17 海を渡った騎馬文化
馬具からみた古代東北アジア
同時代の朝鮮半島や中国東北部の考古資料を詳細に比較し、日本史最大の仮説の一つ「騎馬民族征服王朝説」の再考に挑む。
著者 | 諫早 直人 著 |
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ジャンル | 歴史・考古・言語 |
シリーズ | ブックレット《アジアを学ぼう》 |
出版年月日 | 2010/11/10 |
ISBN | 9784894897441 |
判型・ページ数 | A5・68ページ |
定価 | 本体800円+税 |
在庫 | 在庫あり |
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目次
一 騎馬文化の成立・拡散と韓国の「騎馬民族説」
1 「騎馬民族」とは?
2 騎馬遊牧社会の成立と騎馬文化の拡散
3 騎馬文化出現以前の朝鮮半島
4 伝播した「騎馬民族説」――韓国の「騎馬民族説」
5 馬具からみた朝鮮半島における騎馬文化の導入
二 古代東北アジアにおける装飾騎馬文化の成立と拡散
1 慕容鮮卑における装飾騎馬文化の成立
2 高句麗における受容と展開
3 新羅における受容と展開
4 加耶における受容と展開
5 百済における受容と展開
三 日本列島における騎馬文化の受容と展開
1 倭における騎馬文化の受容
2 倭における装飾馬具生産の開始
おわりに――なぜ騎馬文化は海を渡ったのか
注・参考文献
内容説明
古墳時代に移入された馬とその文化。同時代の朝鮮半島や中国東北部の考古資料を詳細に比較し、日本史最大の仮説の一つ「騎馬民族征服王朝説」の再考にも挑む野心作。ブックレット《アジアを学ぼう》17巻。
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はじめに 「騎馬民族説」の呪縛
馬(ウマ)は、わたしたち人類の歴史を語る上で欠くことのできない動物の一つである。交通・運輸・戦争・農耕などに果たしてきた馬の歴史的意義について書かれた書物は、枚挙にいとまがない。右の童唄は、銃火器が普及していた一七世紀のヨーロッパにおいてすら、依然として馬が国家の存亡をわける存在として広く認識されていたことをよく示している。
しかしながら、ほかの家畜と同じく本来は狩猟の対象であったこの動物が、いつ、そしてどこで家畜化されたのかについてはまだよくわかっていないことが多い。ただ、野生馬がどこにでも生息していたわけではないこと、馬よりも先行してヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタといった動物の家畜化が西アジア一帯で起こったと考えられていることから、馬の家畜化は、野生馬の生息するユーラシア草原地帯にそうした家畜化の技術が伝わったことを契機として始まった可能性が高い[クラトン=ブロック 一九九七など]。すなわち、こんにち世界の至るところで馬を目にすることができるのは、もちろん馬自身の高い環境適応能力を前提とするものであるが、それ以上に馬を連れて移動した人間の長い営みの賜物といえる。とりわけ海によって隔離された地域に馬が移動するためには、人間の関与は不可欠であったであろう。馬は、家畜としての有用さゆえに、人間と共に、その生息範囲を世界中に広げていったのである。
ユーラシア大陸の東端に浮かぶ日本列島も、人間に伴われて馬が生息範囲を広げた地域の一つとされる。その渡来時期については、かつては縄文~弥生時代の貝塚から出土した馬歯をもとに「縄文馬」の存在を認める見解が多数派であった[長谷部 一九三九、直良 一九七〇、林田 一九七四など]。しかし、フッ素分析法による馬歯の年代測定や出土層位に対する再検討の結果、現在では古墳時代以前に遡る確実な例はないとする見解が一般的である[松井 一九九〇、佐原 一九九三など]。これは『三国志』魏書東夷伝倭人条にみえる「其の地に牛馬虎豹羊鵲無し」という記録とも矛盾しない。今から六〇年前に、馬の本格的な渡来開始時期を騎乗に用いるための馬具が墳墓に副葬されはじめる古墳時代中期以降とみた小林行雄氏の見解は、今後若干遡る可能性はあるとはいえ、今日もなお有効であろう[小林 一九五一]。
