目次
山口さんの情熱(青柳真智子)
待望の文献目録の発刊を喜ぶ(高山 純)
はじめに(山口洋兒)
凡例・編集ノート(中西裕二・中村茂生・飯高伸五)
総説(山口洋兒)
一 総記
第一部 個人著作
二 紀行・航海記
三 人物・回想
四 創作
第二部 南洋進出
五 南進論
六 南洋の歴史
七 地誌・地理
八 案内・パンフレット
第三部 官公庁
九 報告書・資料
一〇 教育・児童
一一 宗教
第四部 学術
一二 民族・考古
一三 民話・伝説
一四 言語
一五 自然科学
一六 医学
第五部 付録
一七 写真帳・図録
あとがき
付編
収録文献一覧(五〇音順・刊行年順)
索引(人名・法人・機関・事項)
文献内容検索表
雑誌論文抄録
戦記文献抄録
内容説明
紀行・殖民・民族・言語・軍事・統計など、明治から終戦に至るまでの南洋に関する文献を網羅。随一のコレクターでもある編者が、内容を簡潔に紹介、さらに雑誌記事一覧・戦記目録および分類索引を付す。(序 石川栄吉・青柳真智子・高山純)
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はじめに 山口洋兒
現在、ミクロネシアと呼ばれている旧日本委任統治領南洋群島に関する文献・資料の収集を始めてから三〇年近く経ってしまった。
私の家系は祖父の代から三代にわたってマリアナ群島と深い関わりがあった。祖父山口百次郎がサイパン島に渡ったのは大正三年である。海鳥の羽の密漁船に乗り込んだその途中、第一次世界大戦が勃発しマリアナ諸島の無人島に置き去りにされてしまい、やっとの思いでサイパン島に渡ったのである。それから苦労を重ねて当時南洋一と言われた料亭をつくるまでになった。その一人娘である母と結婚した父は南洋興発株式会社の社員であった。私自身もサイパン島の生まれであり、父は第二次世界大戦の終了とともにテニアン島で亡くなった。こうした私の個人史が旧南洋群島への思い入れをひときわ強いものにしていたのである。
戦後の日本は、第二次世界大戦の心の傷痕からか、日本人特有の過度の反省からか、太平洋の島々に関してはあまり研究テーマとして取り上げられず、わずかに人類学や考古学の少数の人々が注目していたにすぎなかった。それゆえ関係資料や研究書は古書店の片隅にほこりにまみれて積まれているだけであった。そうした光景をみると私は心が痛み、一冊、また一冊と入手していった。そのうち、生来のコレクション癖が頭をもたげ、すっかり文献収集に入れ込んでしまうことになったのである。
これまで集めた資料は、単行本で三〇〇〇冊、雑誌で八〇〇点ほど、これに絵はがき、新聞、各種パンフレット類、公文書など三〇〇点以上。おかげで小生の狭い書斎は古本の山に埋もれ、見た目は汚いし、臭いはするしで、家族の評判は誠によろしくない。それでもいつの間にか関係者の間では、南洋群島の邦文関係資料コレクションとしては世界でも有数と言われるようになってしまった。日本国内の大学はもちろん、ハーバード大学ライシャワー研究所やハワイ大学、コロンビア大学、グアム大学など海外の研究機関からも研究者や学生さん方が訪ねて来られるようになった。
文献談義はもとより好きな道であり来客大歓迎である。だが家人は悲鳴をあげた。これには困り果てるとともに、コレクションを私物化せず、なんとか多くの人々に利用していただけないものかと、日に日に思うようになった。こうした願いが募る中、財団法人アジア会館がこの資料で同会館内にアジア太平洋資料室を開設してくださることになったのである。こうなると今までのように、適当に積み上げておくわけにはいかず、コンピューターを使った整理にも必死で取り組まなければならなくなった。
また、コレクションを始めてから、いろいろの研究者の方々や論文に出会ううちに、引用文献として邦文のものが異常に少ないことに気が付いた。これはどういうことかと尋ねてみると、日本統治当時の文献が少なく、入手が困難であること、また戦争を境に戦前からの研究を継続できなくなったこと、さらに研究の後継者がいなくなってしまったこと、などが理由のようであった。
そこで、こうした現状を知った私は、私が集めたコレクションそのものを紹介するだけでもたいそう意義のあることだと考えたのである。これが季刊である日本ミクロネシア協会の機関誌『ミクロネシア』誌上に文献紹介を連載することになった動機である。これまでに二一回の連載を終え、一応戦前篇として一段落ついた(一部戦後のものを含む)。発行年代順に整理して紹介すればよかったのだが、実を言うと、小生の本棚のはじから始めてしまったもので、年代は前後するし、連載中に興味ある新刊が出版されるとその都度取り上げたりしたので、誠に雑然としたものになってしまった。今回単行本にするにあたって、この点の修正に工夫を凝らしたが、さまざまな興味をもって本書をひらくであろう読者諸氏にとって、必ずしも便利な配列にはなっていないだろう。そういった不備を多少なりとも補うために、巻末の索引をできるかぎり精緻にしたつもりである。
