内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集 第一集
散逸し消滅しつつある貴重な資料を影印集成。乾隆2年~1953年に至る200余年の土地権利書、契約書等126点を収録。
ジャンル | 書誌・資料・写真 |
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出版年月日 | 2011/05/25 |
ISBN | 9784894896116 |
判型・ページ数 | A4・616ページ |
定価 | 本体12,000円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
●解説
●モンゴル語文書
MQ1 スニトのドゥーレン郡王の書簡(人を逮捕する件) 乾隆2(1737)年晩秋9日
MQ2 乾隆13(1748)年以降の帳簿 乾隆13(1748)年10月17日
MQ3 乾隆50(1785)年2月以降の寺院の大殿、チャム用具、南北の寺の支出帳簿
MQ4 乾隆51(1786)年2月以降の寺院の大殿、飾り付け[の支出]、建物賃貸の収入、南北の寺の支出、大倉の支出の帳簿
(中略)
MQ10 報告書:大倉の東スルグを調査する件 嘉慶5(1800)年仲秋15日
MQ11 報告書:嘉慶6(1801)年仲秋15日の調査で得た寺院所有家畜数 嘉慶6(1801)年初冬
MQ12 帳簿:嘉慶9(1804)年正月17日以降の寺院の財産目録 嘉慶9(1804)年
MQ13 帳簿:嘉慶10(1805)年寺院の財産の帳簿 嘉慶10(1805)年
(中略)
MQ17 上奏文:延寿寺掌印ラマが耕地をとりもどすために梅林章京衙署におくった書簡 道光6(1826)年3月
MQ18 上奏文: 大倉の西スルグを調査する件 道光9(1829)年10月
(中略)
MQ26 申請書:本寺院のバンディ(沙弥)トゥグスジャルガルのための通行許可書をゲスグイ(寺院奉行)に申請する件 同治7(1868)年閏4月
MQ27 申請書:本寺院のバンディ(沙弥)オチレンガーのための通行許可書をゲスグイ(寺院奉行)に申請する件 光緒3(1877)年3月
(中略)
MQ31 帳簿:宣統2(1910)年2月以降の寺院の1年間の地租と支出を記録した帳簿 宣統3(1911)年
MZ1 執照(通行許可書):チンギス・ハーン[廟]の祭具を修理するため出張するバダマーなどにあたえた執照 中華民国22(1933)年壬酉閏5月18日
MZ2 中華民国24(1935)年の寺院の1年間の土地、地租、小作料の帳簿 中華民国24(1935)年
MCh1 帳簿:チンギス・ハーン紀元733(1938)年腊(12)月以降、僧侶に割り当てられた小麦粉、肉の帳簿 チンギス・ハーン紀元733(1938)年
MCh2 帳簿:チンギス・ハーン紀元734(1939)年10月23日以降の大法会の布施の明細 チンギス・ハーン紀元734(1939)年
(中略)
MD1 申請書:ハムルダイの塩池をヤルガイ会社に一年間賃貸する契約書に政府の公印の押印を要望する件 (年代不明)晩冬13日
MD2 書簡:大衆が土地を開墾しないようにとうったえた、ホボル監視所宛ての手紙 甲子(1864?1924?)年晩冬(文字不明)日
●マンジュ語・中国語合璧文書
Man-C1 執照(マンジュ語・漢語の土地契約書) 乾隆56(1791)年11月初9日
●中国語文書
CQ1 土地契約書:劉建宝が土地を白玉に貸した契約書 嘉慶8(1803)年9月25日
CQ2 土地契約書:程歩闘が土地を呂本章にうった契約書
(咸豊11[1861]年11月20日の、土地を張培月に貸した契約書がうしなわれたため、同治2[1862]年11月15日に、土地を呂本章にうったことについて再契約)
同治2(1862)年11月15日
CQ3 土地質入契約書:公中仏廟の六十五、力馬が土地を武成に質入した契約書 同治11(1872)年5月15日
(中略)
CZ1 土地契約書:張宝昌が土地を張栄昌に貸した契約書 宣統4(1912)年3月15日
CZ2 土地契約書:白受爵が土地を富興に貸した契約書 宣統4(1912)年4月25日