この日本列島における騎馬文化の出現について、かつて江上波夫氏は、大陸からの「騎馬民族」移動の産物と解釈した。いわゆる「騎馬民族征服王朝説(以下、「騎馬民族説」と表記)」である。それは一九四八年五月、東京お茶の水の小さな喫茶店で石田栄一郎氏の司会のもと、岡正雄氏、八幡一郎氏とおこなった「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という座談会の中で初めて提唱された(写真1)。その席で江上氏は六つの理由を挙げた上で、「前期古墳文化人たる倭人が自主的な立場で、騎馬民族的大陸北方系文化を受入し、その農耕民的文化を変貌せしめたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し、直接日本に渡来侵入し、倭人を征服支配した或る有力な騎馬民族があつて、その征服民族が以上のような大陸北方系文化複合体を自ら帯同して来て日本に普及せしめたと考える方が、より自然であろう」と結論した[石田ほか 一九四九:二四〇(江上発言)]。その理由とは、次の通りである。
(1)(弥生式文化ないし前期古墳文化と後期古墳文化とが互に:筆者補注)根本的に異質的なこと
(2)その変化が急激で、その間に自然な推移の迹を認め難いこと
(3)一般的に見て農耕民族は己れの伝統的文化に固執する性格が強く、急激に他国或は他民族の異質的文化を受入して、己れの伝統的な文化の性格を変革させるような傾向は極めて少ないこと、農耕民たる倭人の場合でも同様であつたと思われること
(4)後期古墳文化がHerrentum(王侯貴族:筆者補注)的、騎馬民族的文化で、その伝播普及が武力による日本の征服支配を暗示せしめること
(5)わが国における後期古墳文化の大陸北方系複合体は大陸及び半島におけるそれと全く共通し、その複合体のあるものが部分的に、或は選択的に日本に受入されたと認め得ないこと、換言すれば大陸北方系騎馬民族文化が一の複合体として、そつくりそのまゝ、何人かによつて日本に持ち込まれたものであらうと解されること
(6)弥生式文化乃至前期古墳文化の時代に馬牛の少なかつた日本が、後期古墳文化の時代になつて、急に多数の馬匹を飼養するようになつたが、これは馬だけ大陸から渡来して人はこなかつたとは解し難く、どうしてもこれは騎馬を常習した民族が馬を伴つて多数大陸から日本に渡来したと考察しなければ、不自然なこと
世界史的視野から天皇家のルーツを大陸北方系(具体的には夫余系)の騎馬民族に求めるこの壮大な仮説は、それが提唱された当初から大きな反響を呼び、賛否両論激しい議論が繰り広げられてきた。紙幅の限られた本書において、その研究史を詳細に振り返ることは避け、ここでは本書の立場を明確にするために、その一連の議論の問題点を一つだけ指摘しておきたい。
それは、日本列島の騎馬文化と密接な関係があったであろう東北アジア各地(図1)、とりわけ朝鮮半島の騎馬文化に対する理解の欠如である。すなわち、日本列島における騎馬文化の出現契機を、朝鮮半島からの「騎馬民族」の侵略に求めた江上氏の研究も、日本考古学の立場からこれに反論し、その契機を「大和政権」の朝鮮半島における軍事活動に求めた小林氏らの研究も[小林 一九五一、小野山 一九五九など]、残念ながら朝鮮半島で展開した騎馬文化に対する深い理解に根差した議論ではなかった。朝鮮半島を騎馬文化の経由地、あるいは供給地とみる点において、一見対立的な両者の見解は共通する。もちろんそれを知るための考古資料がほとんど出土していなかった当時の解釈の欠陥を論うつもりは毛頭ない。問題は、その後徐々にとはいえ、着実に比較対象資料が蓄積していったにもかかわらず、日本国内の「騎馬民族説」を巡る議論は、同時期の中国東北部や朝鮮半島の騎馬文化と、いったい何が共通して、何が違うのか、という本質的議論へとはついに発展しなかったことにこそ求められる。
江上氏の「騎馬民族説」は、長年にわたる論争を通じてその問題点があぶり出され、今日それがそのままのかたちで成立する余地はないといってもよいだろう。しかし一方で、江上氏の指摘するように古墳時代中期に入ってそれまで馬の存在しなかった日本列島に突然、馬と騎馬の風習が伝来したこと自体は否定しようのない事実である。この、日本列島に突如として出現する騎馬文化は、大陸のどの地域との、どのような関係にもとづいてもたらされ、いかにして日本列島の広範な地域に広がっていったのであろうか。四周を海に囲まれた日本列島に馬を船で輸送し、それを極めて短期間のうちに日本列島に定着させた事実に思いを馳せるとき、そこにはやはり人間の組織的な意志を感じずにはいられない。本書は、この素朴な問いに対する私なりの答えであるといっていい。