さて、ここ二〇年ばかりで、南洋群島を研究対象として選ぶ研究者は、着実に増えている。それも不思議なことに女性が多い。東大、お茶の水女子大、東京女子大、立教大、成城大、成蹊大、早稲田大、津田塾大、日本女子大、相模女子大、青山学院大、明徳女子短大、北海道東海大、帝塚山大、大阪女子大など、女性研究者の勢ぞろいである。その分野も太平洋考古学、人類学、民族学、経済史、音楽、移植民史、国際関係論など、多岐に渡っている。私のような立場の者が、資料研究という縁の下の力持ち的役割を担って陰からお手伝いできるのは、嬉しい限りである。私は長い間旅行業などという職業についていた関係で、二五〇回以上の海外旅行をした。その間ヨーロッパ各地の古書店、大学、博物館、アメリカ、オーストラリア、東南アジアなどの研究機関を訪ね、いろいろな資料・文献に目を通してきた。こうした知識と文献を若い学徒に利用していただけるのも楽しいことである。
南洋群島関係文献・資料をどのようにして集めるのかと良く聞かれるが、やはり一番の狩場は古書店や古書展であろう。毎週一回送られてくるカタログに目を通し、ヒマがあれば神田、本郷、早稲田、中央線沿線などの古書店廻りが、何よりの楽しみである。足繁く古書店に顔を出していると、私の顔を見ると奥の方から南洋群島資料などを出してくれるようになる。こうなればしめたもの。ただ、このところ、移植民関係文献の値が上がり、昭和一〇年代のハードカバー本は最低四〇〇〇円以上となってしまった。先日も知人で大学の後輩にも当たる古書店の若主人にぼやくと、「それは貴方のせいだ」と言う。何故かと聞くと、「貴方があまりあちらこちら古書店を廻って南洋群島物と言って騒ぐから、古書店の市場で皆が南洋群島物を競り上げてしまう。自業自得ですな」と言われてぐうの音も出なかった。
また、南洋群島関係資料で、意外に入手困難なものは、現地人児童教育に使われた南洋庁発行の日本語教科書である。なかなか入手出来ずに困っていた。仕事でサイパン・ロタ・パラオ・トラック・ポナペなどに行くことがあったので、現地の教育局や元日本語の先生などに頼んで、「当時の教科書を持っていたら、是非見せて欲しい」と全島へ向けてラジオ放送をしてもらったこともあるが、まったく反応がなかった。ところが、サイパンで元教師の現地人から、「昔、教科書に貴方のおじいさんのことが出ていたよ」と聞いた。驚いた私は二、三人他の現地の人々に聞いてみたところ、皆そうだと言う。「自分のおじいさんのことが教科書に出ているのに知らないのか」と大笑いされてしまった。
こうなると、どうでもその本が欲しくて、東京中の古本屋を足を棒にして探し廻ったが発見できなかった。ところが去年暮れに神田の古書展を覗いて見ると、古い教科書が積んであり、その一番上に『南洋群島公学校本科読本 南洋庁』とあるではないか。私は震える手で恐る恐る取り上げてめくって見ると「アッタ」。
「美しい心」という題で、祖父が現地人に助けられた話が、美談として載っている。夢ではないかとあたりをみまわし、二〇〇〇円を払って我がものとした。後に『教科書要項』を入手し、編集者・芦田恵之助が祖父の経営する旅館に宿泊し、直接祖父から聞いた話である事が確かめられた。
こんな事があるから、文献収集は止められない。だが何時も成功するとは限らない。
数年前に文庫本で当時推理作家の大御所といわれた大作家の「S日記」を読んでいると、ある家で明治期の文献集を見たがそのなかに元勲の一人榎本武揚の建白書「ラドローン(マリアナ)群島買収案」を見たとあった。伊藤博文や山県有朋などの捺印もあったとある。こりゃ大変だ、是非一見に及ばなければと、丁重に所在を知らせてくれるように手紙を書いたが見事に無視された。さればと大学時代の友人が週刊文春の編集長をしていたので、彼を通じてお願いしてもらったが、剣もほろろに断られた。それでもあきらめきれずに、知り合いの出版社の人、新聞社の友人を頼んで、再度、「別に出版物に使うわけではないから」と頼んでみたが、仕事が忙しいからと一言のもとにはねつけられた。
大作家M氏は翌年亡くなられてしまったので、とうとうこんな重要な資料の行方はわからなくなってしまった。いずれまた、出てくるだろうが、今考えても口惜しくて仕方がない。こんな事もまた、収集を止められない理由の一つである。