CZ3 土地契約書:張玉清が土地を程忠富に貸した契約書 中華民国3(1914)年正月27日
CZ17 中華民国24(1935)年に民国政府より発行した「買契」と「契紙費収拠」(領収書)
(貸主は卜喜禄、借主は白文錦、中華民国4[1915]年腊月[12月]11日に貸した土地契約書を添付) 中華民国24(1935)年10月26日
CZ18 中華民国24(1935)年に民国政府より発行した「買契」と「契紙費収拠」(領収書)
(貸主は存良厮、借主は白文錦、中華民国10[1921]年腊月[12月]4日に貸した土地契約書を添付) 中華民国24(1935)年10月26日
(中略)
CCh1 不動産契約書:シレート・ジョーが建物を慶源和(商号)に貸した契約書 [チンギス・ハーン]紀元734(1939)年11月
CCh2 不動産契約書:シレート・ジョーの「古什達倉」の執事ラマが建物を天成齋(商号)の謝振江に貸した契約書 チンギス・ハーン紀元734(1939)年11月29日
CCh3 財産分配契約書:張海朱がえた財産の内容にかかわる契約 チンギス・ハーン紀元735(1940)年新正月27日
(中略)
CCh17 不動産契約書:復興昌(商号)がシレート・ジョーから建物などを借りた契約書 チンギス・ハーン紀元738(1943)年陰[暦]3月12日
CCh18 不動産契約書:シレート・ジョーの仏爺府が建物などを振興号(商号)に貸した契約書 チンギス・ハーン紀元738(1943)年陰7月2日
CCh19 不動産契約書:麦香村(商号)と契約のある者が建物などを麦香村に貸した契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年
CCh20 不動産契約書:長盛碾房の段登科がシレート・ジョーの末寺永安寺の「古什達倉」の執事ラマから建物、庭などを借りた契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年
CCh21 不動産契約書:シレート・ジョーの末寺永安寺の「古什達倉」の執事ラマが建物などを長盛碾房の段登科に貸した契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年
CCh22 不動産契約書:義順誠(商号)がシレート・ジョーの東倉の執事ラマから建物を借りた契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年陰暦1月1日
(中略)
CCh38 不動産契約書:福和記(商号)が[シレート・ジョー]から建物を借りた契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年陰暦7月朔日
CCh39 不動産契約書:新興館(商号)がシレート・ジョーの仏爺府から建物を借りた契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年8月1日
CCh40 不動産契約書:華記袜場(商号)がシレート・ジョーの東倉から建物を借りた契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年9月20日
CCh41 不動産契約書:永成久(商号)がシレート・ジョーの大殿から建物を借りた契約書 チンギス・ハーン紀元739(1944)年10月1日
(中略)
CCR1 綏遠省帰綏県土地房産所有証
綏遠省帰綏県が美岱村の武海羅など5人にあたえた土地・不動産所有証明書 1953年元(1)月30日
CCR2 綏遠省托克托県土地房産所有証
綏遠省トグト県が城関鎮の王福など5人にあたえた土地・不動産所有証明書 1953年12月1日
内容説明
漢族の移住や農耕地の拡大、経済発展に伴うモンゴル族の定住化もあって、内モンゴルの土地問題は潜在的な政治的・民族的マグマとなっている。本シリーズは、散逸し消滅しつつある貴重な土地所有関連古文書の影印集成。第一集は乾隆2年~1953年に至る200余年の土地権利書、契約書等126点を収録し、解説を付す。
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解説より抜粋
