とした研究のなかに数多くの共通する問題を見いだすことになった。


中国国内の研究蓄積からは主として資(史)料面で恩恵を受けた。とりわけ、地元の研究者、あるいは各地方に在住する「曲藝工作者」とよばれる曲藝(語り物の総称)に直接関わるひとびとが、学問的な目的をもたず(したがってあらゆる学問的偏見とも無関係に)自らの足で集めた一次資料は、本書に不可欠な基礎資料となっている。(筆者と樂亭大鼓のめぐり会いを周到に準備してくれたのも、その後、惜しみない協力を与え続けてくれたのも、中央では無名のこういった曲藝工作者とよばれる方々である。)


本書の基礎となった現地調査は一九八八年にはじまり一九九五年まで五回、のべ三ヶ月間にわたっておこなわれ、それとは別に一九九三年から一九九四年にかけて九ヶ月間、北京を拠点に主として文献資料調査を行なった。そして一回一回の調査が終わるたびに発表してきた論文、口頭発表の一部が本書の一部を構成している。新たに書き下ろした一部を加えたこの一〇年間の調査とその成果のまとめが本書であるが、本書自体、一九九八年二月に大阪大学より博士(文学)の学位を取得した論文「中国北方農村の口承文化──語り物の書・テキスト・パフォーマンス」をほぼ踏襲して編まれている。


大阪大学大学院文学研究科在学中に始まった現地調査はすべて共同調査ではなく個人でおこなってきた。現地での受け入れ機関は河北省樂亭県文学藝術界聯合会と?南県文化館である。現地では数多くの曲藝関係者に協力していただいた。いうまでもないことであるが、調査の目的と方法を真に理解できる協力者なしに現地調査は成立しない。ことに価値観の急激な変化が起こっている現代中国の場合、真の協力者が得られず途中で挫折する現地調査は数多いときいている。


国外内の調査・研究に対して以下の助成や、制度による恩恵を受けたことも記して感謝したい。まず、一九九三年には松下国際財団より海外調査に対する研究助成を受けた。一九九三年から九四年にかけては中国藝術研究院音楽研究所(喬建中所長)に訪問学者として籍を置き、中国国内での資料収集に便宜をはかっていただくとともに、欒桂娟研究員による指導を受けることができた。一九九三年四月から九六年三月にかけては日本学術振興会特別研究員(国立民族学博物館外来研究員)として平成五、六、七年度文部省科学研究費特別研究員奨励費(研究題目「中国北方農村における口承長篇物語の伝承と創作に関する研究」研究代表者佐々木(井口)淳子)の交付を受けた。

*********************************************


著者紹介
井口淳子(いぐち じゅんこ)
1961年、兵庫県生まれ。1993年、大阪大学大学院博士課程単位取得退学。日本学術振興会特別研究員を経て、1998年、大阪大学博士(文学)学位取得。
現在、大阪音楽大学専任講師。専攻、民族音楽学。
主な編・共著に、『地球の音楽──フィールドワーカーによる音の民族誌』第60~62巻(1992年、日本ビクター)、『音と言葉』(1993年、音楽之友社)、『音のフィールドワーク』(1996年、東京書籍)、『小さな音風景へ──サウンドスケープ七つの旅』(1997年、時事通信社)など。

このページのトップへ