長々と駄文を書いてきたが、要するに好きなのである。趣味がこうじて云々というが、古本の中に埋まって、入れかえたり、並べかえたりしているときが、私の一番幸せな時なのである。
このような、駄文に日頃お世話になっている東京都立大学名誉教授の石川榮吉先生、立教大学名誉教授・青柳真智子先生、帝塚山大学の高山純先生から身に余るお言葉をいただいたことは望外の幸せである。また、本書の出版にあたっては福岡大学の中西裕二先生にご尽力を頂き、風響社とのご縁を取り持って頂いた。また編集や校正には岐阜女子大学の中村茂生先生、東京都立大学大学院生の飯高伸五さんの多大なご協力を得た。また、「ミクロネシア」に連載するにあたっては、同協会の伊藤るみ子さんのお力添えをいただいた。記して感謝の意を表したい。
戦後発行されたミクロネシア関係文献は、ちょうど戦前の文献と同じくらいの量になってしまった。もし、これからもまだ私に時間が与えられるのなら、これらを皆さんに紹介できる日が来ることを熱望しつつ。
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凡例
本目録は社団法人アジア会館アジア太平洋資料室の蔵書資料を中心として、主として第二次世界大戦以前に発行されたミクロネシア関係の邦文文献の体裁・内容を紹介するものである。アジア太平洋資料室は、編著者の山口洋兒氏が長年収集してきたミクロネシア関係資料を基に開設されたものである。したがって、ここにミクロネシア関係の文献全てが網羅されているわけではないが、日本統治期の蔵書としては随一のものなので、本目録によって調査研究の見当はつけられるものと考える。また本目録の解題は、戦前ミクロネシアに居住していた編著者が独自の観点から行ったものである。それは学術的な観点からすれば必ずしもニュートラルな分析ではないが、在住の実体験と長年にわたる文献渉猟に基づいた生の記録でもあり、一般読者はもちろん研究者にとっても様々な観点から参考になると考える。
なおアジア会館アジア太平洋資料室の利用方法等に関しては、現時点では未定である。
○収録範囲
〈年代〉基本的に明治・大正・昭和戦前に限ったが、執筆時期が戦前であったり、内容が日本統治下のミクロネシアに関するものは、戦後の刊行物であっても収録したものもある。また、復刻・再刊は原則として初版の解説末尾に紹介したが、書名を改めたり、内容が大幅に改変されている場合は当該年度に再出した。
〈形態〉単行本・雑誌の他に、自家出版物、観光案内の冊子やパンフレット、官公庁の報告書・資料、会社の内部資料、写真帳などを収めた。
○分類
編著者の総説にも述べられているように、資料の内容から読者の利用しやすい分類をめざした。各分類の中では発行年の順とし、同年のものは月日の順としたが、一部月日不明のものについてはその年度の末尾においた。発行年や創刊・廃刊年が不詳のものについては、類推して配列するか、分類の末尾に置くかのいずれかにした。また、一部の項目は複数の分類に重出したが、それらはタイトル脇に「*」を付すことで示した。
○項目の細目
〈番号〉全収録文献の通し番号とした。索引はこれによる。
〈タイトル〉表紙または奥付記載のものを用いたが、副題やシリーズ名の中で解題にまわしたものもある。〈〉は公文書類、「」は雑誌を示す。
〈著者・編者〉表紙または奥付記載のものとしたが、一部本文等から類推したものもある。
〈発行所および発行年〉右に同じ。
〈解題〉内容の紹介のみにとどまらず、編著者の体験を踏まえた批評が加わっているものもある。
〈判型および頁数〉判型はおよそのサイズで当てはめた。頁数は本文・口絵・奥付など内容の合計。
○表記
原則として新字を用いた。仮名遣いはタイトルおよび引用部分に限り原文を用い、その他は現代仮名遣いに改めた。
以下いくつかの特殊な用語や表記について付言しておく。
○島民──日本統治下ミクロネシアのネイティブは、当時の資料では「島民」と表記されることが一般的であった。当時「島民」という用語には少なからず差別的な含意があり、蔑称として用いられた場合もあったので中立的な用語ではない。「現地人」「現地住民」という一般的な表記に加えて、解題では「島民」という用語が使われているが、編著者の体験に根ざしたものであるため、そのまま用いている。
○酋長──ミクロネシアはマリアナ諸島のチャモロを除いて、首長制が広範に見られる地域である。解題では「首長」という用語ではなく、「酋長」という用語を用いている。この用語は、差別的な含意があるとされて近年学術的にはあまり使用されていないが、日本統治下のミクロネシアでは一般的に用いられていた。解題では、「酋長」という用語が編著者の体験に根ざしたものであるため、そのまま用いている。