2.本資料集に収録された文書の内容と特徴
本資料集は、内モンゴル西部地域の民間に散逸し、消滅の危機に陥っている、18世紀から20世紀前半までにつくられた土地資料を主としている。清朝時代、中央と地方政府、およびモンゴルの貴族は、しばしばモンゴルの寺院に土地をあたえていた。清末になると、モンゴルの寺院の所有する土地や建物は相当の規模になっていた。これらの土地や建物は寺院の財産として、民国初期にも、満洲国時代、デムチグドンロブ王(徳王)の蒙疆政権時代にも、さらには第2次世界大戦終結後にも維持されていた。したがって、内モンゴルの土地問題を直視するとき、モンゴルの仏教とかかわらざるを得ない。本資料集に収録される資料のなかも、おおくの仏教と関連する文書がふくまれる。
内モンゴル西部とは、清代内モンゴルの西三盟すなわちシリーンゴル盟、オラーンチャブ盟、イフジョー盟、およびチャハル部、アラシャー・ウールト旗、エジネ・トルグート旗、トゥメド左右翼旗、すなわち現在の内モンゴル西部の2盟、6市を指す(38)。陰山(大青山)は同地域の中部を貫く。歴史上、陰山より北部地域はひろい草原であり、南部地域も黄河をもっているため、水も土も豊かで美しい地域で、歴代の王朝に重視されていた。
清朝初期、朝廷は、内地の漢人の内モンゴルへの入植を禁止していた。陰山より北の地域、とりわけシリーンゴル盟は基本的に牧畜業を中心としていた。陰山より南の地域も、「土地が広く、人が少ない。モンゴル人は完全に遊牧、狩猟を中心としている。たまに少数の漢人の商人がやってきて商売をし、若干、土地を借りて農業をおこなうとしても、春にやってきて、秋には内地にもどり、みなよそ者であった。モンゴル地域は果てしない野畑であって、村落は形成されていなかった」(39)。
順治8(1651)年、人口の圧力などをかんがみ、清政府は、「民のなかに、(山海)関を出て、土地を開墾したい者がいたら、名簿をつくって、上部に報告しよう」という命令をくだし、山海関をこえて、東北地域への入植を許可した(40)。順治10(1653)年、清政府はまた「遼東招民開墾授官例」を頒布し、東北地域への入植をすすめた(41)。ただし、ここでの入植先は主に東北地域に限定され、内モンゴルを指しているわけではなかった。入植は14年間にわたり実施されたが、朝廷は、利益より弊害のほうがおおきいことを認識し、康熙7(1668)年に、同法を廃止し、「民を招きよせることをやめて、東北地域を閉鎖する」と決めた。また、山海関や喜峰口など9の関所の役人に、「関をとおることを断固禁止する」と命じ、内地の農民の東北への入植を途絶させた(42)。
すでに知られているように、清朝政府は、雍正年間(1723~35年)に、連年の自然災害や大飢饉に陥った山東・河北・山西・陜西などの地域の漢人被災者の活路を解決するため、かれらの内モンゴルへの移住、入植をゆるし、いわゆる「借地養民」政策の実施をはじめた。ただし、当初、漢人農民のこうした耕作は、春から秋までと限定され、内モンゴルで年を越すことは認められなかった。
雍正13(1735)年、清政府は大臣通智等を帰化城に赴かせ、「土地を調べ、良地をえらび、城を築き、屯田させる。帰化城トゥメド督統ダンザン(丹津)、ゲンデン(根敦)に協力させる」と命令した(43)。ただし、ここでいう「屯田」は、兵士が駐屯し、有事には戦い、平時には土着して耕作に従事するということを指し、漢人農民にそこで自由に開墾させることではない。指摘しておきたいのは、綏遠城を構築する工事はこのときまだおわっておらず、綏遠将軍もまだこの城に駐留していなかったということである。乾隆元(1736)年、清政府は帰化城の北部に馬牧場を設置し、ダンザンに管理させ、馬を養わせ、牧畜をおこなわせていた。乾隆3(1738)年、朝廷はまた、大青山北部に10の馬牧場をもうけ、綏遠城に駐屯する軍隊の牧場とした。乾隆4(1739)年、綏遠城が落成し、綏遠将軍が同城に進駐した(44)。