「騎馬民族説」を批判する際に、しばしば「騎馬民族は来なかった」が、「騎馬文化は来た」というフレーズが用いられる。なるほどそのとおりかもしれない。しかし繰り返しになるが、騎馬文化がいつ、どこから、なぜ伝わり、それがどのように日本列島に受容されていったのかを考古資料にもとづいて明らかにしない限り、今から半世紀以上も前に提示された仮説に過ぎない「騎馬民族説」は、これからも亡霊のように存在し続けるであろう。事実、次節で詳しくみるように、「騎馬民族説」は韓国の学界において今もなお有力な仮説の一つとして存在し続けている。もし仮に、朝鮮半島に「騎馬民族征服王朝」が存在したのであれば、当然、日本列島の「騎馬民族説」の問題にも直接的な影響を与えるにもかかわらず、日本国内においてこの韓国の「騎馬民族説」を真正面から取り扱った研究は、皆無であったといってよい。そこには日本史、朝鮮史(韓国史)、あるいは日本考古学、朝鮮考古学(韓国考古学)というそれぞれの枠組みを越えて議論することに対する躊躇や遠慮があったのかもしれない。しかし、あとで詳しくみるように「騎馬文化が来た」という点では、朝鮮半島もまた日本列島と同じであったことをふまえれば、両地域における騎馬文化の出現はそういった既存の一国史の枠組みを越えて、東北アジアを一つの単位とする一連のプロセスとして理解してみる必要があるのではないだろうか。いまからおよそ一六〇〇年前にユーラシア大陸の東端で起こった騎馬文化東漸のメカニズムは、かつて江上氏が「ミッシング・リンク」とした東北アジア各地から、陸続と出土し続けている考古資料をもとに再解釈する必要がある。本書の議論を通じて、「騎馬民族説」に代わる新たな騎馬文化伝播モデルの提示を目指したい。
なお、本書で用いる「東北アジア」の空間的範囲は、日本列島古墳時代中期に導入される鏡板轡(板状の銜留をもつ轡)を指標とする装飾性の高い騎乗用馬具の主たる分布範囲である中国東北部、朝鮮半島北部・南部、日本列島中央部(以下、日本列島)としておく。また本書では、歴史的文脈においては先述のように中国東北部、朝鮮半島北部・南部、日本列島と表記するが、研究史的文脈においては中華人民共和国(以下、中国)、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)、大韓民国(以下、韓国)、日本国(以下、日本)と現在の国家単位に表記する。時期については、できる限り暦年代による表記を心がけるが、地域史(一国史)的な脈絡においてはそれぞれの国・地域で用いられている時代区分を併用することとしたい。それらのおおよその併行関係を示したものが図2である。
また本書では騎馬文化というやや漠とした内容を扱うことになるが、実際にはほぼ馬具に限定した議論になることを予めお断りしておきたい。もちろん各地の騎馬文化を復元しうる考古資料はほかにもあるだろうが、広範な地域の騎馬文化を一貫した視点で論じようとする際、現状では馬具以上に精緻な議論をおこないうる資料が見あたらないからである。なお本書で扱う主な騎乗用馬具の名称については図3・4を参照されたい。
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著者紹介
諫早直人(いさはや なおと)
1980年東京生まれ。
京都大学大学院文学研究科歴史文化学専攻考古学専修博士後期課程修了。博士(文学)。
日本学術振興会特別研究員PD(京都大学人文科学研究所)を経て、現在、独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員。
主な論著に「古代東北アジアにおける馬具の製作年代」(『史林』第91巻第4号、2008年)、「東アジアにおける鉄製輪鐙の出現」(『比較考古学の新地平』、同成社、2010年)、「日本列島初期の轡の技術と系譜」(『考古学研究』第56巻第4号、2010年)などがある。