○地名──ミクロネシアの島々の名称の表記は一九七〇年代以降、島嶼国の独立への動向のなかで公定化されていったが、その際に従来の一般的な表記からの変更が行われたものもあった。しかし本目録では原則として日本統治時代に用いられていた日本語の表記を用いている。なお名称の表記が変更された主要な島々に関して、当時の英語表記・日本語表記と、現在の英語表記・日本語表記との違いを示すと以下の様になる。
Kusaie クサイ(クサイエ) → Kosrae コシャエ(コスラエ)
Ponape ポナペ → Pohnpei ポーンペイ
Truk トラック → Chuuk チューク
Palau パラオ → Belau ベラウ(英文表記ではPalau。その場合の日本語表記はパラオ)
○備考
本目録中、一部書誌情報が不十分なものがある。これはアジア会館アジア太平洋資料室の蔵書資料中に現物が存在しないためである。編著者は他の研究機関で閲覧した上でこれらの解題を書いた。しかし目録作成の段階では逐一これらの現物を確認する時間的余裕がなかったために十分な情報を提示できなかった。
また巻末の付録「雑誌文献抄録」および「戦記文献抄録」は、現物やコピーが資料室に現存しているものも多いが、基本的に編著者の私的なメモをもとに作成したものである。そのため、すべてが網羅されているわけではなく、また書誌情報に不正確な点も存在しうる。しかし日本統治下ミクロネシアに関する研究が十分に進展していない現状を考慮して、本書に収録した。書誌情報の更なる精緻化は、今後の課題としたい。
(文責・中西裕二・中村茂生・飯高伸五)
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編集ノート││南洋群島研究における本目録の位置づけ
日本の植民地地域の拡大と軌を一にして、戦前の各植民地や占領地域に関する日本語の出版物はおびただしい数にのぼった。しかし戦後になると植民地地域自体への関心が低下し、一九六〇年代までは各地域を対象にした研究はほとんど行われなかった。日本統治下ミクロネシア(南洋群島)に関しても同様に、この時期には官公庁が資料編纂を行うにとどまっていたが、そこでは日本の統治が当該地域に「文明化」をもたらしたという肯定的評価が、戦前から連続して前提とされていた。こうした観点は、一九八〇年代以降行われるようになった一部の歴史的研究のなかにも引き継がれていった。しかし近年、植民地研究の隆盛にともなって、南洋群島の統治政策に関する批判的検討や当時の社会変化に関する分析が、資料の詳細な検討を通じて様々な分野で行われるようになった。
こうした近年の研究動向のなかで、山口氏の収集資料は重要な位置を占めるようになっており、近年の研究成果はこれらを通じて生産されているものが少なくない。このことは、日本の南洋群島統治政策を分析した戦後初めての単著、Nanユyo : The Rise and Fall of the Japanese in Micronesia, 1885-1945(1988, University of Hawaii Press)を著したマーク・ピーティー(Mark Peattie)が、資料収集の調査旅行において山口氏に多くを負った旨を謝辞に記していることに象徴されている。また野村進著『海の果ての祖国』(一九八七年、時事通信社)や高知新聞社編『夢は赤道に――南洋に雄飛した土佐の男の物語』(一九九八年、高知新聞社)などのルポルタージュの編纂過程においても、山口氏は資料の提供者として、また当時を知るインフォーマントとして重要な位置を占めている。したがって、山口氏の収集資料を基に開設されたアジア会館アジア太平洋資料室の蔵書資料を中心とした本目録は、研究上非常に有効なものとなり得よう。
ただしその特殊性に関しても留意しておく必要がある。本目録は、戦前サイパン島、ロタ島、テニアン島で生活していた山口氏が、戦後長きにわたって個人的に収集してきた南洋群島関係資料に、自身の体験も踏まえながら解題を付しているという点で特徴的である。山口氏は幼い頃に暮らしていた南洋群島への深い関心やあこがれから、南洋群島関係の文献資料を収集し続けている。その関心は単なる知的好奇心に回収することが出来ないもので、自身のルーツ探しでさえあるように思われる。いわば本書はそれ自体で、ある一人の旧南洋群島移民がたどった軌跡でもある。それだけに山口氏の解題は学術的な観点からのニュートラルなものではない独特の視点が色濃く反映されている。そこにはややもすると、近年の植民地研究の流れや支配の言説分析およびイデオロギー批判に逆行するような視点も含まれている。しかしそれはある旧南洋群島移民の視点を反映した一つの現実に他ならないこと、および山口氏の長年にわたる資料収集は、現地の社会や文化に対する深い愛情や敬意に支えられたものであることを熟慮すると、解題はそのまま一つの南洋群島史として読むべきと考える。