内モンゴルにおける土地開墾の推進にしたがって、本来、冬には内地にもどらなければならなかった漢人農民たちは、各自のふるさとに帰らず、内モンゴルで定住化してしまい、その数はますます増えた。これは、モンゴルの盟、旗の側につよく反対された。そこで、清朝政府は、乾隆13、14(1748、1749)年に数回をわたって、漢人農民の土地開墾の拡大や典売禁止などの「封禁令」を発布した(45)。しかし、許可をえず、無断でひそかに内モンゴルに侵入し、土地を開墾する漢人の農民はおおかった。さらに、清朝末期、とりわけ、光緒27(1901)年から、内地農民の内モンゴル地域への移住や牧草地の開拓を奨励する「移民実辺」政策が清朝政府によって促進され、漢人はぞくぞくと押しよせてきて、開墾された土地も激増した。
内モンゴルの土地はモンゴル人の所有するものである。清政府は、順治5(1648)年にはじめて「モンゴルの土地を5等にわけ」、土地の肥沃によって、モンゴル人に土地をあたえはじめた(46)。時代がたつにつれて、モンゴル人の土地も数種類にわけられ、名称もさまざまであって、たとえば、「内倉地」「外倉地」「戸口地」などがあった。これらの名称は清朝時代に形成されたのである。「内倉地」はモンゴルの王府に属する土地であり、「外倉地」は旗公署に属する土地である。清政府がモンゴルの兵士たる「箭丁」にあたえた土地は「戸口地」であり、政府とモンゴルの王公貴族が平民にあたえた生計を維持するための土地は「養善地」という。寺院が所有する土地は「召廟地」(「香火地」)であり、閑散王公すなわちジャサグの称号をもっていない、世襲の貴族がもつ土地は「閑散王公私有地」とよぶ(47)。このほかにも「租銀地」「随缺地」「恩賞地」などがあるが、一つ一つとりあげない。
漢人がモンゴルの土地を借りて耕作するには、モンゴルの旗衙門、あるいは墾務機関の許可を得て、契約をむすび、記録にとどめる必要があった。このように、漢人が内モンゴル地域に進出して開墾し、モンゴル人と漢人の間にさまざまな土地賃貸関係が形成された。このような土地賃貸関係の成立は、最初、モンゴルの地方政府や土地開墾の責任を負う墾務機関の管轄下でおこなわれ、そのむすばれた契約書には政府の官印が押されている。政府の官印は赤い色になるので、のちに民間では、こうした政府の官印が押された契約書(執照)を「紅契」とよばれている。しかし、事実上、公的機関の指導を離れて、民間でひそかに結ばれた私的な土地契約関係もすくなくなかった。政府の記録にとどまらず、許可なしで、民間で個人的にむすばれた契約書は、政府の赤い色の官印が押されていないため、「白契」とよぶ。
うえにも述べたように、これまで、中国で出版された清朝以降の、内モンゴルの土地問題と関連する資料集のほとんどは中国の各文書館(档案館)所蔵の公的な文書である。中国の公文書館に所蔵されている土地関係の文書とことなり、民間でむすばれた土地契約文書は独自性をもっており、その形式、内容も多様である。本資料集に収録される土地契約書は、政府の官印が押された「紅契」のほか、さまざまな「白契」や、土地と関連する寺院の史料などがふくまれる。
モンゴルの旗衙門や、漢人の入植を管理する墾務機関は、内モンゴルに移住してきた、土地を開墾する漢人農民から「押租銀」などを徴収していた。モンゴルの旗におさめる「押租銀」などは、のちに“蒙租”と呼ばれるようになった。“蒙租”の徴収方式と支払い額は、時代や地域によって変わった。このことは、本資料集に収録された土地契約書、帳簿、上申書などにも反映されている。
民間に残る土地、寺院関係の資料をとおして、わたしたちは、18世紀から20世紀半ばまでの、内モンゴル西部地域におけるモンゴル人と漢人の土地賃貸契約が実際どのように結ばれたのかを知ることができる。これは、当該地域の土地制度の特質、およびモンゴル人と周辺民族との社会・経済・商業関係、生業・人口・環境変動の実態などを研究、理解することにおいて重要である。また、モンゴル語文献史の研究においても有意義だとおもわれる。
しかし、中国の「土地改革」運動と文化大革命のとき、こうした土地関係の文書はおおく焼却された。民間に残されているわずかのものも、経年劣化の問題に直面している。とりわけ、「西部大開発」が急速にすすむなか、当地域の民間に残されているこれらの土地文書は、商品として売買され、消滅しつつあることは、より深刻な問題である。したがって、内モンゴルの民間に散逸しているこれらの土地、寺院関係の資料を収集し、整理、出版することはわたしたちの当然ひきうけるべき責任である。
この十数年間、わたしたちは、内モンゴルの西部地域で、おおくの土地、寺院関係の資料を収集した。現在、そのうちの約500点、2000ページ(枚)ほどを整理した。今回、第一集として、そのうちのモンゴル語資料44点、中国語の資料81点、マンジュ語と中国語でかかれたもの1点、計126点を影印し出版する。そのうち、契約書に官衙の承認をえたものをあわせたものや帳簿、折りたたみの文書、明細書などは、いずれも1点として計算している。年代からみると、乾隆2(1737)年から1953年までのものになる。
モンゴル語の資料44点のほとんどは、寺院の土地、建物、帳簿、明細書、書簡などである。そのうち清朝時代のものは31点あり、MQ1~31の番号で示した。中華民国期(チンギス・ハーン紀の文書をのぞく)のものは2点あり、MZ1~2と分類した。チンギス・ハーン紀でかかれたものは9点があり、MCh1~9で示した。干支で表記した、あるいは年代不明のものは2点あり、MD1~2で示した。マンジュ語と漢語でかかれたものは1点あり、Man-C1という番号にした。漢語の資料は81点あり、そのうち、清朝時代のもの11点はCQ1~11、中華民国時代のもの20点はCZ1~20、チンギス・ハーン紀でかかれたもの48点はCCh1~48、中華人民共和国成立後のもの2点はCCR1~2と分類した。
すべての資料は年代順にならべ、本来の年号でかかれたものに西暦も付けくわえた。干支で表記された、あるいは年代不明のものは、推測した年代を書き、「?」で記している。
本来の資料にタイトルがあったものを、そのままそのタイトルをつかい、タイトルがないものは、便宜的にタイトルをつけた。
本資料集でいう、内モンゴル西部地域の民間の土地関係契約文書とは、当時の役所によってつくられた土地権利書だけではなく、モンゴル語と漢語でかかれた土地契約書、土地帳簿、明細書、寺院の土地をめぐりモンゴル人僧侶と漢人農民・商人の間で結ばれた土地文書などもふくまれる。
本資料集の内容や特徴などを説明するため、わたしたちはそのなかの代表的ないくつかの資料を簡単に分析していきたい。
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編著者略歴
チョイラルジャブ(Choiraljav,却日勒扎布)
内モンゴル大学教授。
中国・内モンゴル自治区出身。
主な著書に、Mongγol uran ǰokiyal-un teüke, (qamtu-bar), Öbör mongγol-un surγan kümüǰil-ün keblel-ün qoriy-a, 1984 (共編『モンゴル文学史』内モンゴル教育出版社、1984年)、Köke sudur-un üliger, Öbör mongγol-un arad-un keblel-ün qoriy-a, 1987(『青い年代記の物語』内モンゴル人民出版社、1987年)、Mongγol Geser-ün sudulγan, Öbör mongγol-un surγan kümüǰil-un keblel-ün qoriy-a, 1992(『モンゴル・ゲセル研究』内モンゴル教育出版社、1992年)、Mongγol uran ǰokiyal-un teüke(erte oyir-a üye), (ded γol nayiraγuluγči), Liyaoning-un ündüsüten-ü keblel-ün qoriy-a, 1995(副主編『モンゴル文学史(古近代)』遼寧民族出版社、1995年)、MongGol sudulul-un nebterkei toli: udq-a jokiyal-un boti, (ded γol nayiraγuluγči, Öbör mongγol-un arad-un keblel-ün qoriy-a, 2002(副主編『モンゴル学百科全書・文学巻』内モンゴル人民出版社、2002年)、Qayilta-yin mör: Mongγol uran ǰ