植民地状況で生産された資料とはただ研究者のみのものではない。一方でそれは被植民地化された過去を持ちながらも新しい国家の建設途上にある現地住民のみが、かつての植民者から奪還し、独占すべきものでもない。重要なことは資料の所有権ではなく、かつての植民地状況に参入した様々な行為者が様々な形態で資料を領有し、過去を解釈しうるということである。
本書がカバーしきれなかった資料についても言及しておくべきであろう。沖縄県出身の旧移民は戦後、かつて居住していた島ごとに、沖縄ロタ会、沖縄サイパン会、沖縄パラオ会、沖縄ポナペ会などを組織し、不定期に会誌を発行している。また沖縄県をはじめとする旧南洋群島移民の母社会においては、地方史の編纂事業が進展し、引揚者への聞き取り調査、資料や生活史の収集が行われている。これらの移民関係の資料については流通が限定されているものもあり、すべてを把握できているわけではないので基本的に収録されていない。
防衛庁防衛研究所戦史室図書館、外務省外交史料館所蔵の資料については、資料室にコピーが所有されているものでも、一部を除いて基本的に割愛した。これらについては今後の研究成果を待ちたい。ちなみに軍政期の海軍関係の資料が含まれている『大正戦役戦時書類』は、マイクロフィルム資料、Microfilm Reproductions of Selected Archives of the Japanese Army, Navy, and Other Government Agencies, 1868-1945に収められている(本資料の目録は、Young, John (comp.) 1959 Checklist of Microfilm Reproductions of Selected Archives of the Japanese Army, Navy, and Other Government Agencies, 1868-1945. Georgetown University Press)。また琉球大学附属図書館には、植民政策学者の矢内原忠雄が戦前調査旅行を行った際に収集・作成した、南洋群島関係の資料が所蔵されている。その蔵書リストは、同館のホームページでも公開されている。これらを本目録と合わせて参照すると有効であろう。
最後に編集作業にあたったメンバーと、作業の手順を記しておく。一九九三年から雑誌『ミクロネシア』(八九~九〇号、九二~一〇六号、一〇八~一一〇号、日本ミクロネシア協会)およびその継続誌『パシフィック ウェイ』(一一二~一一三号、太平洋諸島地域研究所)に連載中である「ミクロネシア資料文献解題」のうち、戦前の書誌に関する部分を単行本化したらどうかという意見が、最初に中西裕二から出された。山口氏がこれに同意し、中西の紹介により風響社の石井雅氏と話し合った結果、同社より単行本として出版することが決定された。続いて連載原稿の入ったフロッピーディスクをもとに、石井氏と中西とによって収録文献のデータベースが作成された。データベースの情報は、一点一点、現物の文献と照合されることで誤りが修正され、不足は補われた。これらの作業は、おもに中村茂生と飯高伸五が担当した。巻末の索引はデータベースを基にして石井氏が作成したが、用語の選定は中村と飯高が行った。この間、石井氏、中西、中村、飯高が山口氏と数度にわたって編集会議を開き、凡例どおり編集方針を確定した。
編集作業班
中西 裕二(福岡大学)
中村 茂生(岐阜女子大学)
飯高 伸五(東京都立大学大学院)
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編者紹介
山口洋兒(やまぐち ようじ)
昭和10年、南洋群島サイパン島に生る。
昭和19年、テニアン島より引揚命令により内地に。
昭和35年、早稲田大学卒業。合同酒精(株)入社。
昭和45年、(株)アサヒトラベルインターナショナル入社。
平成5年、退社。
平成6年、日本ミクロネシア協会入会。
平成8年、(社)アジア会館にアジア太平洋資料室開設。同室長となり現在に至る。